憂鬱な気持ちのまま、雛子は別の業務をこなす。そうこうしている間に、リーダーからPHSに連絡が入り塔山の帰棟が告げられた。

「え……早くないですか?」

ステーションに戻った雛子は、絶望的な顔でそう宣う。

「ん? まぁ“たかが”抜釘だからね。それにオペ室もリカバリールームも本院から来たあのボンボンが頑張っちゃってるせいで満員御礼なんですって。どんどんベッド回転させていかないとなのよ」

「そうですよね……」


ボンボン、というのは、本院から来た院長の放蕩息子である。

しょんぼりと肩を落としたまま、雛子は仕方なくオペ室に塔山を迎えに行く。

前室に入りオペ室看護師に送りをもらうと、雛子は指定されたベッドへと向かう。そこには術後とは思えない晴れやかな笑顔を浮かべた塔山が横たわっていた。

「やぁハニー! 君のダーリンが無事に帰ってきたよ!」

「お、おかえりなさい……お疲れ様でした……」

(ダーリンて……なんかますます大袈裟に拍車がかかっているような……)

突っ込むのは止めておこう。雛子は引き攣った笑みで返しながら、塔山の乗ったベッドを病棟に運んでいく。

本当なら逃げ出したくなるくらい鳥肌モノなのだが、一応術後の患者であるため無下には出来ない。

雛子の中に芽生えた、看護師としての小さなプライドだ。







病室に到着すると、雛子は塔山のベッド周りの環境整備を行い、準備しておいたクーリングを創部の下に置いてやる。

「おお、痛みが和らぐよ。君は本当に白衣の天使だね、子猫ちゃん」

「あはは……」

(こんな台詞を素面で言う人間が本当にこの世に存在するのか……)

一周回って、雛子は塔山に関心するような気さえした。そして同じ台詞を、今度は恭平の声で脳内再生してみる。



『君は本当に白衣の天使だね、子猫ちゃん。さぁ、俺の腕の中においで。たっぷり可愛がってあげるよ』



「っ……」


かなり盛って想像を試みた。

(そういえば篠原さんにも甘い台詞口にしてたな……)

確かに歯の浮くような台詞ではあるが、恭平に言われたことを思うと砂糖菓子のように甘く感じられる。

雛子は思わず熱くなった頬を両手で押さえた。

「ふふふ、赤くなって可愛いね。ところでさっきの話だけど」

(はっ、来た……!)

塔山の言葉で現実に引き戻され、咄嗟に身構える雛子。

「二十四日の日勤終わり、新宿の夜景が見えるレストランを予約しておくからね」

「はぁっ!?」

雛子の返事も待たず、まるで決定事項かのように塔山は言ってのける。しかも何故かシフトまで把握されていた。

「こ、困ります! 看護師として個人的に患者さんと会うわけには……」

「それは問題ないよ。既にこの病院の院長と看護部長には許可をもらっているからね」

「いやいやだから……はい?」

雛子の頭の上にたくさんのハテナが飛び交う。もはや思考回路がショート寸前の雛子を他所に、今度は騒々しいノックの音が聞こえる。

「どうぞ」

塔山の返事とともにやって来たのは他でもない、院長と看護部長であった。この二人が揃って術後の患者の部屋へ訪れる展開に、ますます訳が分からなくなる。

「やぁ、わざわざどうも」

塔山が点滴の入った右手を上げると、二人はまるで印籠を目にした小悪党かのように床まで頭を下げながら近付いてきた。

「いやいや! それより体調は如何ですか!?」

「本当にこんな一般病棟の個室で宜しかったんですか!? いつものVIPルームもご用意できましたのに……」

口々にそう告げる二人に、塔山は笑顔になる。

「いや、ここが良かったんだよ。雨宮雛子さんのいるここがね。それも担当につけてくれるなんて、何て心憎い演出なんだろう!」

三人の会話をただ眺めていた雛子であったが、その中でようやく話が見えてきた。

とどのつまり、外来で声をかけた雛子に塔山が一目惚れし、急遽雛子のいる8A病棟に入院したいと我儘を言い出し現在に至ったようだ。

「いやぁ〜まさか塔山商事のご子息である優次郎さんがうちの雨宮を気に入って下さるとは。良かったな、雨宮君」

院長が愉快そうに雛子の肩を叩く。三人が談笑する中、雛子一人が置いてけぼりだ。

「とにかく、クリスマスイブは彼女と素敵な夜を過ごそうと思っているんだ。君達も若い二人の行く末を暖かく見守っておくれよ」

そう言って、塔山はまた朗らかに笑ってみせた。何だか怖くなった雛子は、この場から逃げ出そうとドアへ向かって後ずさる。

廊下まであと一歩まで下がった時だった。

とん、と背中にぶつかる感覚。

慌てて振り返ると、そこには昨日と同じ、無表情の恭平が立っていた。

「……顔赤くしちゃって。なーんだ、案外満更でもなさそうじゃん」

「えっ!? ……そんなわけないじゃないですか!?」

恭平の言い草に小声で抗議する。しかし恭平の表情は変わらない。

「良かったな、どこぞの御曹司に気に入られて」

それだけ言うと、恭平はくるりと踵を返して去っていく。雛子は大慌てで彼の後を追う。

「あ、あ、あのっ、待ってくださいよ、私っ……!」

恭平の顔を覗き込んだ雛子は、思わず言葉の続きを飲み込んだ。

彼の視線が、信じられないくらい冷たく雛子を射抜いたからだ。その恐怖に、身体が硬直する。

「……そろそろ自分で何とかしろって、昨日も言ったはずだけど。本当に困ってるならな」

「……っ」

昨日助けてくれた時とは打って変わって冷たい態度に、雛子は再び彼を頼ろうとした自分を恥じた。

「そ、そうですよね……すみません、私つい、桜井さんに頼ってばかりで……」

タイミング良く恭平のPHSが鳴り、彼はそれに対応しながら大股で去っていった。雛子は追いかけることも出来ず、ただ遠ざかる背中を見つめた。