「抗がん剤のダブルチェックお願いします」
「……お、おう」
雛子が声を掛けると、恭平はタジタジといった様子で一歩後ろを着いてきた。
(ばっかみたい……そんなに気まずそうにするなら最初からあんなことするなっつーの!)
心の中で悪態をつきながら、雛子は手早くフェイスシールドとディスポーザブルガウンを身につける。
点滴バッグと物品をワゴンに乗せ、向かう先は東雲百合の病室だ。
恭平が雛子にちょっかいをかけたあの日から、雛子はしばらくの間恭平に冷たく接していた。
もちろん後輩でありプリセプティでもある雛子がガン無視を決め込むことは不可能だが、それでも業務外には目すら合わさなかった。
さすがの恭平も自業自得なだけに何も言ってはこなかったものの、雛子と恭平のパワーバランスがおかしくなっていることに周りは僅かにザワついた。
『ちょっと雨宮、桜井に対してあの態度はなんなの? いくらアイツがあんなだからって一応先輩なんだから、社会人として礼儀はしっかりなさい』
目上に無礼なところまでプリセプターに似なくていい、などと大沢から指導が入り、雛子は渋々態度を軟化させる事こととなった。
(まったく、桜井さんが悪いのに、何で私が怒られなくちゃならないのっ……!?)
納得いかなかったものの、もしかしたら世の中あの程度のお巫山戯はよくあることなのかもしれない。
時間が経つにつれ自分の感性に自信がなくなり、雛子はこの度、久しぶりに自分から恭平へと声を掛けるに至った。
「時間40でポンプ設定します」
「40……ん、OK」
ベッドサイドにて患者名や流量設定に間違いがないかのチェックを二人で行い、バーコードで認証する。
その様子を、百合はベッドに横たわったまま青白い顔でぼんやりと見上げていた。
「これでよし、と。百合ちゃん、この点滴が終わったらやっと二クール目の休薬期間に入るからね」
「はい……」
百合は消え入りそうな声で、けれども何とか笑顔を作り返事をした。
「やっぱりまだ吐き気は変わらない?」
入院した当初よりやや細くなった百合の顔を、雛子は心配気な瞳で見つめる。
彼女は抗がん剤の投与が始まってからというもの、次第に吐き気の訴えが酷くなっていた。
「休薬期間に入ったら少しマシになると良いんだけど……」
当初想定していたより吐き気が酷く、結局それが治まる前に二クール目が始まってしまっていた。百合は不安そうに目を伏せる。
「先生からも休薬期間中はマシになるはずだって聞いてたんですけど、思ってたよりも辛くて……ごめんなさい、こんな事で弱音を吐いて……」
「そんなことないよ」
雛子はそっと百合の手を握る。
「百合ちゃんは頑張ってる。弱音くらいいくらでも吐いて良いんだよ」
「雨宮さん……」
雛子の言葉に、百合はカサついた唇で「ありがとうございます」と呟いた。
「あれ」
繋いだ百合の手に、雛子はふと絆創膏が巻かれているのを見つけた。
「どうしたの、これ?」
「ああ」
雛子の視線に気が付いた百合が、恥ずかしそうにやや言い淀む。
「実は雑誌を捲っている時に紙で切ってしまって……おっちょこちょいで恥ずかしいです」
(百合ちゃん、可愛いなぁ……)
きゃっ、と両手で顔を覆った百合に、雛子は思わず微笑ましく思い心で感嘆する。
「大丈夫? 今骨髄抑制も強くなってきてる頃だから、血が止まりにくかったんじゃない?」
雛子がそう声をかけると、百合は大きな目をくりくりとさせながら何度も頷く。
「はい、ほんの小さな傷なのにそれはもう。聞いてはいましたけど、まさかここまでとは……本当に、治療を初めてからびっくりすることばかりです」
先程まで力なくぐったりしていたかと思えば、今度は心底驚いたような顔をしている。コロコロとその表情を変える百合に雛子も釣られて笑みを浮かべる。
「ふふふ。でもそんな時はすぐに看護師を呼んでね? ちゃんと止血するから」
百合が笑顔で返事をしたのを見届け、雛子と恭平は病室を後にした。
「……もう怒ってないの?」
「はぁ? 何言ってるんですか」
「いや、あの時の……」
「あの時の、なんです?」
「いや……」
百合の病室からステーションまでの僅かな間、ずっと黙っていた恭平がぼそりと口を開く。
雛子に声をかけるタイミングを見計らっていたのだろう。こんな彼を見たのは初めてで、内心少し嬉しいと感じている自分が何だか情けない。
(マスク掛けてて良かった……)
ニヤつく口元に力を込めながらも、雛子はわざとツンとした態度を崩さないよう努める。
「そんな話はどうでも良いんです。それより百合ちゃんです」
今は仕事中だ。このまま珍しい恭平を眺めていたい気持ちもあるが、百合の様子が心配なことは紛れもない事実である。
と、自分に言い聞かせる。
「一クール目からかなり吐き気が強いみたいなんですよね。催吐性が高い抗がん剤は三日目までに終了するのに……」
投薬が開始してから最初の頃は、ベッド上でガーグルベースンから顔を上げることもできない百合の背を頻繁に摩っていた記憶がある。
一応、現在投与している抗がん剤も催吐性がないわけではないが、教科書上は低リスクと記載されている。個人差があるとはいえ、最近はほとんどトイレに篭りきりの百合が不憫だ。
「頓用の制吐剤は?」
恭平の問いに、雛子は首を横に振る。
「本人が『これ以上薬漬けになりたくない』って、レジメンにある定時のもの以外は全て拒否で……」
「そうか……」
プライマリーは真理亜であるため、頓用薬についてはもちろん抜かりなく説明されているはずだが、それでも本人が拒否するなら打つ手なしだろう。
ステーションに戻ると、恭平は備え付けのパソコンで百合のカルテを立ち上げて記録に目を通す。
「お母さんもすごく辛そうなんですよね。いつも泣いてるし……『私じゃ何もしてあげられない』ってよく仰るんです」
きっぱりと薬を拒否する百合に対し、ベットサイドでいつも不安げに目を潤ませている母親の様子も心配の種だった。
「本当に心配です……。ただでさえ初発で不安も大きいだろうし……」
自分には何が出来るのだろうか。否、何も出来る事がない。真理亜がプライマリーをしていてこの状況であれば、これがベストという事になる。
看護師とは、無力だ。
(もし私がプライマリーだったらどうなっていたんだろう……)
雛子はその『もしも』に思いを馳せる。きっと真理亜のようにうまく気を回してサポートすることなどできない。
自分の力不足を痛感する。
「……ひなっち、何か看護師らしくなったな」
暫し思考の海に浸っていた雛子を呼び戻したのは、恭平の大きな掌が雛子の頭を捉えた時だった。
てっぺん辺りをポンとされる久々の感覚に、思わず考えことも彼方へと吹き飛ぶ。
「そ、そう、ですか?」
こんなことくらいでニヤケが止まらなくなるなんて、自分はなんて不純な看護師なんだ。
(あー、もう……私って馬鹿……)
嬉しさ半分、自己嫌悪半分の複雑な気持ちを処理しきれないでいる雛子とは裏腹に、そういえば、と恭平はカルテに目を落としたまま口を開く。
「メインの点滴、次の更新まで持たないかもな。夜勤で早めに繋いだのか?」
恭平の問いに、雛子は納得したように頷く。
「申し送りでそう聞いてます。百合ちゃんの点滴、いつも落ちムラが酷いんですよ。CVの調子が悪いのかと思って一度先生にも確認してもらったんですけど、閉塞とかも特にないみたいで」
「そうか……」
ふと恭平が、何かを考え込む。
「どうしました?」
何か問題でもあったのかと不安になり、雛子は尋ねる。
「いや……何でもない」
「……?」
一体何が気になっているのだろうか。一緒になってカルテを覗き込むも、雛子には皆目見当もつかない。
ただカルテを眺めていても分かる事はなく、雛子は諦めて自分のIDで別のパソコンからカルテを開き、本日の記録を作成することにする。
(えっと……『嘔気が強く、頻回にトイレにて嘔吐あり』……あれ?)
そこまで記入し、雛子は手を止める。
何かが引っかかる気がした。
(あれ、何だろう。何かが……それに……)
他にもなかっただろうか。百合に、不自然なところが。
「……雛子ちゃん?」
「あっ、ま、真理亜さんっ!」
お疲れ様です、と反射的に声を上げ振り返る。そこには想像通り、清瀬真理亜が天使の微笑みで雛子を見つめていた。
「どうかした? 何だかものすごく難しい顔してたけど……何か手伝う事ある?」
遅番で仕事に入った真理亜が、小首を傾げて問う。
「いえっ、私は大丈夫なので、他の先輩方からお先に……」
実際に、今はパソコンに向かう余裕がある。一番下っ端の自分が真っ先に手伝いを頼むのは気が引けた。
「そう? なら良いけど。じゃあ何かあったら声かけてね、私ラウンドしてくるから」
「分かりました、ありがとうございます」
気が付くと恭平も既にステーションから姿を消していた。雛子は改めてカルテに向き直る。
(何だっけ……)
何かを掴めそうで掴めないモヤモヤとした気持ちが治まらず、なかなかカルテの入力が進まない。
(ああ〜……こんなだから記録が遅くて残業になるんだよねぇ……分かってる、分かってるんだけど……)
スマートに仕事をこなす恭平や真理亜との違いに心の中で泣きながら、それでも懸命に記憶を辿る。
「あ」
それに気付いた時、思わず声が漏れた。
(そうだ、あの指の絆創膏──── ……)
「っ……!?」
その時突如鳴り響いたのは、急変を知らせるナースコール。
ステーションにいた何人かのスタッフが、一斉にナースコール用のモニターに目を向ける。
「百合ちゃんっ……!?」
考えるよりも早く、ステーションの脇に置かれた救急カートを掴んで走り出す。
ノックもせず病室のドアを開けると、ベッドの上で背中を丸めて肩で息をする百合と、その背中を擦りながら酸素マスクを口元に押し当てる真理亜の姿があった。
真っ白な顔で胸を押え苦しげに喘いでいる百合に、雛子は必死に動揺しそうな心を鎮める。
「雛子ちゃん、すぐにベッドサイドモニターの準備して。それからバイタルお願い」
「はいっ!」
言われた通りすぐにモニター装着とバイタルサインを測る。血中酸素濃度が低い。
「恐らく薬剤性の肺水腫よ。雛子ちゃん、点滴を見て」
「これはっ……」
愕然とした。
先程繋いだばかりの抗がん剤が、既にほとんどなくなっていたのだ。
「どうしてっ……私ちゃんと、」
「先生到着しましたっ!」
他にも数名のスタッフが駆けつけ、血液内科の主治医も到着し現場は慌ただしくなる。医師が診察し、応急処置を終えるとすぐにICUへ転棟の運びとなった。
「……お、おう」
雛子が声を掛けると、恭平はタジタジといった様子で一歩後ろを着いてきた。
(ばっかみたい……そんなに気まずそうにするなら最初からあんなことするなっつーの!)
心の中で悪態をつきながら、雛子は手早くフェイスシールドとディスポーザブルガウンを身につける。
点滴バッグと物品をワゴンに乗せ、向かう先は東雲百合の病室だ。
恭平が雛子にちょっかいをかけたあの日から、雛子はしばらくの間恭平に冷たく接していた。
もちろん後輩でありプリセプティでもある雛子がガン無視を決め込むことは不可能だが、それでも業務外には目すら合わさなかった。
さすがの恭平も自業自得なだけに何も言ってはこなかったものの、雛子と恭平のパワーバランスがおかしくなっていることに周りは僅かにザワついた。
『ちょっと雨宮、桜井に対してあの態度はなんなの? いくらアイツがあんなだからって一応先輩なんだから、社会人として礼儀はしっかりなさい』
目上に無礼なところまでプリセプターに似なくていい、などと大沢から指導が入り、雛子は渋々態度を軟化させる事こととなった。
(まったく、桜井さんが悪いのに、何で私が怒られなくちゃならないのっ……!?)
納得いかなかったものの、もしかしたら世の中あの程度のお巫山戯はよくあることなのかもしれない。
時間が経つにつれ自分の感性に自信がなくなり、雛子はこの度、久しぶりに自分から恭平へと声を掛けるに至った。
「時間40でポンプ設定します」
「40……ん、OK」
ベッドサイドにて患者名や流量設定に間違いがないかのチェックを二人で行い、バーコードで認証する。
その様子を、百合はベッドに横たわったまま青白い顔でぼんやりと見上げていた。
「これでよし、と。百合ちゃん、この点滴が終わったらやっと二クール目の休薬期間に入るからね」
「はい……」
百合は消え入りそうな声で、けれども何とか笑顔を作り返事をした。
「やっぱりまだ吐き気は変わらない?」
入院した当初よりやや細くなった百合の顔を、雛子は心配気な瞳で見つめる。
彼女は抗がん剤の投与が始まってからというもの、次第に吐き気の訴えが酷くなっていた。
「休薬期間に入ったら少しマシになると良いんだけど……」
当初想定していたより吐き気が酷く、結局それが治まる前に二クール目が始まってしまっていた。百合は不安そうに目を伏せる。
「先生からも休薬期間中はマシになるはずだって聞いてたんですけど、思ってたよりも辛くて……ごめんなさい、こんな事で弱音を吐いて……」
「そんなことないよ」
雛子はそっと百合の手を握る。
「百合ちゃんは頑張ってる。弱音くらいいくらでも吐いて良いんだよ」
「雨宮さん……」
雛子の言葉に、百合はカサついた唇で「ありがとうございます」と呟いた。
「あれ」
繋いだ百合の手に、雛子はふと絆創膏が巻かれているのを見つけた。
「どうしたの、これ?」
「ああ」
雛子の視線に気が付いた百合が、恥ずかしそうにやや言い淀む。
「実は雑誌を捲っている時に紙で切ってしまって……おっちょこちょいで恥ずかしいです」
(百合ちゃん、可愛いなぁ……)
きゃっ、と両手で顔を覆った百合に、雛子は思わず微笑ましく思い心で感嘆する。
「大丈夫? 今骨髄抑制も強くなってきてる頃だから、血が止まりにくかったんじゃない?」
雛子がそう声をかけると、百合は大きな目をくりくりとさせながら何度も頷く。
「はい、ほんの小さな傷なのにそれはもう。聞いてはいましたけど、まさかここまでとは……本当に、治療を初めてからびっくりすることばかりです」
先程まで力なくぐったりしていたかと思えば、今度は心底驚いたような顔をしている。コロコロとその表情を変える百合に雛子も釣られて笑みを浮かべる。
「ふふふ。でもそんな時はすぐに看護師を呼んでね? ちゃんと止血するから」
百合が笑顔で返事をしたのを見届け、雛子と恭平は病室を後にした。
「……もう怒ってないの?」
「はぁ? 何言ってるんですか」
「いや、あの時の……」
「あの時の、なんです?」
「いや……」
百合の病室からステーションまでの僅かな間、ずっと黙っていた恭平がぼそりと口を開く。
雛子に声をかけるタイミングを見計らっていたのだろう。こんな彼を見たのは初めてで、内心少し嬉しいと感じている自分が何だか情けない。
(マスク掛けてて良かった……)
ニヤつく口元に力を込めながらも、雛子はわざとツンとした態度を崩さないよう努める。
「そんな話はどうでも良いんです。それより百合ちゃんです」
今は仕事中だ。このまま珍しい恭平を眺めていたい気持ちもあるが、百合の様子が心配なことは紛れもない事実である。
と、自分に言い聞かせる。
「一クール目からかなり吐き気が強いみたいなんですよね。催吐性が高い抗がん剤は三日目までに終了するのに……」
投薬が開始してから最初の頃は、ベッド上でガーグルベースンから顔を上げることもできない百合の背を頻繁に摩っていた記憶がある。
一応、現在投与している抗がん剤も催吐性がないわけではないが、教科書上は低リスクと記載されている。個人差があるとはいえ、最近はほとんどトイレに篭りきりの百合が不憫だ。
「頓用の制吐剤は?」
恭平の問いに、雛子は首を横に振る。
「本人が『これ以上薬漬けになりたくない』って、レジメンにある定時のもの以外は全て拒否で……」
「そうか……」
プライマリーは真理亜であるため、頓用薬についてはもちろん抜かりなく説明されているはずだが、それでも本人が拒否するなら打つ手なしだろう。
ステーションに戻ると、恭平は備え付けのパソコンで百合のカルテを立ち上げて記録に目を通す。
「お母さんもすごく辛そうなんですよね。いつも泣いてるし……『私じゃ何もしてあげられない』ってよく仰るんです」
きっぱりと薬を拒否する百合に対し、ベットサイドでいつも不安げに目を潤ませている母親の様子も心配の種だった。
「本当に心配です……。ただでさえ初発で不安も大きいだろうし……」
自分には何が出来るのだろうか。否、何も出来る事がない。真理亜がプライマリーをしていてこの状況であれば、これがベストという事になる。
看護師とは、無力だ。
(もし私がプライマリーだったらどうなっていたんだろう……)
雛子はその『もしも』に思いを馳せる。きっと真理亜のようにうまく気を回してサポートすることなどできない。
自分の力不足を痛感する。
「……ひなっち、何か看護師らしくなったな」
暫し思考の海に浸っていた雛子を呼び戻したのは、恭平の大きな掌が雛子の頭を捉えた時だった。
てっぺん辺りをポンとされる久々の感覚に、思わず考えことも彼方へと吹き飛ぶ。
「そ、そう、ですか?」
こんなことくらいでニヤケが止まらなくなるなんて、自分はなんて不純な看護師なんだ。
(あー、もう……私って馬鹿……)
嬉しさ半分、自己嫌悪半分の複雑な気持ちを処理しきれないでいる雛子とは裏腹に、そういえば、と恭平はカルテに目を落としたまま口を開く。
「メインの点滴、次の更新まで持たないかもな。夜勤で早めに繋いだのか?」
恭平の問いに、雛子は納得したように頷く。
「申し送りでそう聞いてます。百合ちゃんの点滴、いつも落ちムラが酷いんですよ。CVの調子が悪いのかと思って一度先生にも確認してもらったんですけど、閉塞とかも特にないみたいで」
「そうか……」
ふと恭平が、何かを考え込む。
「どうしました?」
何か問題でもあったのかと不安になり、雛子は尋ねる。
「いや……何でもない」
「……?」
一体何が気になっているのだろうか。一緒になってカルテを覗き込むも、雛子には皆目見当もつかない。
ただカルテを眺めていても分かる事はなく、雛子は諦めて自分のIDで別のパソコンからカルテを開き、本日の記録を作成することにする。
(えっと……『嘔気が強く、頻回にトイレにて嘔吐あり』……あれ?)
そこまで記入し、雛子は手を止める。
何かが引っかかる気がした。
(あれ、何だろう。何かが……それに……)
他にもなかっただろうか。百合に、不自然なところが。
「……雛子ちゃん?」
「あっ、ま、真理亜さんっ!」
お疲れ様です、と反射的に声を上げ振り返る。そこには想像通り、清瀬真理亜が天使の微笑みで雛子を見つめていた。
「どうかした? 何だかものすごく難しい顔してたけど……何か手伝う事ある?」
遅番で仕事に入った真理亜が、小首を傾げて問う。
「いえっ、私は大丈夫なので、他の先輩方からお先に……」
実際に、今はパソコンに向かう余裕がある。一番下っ端の自分が真っ先に手伝いを頼むのは気が引けた。
「そう? なら良いけど。じゃあ何かあったら声かけてね、私ラウンドしてくるから」
「分かりました、ありがとうございます」
気が付くと恭平も既にステーションから姿を消していた。雛子は改めてカルテに向き直る。
(何だっけ……)
何かを掴めそうで掴めないモヤモヤとした気持ちが治まらず、なかなかカルテの入力が進まない。
(ああ〜……こんなだから記録が遅くて残業になるんだよねぇ……分かってる、分かってるんだけど……)
スマートに仕事をこなす恭平や真理亜との違いに心の中で泣きながら、それでも懸命に記憶を辿る。
「あ」
それに気付いた時、思わず声が漏れた。
(そうだ、あの指の絆創膏──── ……)
「っ……!?」
その時突如鳴り響いたのは、急変を知らせるナースコール。
ステーションにいた何人かのスタッフが、一斉にナースコール用のモニターに目を向ける。
「百合ちゃんっ……!?」
考えるよりも早く、ステーションの脇に置かれた救急カートを掴んで走り出す。
ノックもせず病室のドアを開けると、ベッドの上で背中を丸めて肩で息をする百合と、その背中を擦りながら酸素マスクを口元に押し当てる真理亜の姿があった。
真っ白な顔で胸を押え苦しげに喘いでいる百合に、雛子は必死に動揺しそうな心を鎮める。
「雛子ちゃん、すぐにベッドサイドモニターの準備して。それからバイタルお願い」
「はいっ!」
言われた通りすぐにモニター装着とバイタルサインを測る。血中酸素濃度が低い。
「恐らく薬剤性の肺水腫よ。雛子ちゃん、点滴を見て」
「これはっ……」
愕然とした。
先程繋いだばかりの抗がん剤が、既にほとんどなくなっていたのだ。
「どうしてっ……私ちゃんと、」
「先生到着しましたっ!」
他にも数名のスタッフが駆けつけ、血液内科の主治医も到着し現場は慌ただしくなる。医師が診察し、応急処置を終えるとすぐにICUへ転棟の運びとなった。