数日後、時刻は朝八時過ぎ。
病棟の片隅で、雛子と恭平は膝を突合せて椅子に座る。雛子の方は些か緊張した面持ちで、くりくりとした大きな目をさらに大きくし、下唇をきゅっと噛んでいる。
「というわけで、日勤業務のおさらいをしマース。今日から患者の受け持ち開始なので」
恭平は人差し指を一本立て、何でもないことのようにそう告げる。
「は、はい! よろしくお願いします!」
日勤の流れはこうだ。
まず業務前に午前分の内服や点滴があれば確認しておく。八時三十分に申し送りがスタートし、業務開始時刻となる。
その後夜勤から引き継ぎを行ったら、バイタルチェックと清潔ケアに回る。
「バイタルチェックの回数と清潔ケアの方法は患者によって違うから事前にカルテを見ておく。バイタルと体調によってはケア方法の変更も有り得るから事前評価して」
それが終われば午後分の薬の確認と点滴交換。午後は残りの清潔ケアと記録が中心となる。
「あとはそれぞれの患者に抗生剤や抗がん剤などの治療薬や経管栄養、創処置、検査、手術なんかが固定スケジュールの間に挟まってくる感じだ。そうそう、記録はなるべくタイムリーに入力すること。あ、入院患者の受け入れをする事もあるから少し余裕を持って行動できればなおよし」
「はい……が、頑張ります〜……」
既に頭の中で幾何学模様がぐるぐると回り始めた雛子に、恭平は少しだけ口角を上げ表情を和らげる。
「とりあえず、ひなっちの受け持ちは処置や検査のない簡単な人だから。患者の情報は取れたか?」
「はい、情報は取れ……いや何ですかその『ひなっち』って」
雛子はそのワードに、幾何学模様の渦から現実に引き戻された。
「いや、珍獣よりはマシかなって。実際鳥のヒナみたいなもんだし。で、情報取れたんだよな?」
「鳥のヒナ……」
看護師としてひよっこ、というニュアンスなのだろう。プリセプターの恭平が親鳥で、雛子は雛鳥。
一見隙がなく仕事も完璧な恭平だが、時々思わず突っ込みたくなるような行動や言動を取る事がある。所謂天然と言うやつで、その一つ一つに深い意味はないに違いない。
たしかに珍獣よりはましか……。と納得してしまうあたり、大分この男に絆されている。
余計なところへ気が逸れそうになり、雛子は一つ咳払いをして恭平の問いに答える。
「えっと……小林さん八十六歳、既往に認知症があって、今回は胃腸炎による脱水で入院五日目です。経口摂取禁止で点滴加療後、入院三日目から経口摂取開始し順調に回復しています」
「やることは?」
「十二時に点滴のメイン交換と尿測、それからバイタルチェック、昼食後は既往の心不全に対する内服です」
雛子の読み上げた情報を聞き、恭平は何かを考えるように宙を見つめたあと、パソコンに向かって患者のカルテを開く。
医師の入力した指示には、『尿量測定とバイタルサインチェックは六時間ごと、尿量2000ml/日以下でDr.call』と記載されていた。
「何で六時間ごと?」
恭平は独り言のように尋ねてくる。
「え? えーっと……胃腸炎で脱水になったから……」
「違う」
被せ気味に否定された。理由など考えもせずただ情報を取った雛子は、為す術もなく言葉に詰まる。
「既往に心不全があるからだ。しかもこの指示は入院日ではなく昨日の準夜帯で付け足された指示だ。昨日のカルテを見ると、『尿量が少なく本人からも胸が苦しい』との訴えがある。臨時の検査ではデータ上ごく僅かながら心不全の悪化を認めている。念の為に尿測とバイタルの回数を増やしてインアウトを厳密に観察している。カルテを見る時は今日分だけでなく少し遡って見てみると良い。指示の意味もきちんと考えること」
恭平の淡々とした説明に、雛子は思わず目を輝かせる。
「分かりました、ありがとうございます!」
(さすが桜井さん! 格好良い……!)
後半は口には出さないものの、恭平への尊敬の念はますます深まっていく。目を輝かせている雛子に、恭平はしょうがないな、と言うように小さく笑う。
「まぁ測定が他の患者より多いとはいえ、今のところ状態も安定してるしやることも少ないから大丈夫」
「はい!」
「……と、思ったけど」
「……はい?」
カチカチと無意味にカルテをスクロールしていたかと思うと、唐突にその手を止めて恭平は雛子の方へと向き直る。
「やっぱり予定変更」
「え?」
言われた事が理解出来ずに思わず固まる。恭平は先程とは打って変わって苦い表情で舌打ちをする。
「この患者、たかみーが主治医だからな……」
(た、たかみー?)
雛子の頭の中に、ロン毛の派手なおじさんが浮かぶ。
「うん、やっぱりこっちの患者に変えよう。というわけで情報取り直して、十分で」
「は、はい! え! えっ!?」
雛子は反射的に時計を見る。時刻は八時二十分。
「無理です!」
「……恭平、さすがにそれは酷じゃない? 小林さん状態落ち着いてるわよ?」
夜勤の真理亜が通りかかり、今から受け持ちを変えるという恭平の暴挙に苦言を呈する。
「良いの良いの。ほら、さっさと情報収集頑張れ」
ブンブンと首を横に振る雛子に、恭平は「始業前の準備は俺がしといてやるから」と片手を上げて去っていく。
「さ、桜井さぁん! もう〜っ!!」
雛子は腹を括り、何とか患者の情報を拾い上げるのだった。
病棟の片隅で、雛子と恭平は膝を突合せて椅子に座る。雛子の方は些か緊張した面持ちで、くりくりとした大きな目をさらに大きくし、下唇をきゅっと噛んでいる。
「というわけで、日勤業務のおさらいをしマース。今日から患者の受け持ち開始なので」
恭平は人差し指を一本立て、何でもないことのようにそう告げる。
「は、はい! よろしくお願いします!」
日勤の流れはこうだ。
まず業務前に午前分の内服や点滴があれば確認しておく。八時三十分に申し送りがスタートし、業務開始時刻となる。
その後夜勤から引き継ぎを行ったら、バイタルチェックと清潔ケアに回る。
「バイタルチェックの回数と清潔ケアの方法は患者によって違うから事前にカルテを見ておく。バイタルと体調によってはケア方法の変更も有り得るから事前評価して」
それが終われば午後分の薬の確認と点滴交換。午後は残りの清潔ケアと記録が中心となる。
「あとはそれぞれの患者に抗生剤や抗がん剤などの治療薬や経管栄養、創処置、検査、手術なんかが固定スケジュールの間に挟まってくる感じだ。そうそう、記録はなるべくタイムリーに入力すること。あ、入院患者の受け入れをする事もあるから少し余裕を持って行動できればなおよし」
「はい……が、頑張ります〜……」
既に頭の中で幾何学模様がぐるぐると回り始めた雛子に、恭平は少しだけ口角を上げ表情を和らげる。
「とりあえず、ひなっちの受け持ちは処置や検査のない簡単な人だから。患者の情報は取れたか?」
「はい、情報は取れ……いや何ですかその『ひなっち』って」
雛子はそのワードに、幾何学模様の渦から現実に引き戻された。
「いや、珍獣よりはマシかなって。実際鳥のヒナみたいなもんだし。で、情報取れたんだよな?」
「鳥のヒナ……」
看護師としてひよっこ、というニュアンスなのだろう。プリセプターの恭平が親鳥で、雛子は雛鳥。
一見隙がなく仕事も完璧な恭平だが、時々思わず突っ込みたくなるような行動や言動を取る事がある。所謂天然と言うやつで、その一つ一つに深い意味はないに違いない。
たしかに珍獣よりはましか……。と納得してしまうあたり、大分この男に絆されている。
余計なところへ気が逸れそうになり、雛子は一つ咳払いをして恭平の問いに答える。
「えっと……小林さん八十六歳、既往に認知症があって、今回は胃腸炎による脱水で入院五日目です。経口摂取禁止で点滴加療後、入院三日目から経口摂取開始し順調に回復しています」
「やることは?」
「十二時に点滴のメイン交換と尿測、それからバイタルチェック、昼食後は既往の心不全に対する内服です」
雛子の読み上げた情報を聞き、恭平は何かを考えるように宙を見つめたあと、パソコンに向かって患者のカルテを開く。
医師の入力した指示には、『尿量測定とバイタルサインチェックは六時間ごと、尿量2000ml/日以下でDr.call』と記載されていた。
「何で六時間ごと?」
恭平は独り言のように尋ねてくる。
「え? えーっと……胃腸炎で脱水になったから……」
「違う」
被せ気味に否定された。理由など考えもせずただ情報を取った雛子は、為す術もなく言葉に詰まる。
「既往に心不全があるからだ。しかもこの指示は入院日ではなく昨日の準夜帯で付け足された指示だ。昨日のカルテを見ると、『尿量が少なく本人からも胸が苦しい』との訴えがある。臨時の検査ではデータ上ごく僅かながら心不全の悪化を認めている。念の為に尿測とバイタルの回数を増やしてインアウトを厳密に観察している。カルテを見る時は今日分だけでなく少し遡って見てみると良い。指示の意味もきちんと考えること」
恭平の淡々とした説明に、雛子は思わず目を輝かせる。
「分かりました、ありがとうございます!」
(さすが桜井さん! 格好良い……!)
後半は口には出さないものの、恭平への尊敬の念はますます深まっていく。目を輝かせている雛子に、恭平はしょうがないな、と言うように小さく笑う。
「まぁ測定が他の患者より多いとはいえ、今のところ状態も安定してるしやることも少ないから大丈夫」
「はい!」
「……と、思ったけど」
「……はい?」
カチカチと無意味にカルテをスクロールしていたかと思うと、唐突にその手を止めて恭平は雛子の方へと向き直る。
「やっぱり予定変更」
「え?」
言われた事が理解出来ずに思わず固まる。恭平は先程とは打って変わって苦い表情で舌打ちをする。
「この患者、たかみーが主治医だからな……」
(た、たかみー?)
雛子の頭の中に、ロン毛の派手なおじさんが浮かぶ。
「うん、やっぱりこっちの患者に変えよう。というわけで情報取り直して、十分で」
「は、はい! え! えっ!?」
雛子は反射的に時計を見る。時刻は八時二十分。
「無理です!」
「……恭平、さすがにそれは酷じゃない? 小林さん状態落ち着いてるわよ?」
夜勤の真理亜が通りかかり、今から受け持ちを変えるという恭平の暴挙に苦言を呈する。
「良いの良いの。ほら、さっさと情報収集頑張れ」
ブンブンと首を横に振る雛子に、恭平は「始業前の準備は俺がしといてやるから」と片手を上げて去っていく。
「さ、桜井さぁん! もう〜っ!!」
雛子は腹を括り、何とか患者の情報を拾い上げるのだった。