百合の治療が始まり数日経ってのことだ。

「真理亜さんすみません、百合ちゃんのことで……」

日勤の真理亜が出勤するといの一番に、夜勤をしていた原が申し訳なさそうに声を掛けた。

「昨日の夜、一人でトイレに立った時に立ちくらみを起こしたみたいで転倒してしまいました……。腕に痣ができた以外、幸いどこも怪我はなかったんですが」

すみません、と頭を下げる原。

「そうなの……つばきちゃんお疲れ様。CVも入っているし、これから血小板も下がっていくだろうから注意した方が良さそうね。歩く時は呼ぶように私からも声を掛けておくわ」

ナースコールが鳴り、原はまた一つ頭を下げてステーションを後にする。

「……どうしたの、雛子ちゃん?」

「あっ、いえ、何でも」

ふと目が合い、真理亜が小首を傾げる。雛子は慌ててパソコンに視線を戻す。

(なんか……やっぱりもやもやする……)

否、原因は真理亜と恭平にあることは自分で気付いていた。二人のせいと言っては語弊があるが、何となく恭平を取られたような気持ちになり落ち着かない。

恭平と元の関係に戻れた嬉しさで忘れていたが、結局この二人の関係性については謎のままだ。

(別に、桜井さんは私にとってただのプリセプターなのに……変なの)

本日はフリー業務だ。受け持ちしないとはいえ、全体の患者の把握に努めるため雛子は無理矢理カルテに意識を向ける。






「失礼します」

百合に急遽オーダーの入った採血を頼まれ、雛子は病室を訪れた。

「あ、雨宮さん……」

ベッドに横になりガーグルベースンを抱えたまま、百合は力のない笑顔を見せる。雛子は採血することを伝え、ワゴンの上でスピッツやシリンジを用意する。

「昨日転んだんだって? 大丈夫だった?」

雛子は百合の細い腕の下に処置用シーツを敷き、パジャマの袖をめくる。

「うわ、すごい痣…これ転んでぶつけたの?」

百合は恥ずかしそうに身じろぐ。

「本当にドン臭くて……恥ずかしいです……」

(可愛いなぁ……顔は真っ青だけど)

雛子は翔太のことを思い出していた。男女の差はあれど、同じ年頃の血液腫瘍を患った二人。しかし性格はまるで逆だ。

基本的に百合は誰にでも礼儀正しく、コロコロと変わる表情がとても愛くるしい。

(翔太くんも、あれはあれで可愛かったけど)

思い出すと、心が温かくなる。

「それにしても、急に病気になってびっくりしたよね」

まだ入院したばかりの百合。今まで特に大きな病気はした事がなく、さぞ不安だろう。加えて今は吐き気が酷く、ほとんどベッドから起き上がる事すらできない。

採血をしながら、雛子は百合の心情を慮る。

「はい、治療を始めてから吐いてばかりで……。でも母が案外世話を焼いてくれるので、心強いです」

にっこりと笑みを見せる百合。気丈に振舞っている姿が健気だ。

「案外って……それは、お母さんはとっても心配だと思うよ?」

雛子の言葉に、百合は首を横に振る。

「ちょうど妹が中学受験の年なんです。私と違って頭も良くて、可愛くて……。塾もたくさん通ってるし、皆妹に手を焼きがちなんですよ」

「そう、なんだ」

一人っ子の雛子には、百合が今どのような気持ちなのか窺い知ることはできない。それでも、今までそのことで少なからず寂しい思いをしてきたのかもしれない。

「……一緒に頑張っていこうね」

何も気の利いたことは言えない、そう思った。こんな時に、元気づけるような声掛けが出来ない自分が情けなかった。

それでも、百合はやはり屈託なく笑って頷いて見せるのだった。

「まだ十時かぁ……体調が悪いと一日が長いな……。あ、お手洗い連れてってもらっても良いですか? これしてるとトイレ近くて……」



これ、と百合は点滴のルートをプラプラ揺らす。

「そうだよねぇ。お薬を排出するために結構な量入れてるから……」

歩行介助しながら何気なく輸液ポンプの表示を見る。流量は80ml/hと表示されており、ボトルの中には200ml余りの薬液が残っていた。

「うっ……気持ち悪……」

「大丈夫?」

身体を起こすとすぐ、百合は口元を抑える。少しの振動でも吐き気を催すのだろう。

「終わったら中のナースコール押してね。誰か来るまでは座ったまま待っていて」

「はい……」

声掛けも忘れず、雛子は病室をあとにする。