鷹峯の声掛けと共に怯えた表情で部屋へとやって来たのは、若女将の瀬山だった。そしてその影に隠れるようにして、一人の少年も一緒に入室した。


「っ、その子ども!?」


「おや、桜井君もご存知でしたか、その少年?」


鷹峯はさして驚いた様子もなく、少年を見下ろす。

「ああ、部屋で一人になった時、そいつが側に立って……そうだ、何かを呟いて……」

入浴後の微睡みの中で突如現れた少年。今の今までその存在すら忘れていた。

このまま出会わなければ夢と思い込むどころか、少年のことなど思い出しもしなかっただろう。


「催眠、です……」


ぽつりと、そう口にしたのは瀬山だった。


「催眠術なんです……うちの先祖は代々祈祷師の家系で……その実は心理学と催眠療法に長けた、所謂カウンセラーのようなものでした」


俯いたまま瀬山の語り出した真実に、恭平は信じられないと言うように目を見開き鷹峯を仰ぎ見る。鷹峯はというと、飽きれたような小馬鹿にしたようないつもの調子で肩を竦め、瀬山に続きを促す。


「先代の腕もとても素晴らしいものでしたが、この子は……息子の蓮は、読心術と催眠術の才覚を持って生まれた逸材でした」


瀬山が少年、蓮の頭を撫でる。彼はそこでおずおずと母親の後ろから顔を出した。


「そこのお姉ちゃん、悲しそうなお顔していたから……」


蓮は怯えた表情で恭平と鷹峯を交互に見やると、続いて恭平が布団に寝かせた雛子を見つめ呟く。


「初めて見た時、すぐに悲しいお顔って分かった……。だからお姉ちゃんをずっと見てた……。一人でお風呂に入っている時も、お腹の傷を気にして皆とお風呂に行けないみたいだった……それに……」


それに、お姉ちゃんは、そこのお兄ちゃんのことが────。


蓮がちらりと恭平を見遣り、何かを口にしようとする。しかしそこで、瀬山がやんわりとそれを遮って首を横に振った。


「だからこの子は、彼女が過去のことを忘れて、皆さんにも気付かれないよう催眠をかけたのです……」


「い、いや、ちょっと待て」

当然のように説明された事実に頭が着いていかず、恭平は一旦瀬山の言葉を制す。

「それじゃあ、俺達は皆催眠状態だったって言うのか? いくら何でもバレずに全員に催眠をかけるなんて……考えられない」

必死に頭を働かせている恭平を他所に、鷹峯はやはり飄々とした面持ちで一連のやり取りを傍観していた。

ここに来てから恭平はやたらと頭の回転が落ちてイラついているというのに、この男と来たら特段普段と変わりのない様子だ。

天才はやはりどこまでいっても天才か。八つ当たりも兼ねて、恭平は鷹峯にまで内心舌打ちをする。

「それは、この土地も関係しているんです」

恭平の心の葛藤も知らず、瀬山はこの温泉地の歴史について二人に説明する。

この地に湧き出る温泉には、古来より幻覚作用や自白作用があること。それも成分の揮発性が高く、源泉から離れた宿では効果が薄まること。

この旅館は、この温泉地の中でも最も源泉に近いということ。そして館内ではその温泉の揮発性を活かして作られた特殊な香を焚いており、温泉と併せて館内全域で催眠状態に陥りやすくなっているということ。

「催眠のかかった状態で、自白作用……つまり嘘が付けなくなったり、気持ち的に開放的になるので旅行者達もお互い腹を割って話せるようになり、仲が深まると言われているのです」