「雛子、激務の8A病棟配属決定、おめでとう〜!」
「いぇ〜い!」
同期の市ヶ谷夏帆と入山悠貴の二人に茶化され、雨宮雛子は唇を突き出して抗議をした。
「もう、二人とも他人事だと思ってひどいよぉ!」
「他人事でーす!」
いつも暇さえあればやり合っているくせに、こんな時ばかり妙に馬が合う悠貴と夏帆。
雛子は何度か付き合わないのか問うた事があるが、お互いにもはや異性とは思えないらしい。恋愛経験のない雛子にはよく分からないが、見ている限り男女の友情というのも成立するようだ。
まぁ、今はそんな事はどうでも良い。
「はぁ〜やってけるのかな、私……」
新人看護師としてこの春入職し、この日は全体オリエンテーションの最終日。明日からそれぞれ配属先でのオリエンテーションが始まるにあたり、本日所属部署が正式発表となったのだ。
「入山くん、皆こっちで食べるって」
「市ヶ谷さんも早くきてー!」
午前の部の最後で配属発表があり、昼休憩になると周りの新人たちはそれぞれ同じ所属のもの同士で集まり親睦を深めているようだ。
「ごめんね雛子。また後でね!」
「じゃあなー」
悠貴と夏帆もそれぞれ同所属の同期が呼びに来て、さっさと行ってしまった。ぽつんと残された雛子はいたたまれなくなり、そっと席を立った。
(よりによって8A病棟……しかも配属は私一人だけ……)
述べ百人以上いる同期の中で、自分だけが孤独のように思える。
浮かれる同期達とは裏腹に、雛子はどんどん気が重くなっていった。病院附属の看護学校を出た雛子にとって、東京病院の8A病棟がどんな場所かというのは聞き飽きるほど耳にしていた。
(他の病棟から溢れた患者を、ベッドの空きさえあれば誰でも受け入れる……入退院も転棟も激しい上、診療科も全て網羅するから勉強も業務も大変って噂なんだよね……)
大学病院は大抵、病棟が診療科ごとに分かれていることが多い。そんな中、8A病棟は決まった診療科に限局せず、様々な患者を受け入れることが特色の部署なのだ。
内科外科、小児成人を問わないため求められるスキルも多くなる。「激務の8A」として所属希望者は毎年ほとんどいないそうだ。
(私だって希望出してないんだけど……)
悠貴も夏帆も、第三希望内の部署に配属されていたのに、何故……。雛子は第三希望にすらかすりもしていない。
というのも、雛子が出した希望は外来や内視鏡、検査室などどれも日勤業務の部署のみ。
そういう部署は産休育休明けの子どもを抱えた看護師が大半を占めていて、新人が配属される可能性はほぼないというのはあとから知った話であった。
オリエンテーションを行っているホールから出て、しばらくあてもなくふらふらと歩く。
ここは病院の中でも研修棟なので、患者の姿はない。ベンチを見つけ、雛子はそこに腰を下ろし脱力した。廊下の一角が少し広い空間になっており、飲み物と食料品の自販機が何台か置いてある。ちょっとした休憩所なのだろう。
「希望は叶わなかったけど……でも、うん。頑張るしかないよねっ」
雛子はベンチに腰掛けたまま、両手の握りこぶしにぎゅっと力を込めた。
「元々なりたかった看護師になれたんだし」
自分に言い聞かせる。
「考えてみれば、色んな診療科が勉強出来るなんてすごい! ラッキー!」
ポジティブシンキング。
「燃えてきた! 俄然やる気出てきた!」
マインドコントロール。
「よし! 大丈夫! 私いけそうな気がする! やればできる!」
元来、能天気で楽天的な性格の雛子である。「やればできる」と口に出すだけで、本当にどうにかなりそうな気持ちになれる自分を褒めたい。
その時ふと視線を感じ、雛子は隣のベンチに目をやった。
「あ……」
いつから隣にいたのだろう。長い脚を投げ出すように座っているその男性は、まるで珍獣でも見るかのような視線を雛子に向けていた。
服装は上下セパレートの白衣であり、同期の悠貴が着ているものと同じ。つまりは看護スタッフである。
髪はライトブラウンでやや癖のある無造作ヘアがお洒落。パーツの整った小さな顔に均整の取れたスタイルは、まるで雑誌に出てくるモデルのようだった。
隙がないほどルックスが完璧な一方、その表情は乏しくどこか不機嫌そうにも見える。
(あ、なんか格好良い……かも)
一方雛子に下された評価はと言うと。
「……珍獣?」
「……」
やはり珍獣だと思われていた。
「……ってことがあってね」
翌日。いよいよ本日から各病棟での研修が始まる。新人たちはホールに集められ、それぞれ配属先の先輩が迎えに来るまでの時間を談笑して過ごしていた。
結局昨日の午後は各自配属部署ごとに分かれて座っていた上、研修後はそれぞれの部署ごとに親睦会をやるグループもあった。
夏帆と悠貴ももれなく親睦会という名の飲み会で昨日は会う機会がなく、雛子は今日になって休憩所での出来事を二人に話して聞かせていた。
「ぷっ……だははははっ! 珍獣って……!」
「雛子まじウケるそれっ……ちょ、お腹いたっ……」
案の定、清々しいほどに笑われた。
「うん、いいよいいよ。いっそ大爆笑してくれたら昨日の珍獣も浮かばれるよ……」
ホールに並べられた机の一角で頬杖を突き、雛子は不貞腐れていた。
「でもさぁ、その先輩もちょっと変わってて。私のこと珍獣呼ばわりしたかと思ったら……」
雛子は昨日の男性看護師とのやり取りを思い出す。
『……ほら』
『はい……?』
差し出されたのは自販機に売っているメロンパン一袋だった。
『いや、あの……わ、悪いです』
返答に困り、とりあえず日本人らしく第一声は遠慮の言葉を口にしてみる。
『怖くなーい、怖くなーい』
『えっと、あの、怖くはないんですケド』
否、本当はある意味怖い。自分は何故手負いの獣のように餌付けされそうになっているのか。
『大丈夫、俺いっぱい買ったし』
見ると彼の横には、メロンパンの山。自販機に目を向けると、メロンパンと書かれた部分に売切れの赤字が表示されていた。
『餌やるよ、珍獣』
「そのあとその人、メロンパンをすごい勢いで完食してた」
抱腹絶倒の二人を尻目に、事の顛末を話して聞かせる雛子は至って真剣だ。
「もう〜ちょっと雛子ぉ! 私達が新メンバーで親睦を深めてる間に、何一人で楽しい事やってんのよ!」
バシバシと背中を叩かれて、雛子はむくれる。
「良いよね〜夏帆と悠貴は。親睦を深めるメンバーが何人もいてさぁ……」
私なんて……といじけている間にも、新人たちは次々と配属先から先輩看護師が迎えに来て、人数が減っていく。
やがてERの看護師がやって来て、悠貴は他の八人の新人と共にホールを後にした。
その時の悠貴のキラキラした表情に、雛子は「眩しいなぁ」と少しだけ目を細める。
「ねぇ雛子見た? 入山んとこの先輩、白衣じゃなくて緑のスクラブだったわね。さっすが王道花形のER!」
雛子に構う事なく、夏帆は自分達の先輩がいつ迎えに来るのかと目を輝かせて待っている。
「あの……あめみやさんって子、いるかしら?」
各々談笑しており賑やかな中、突如鈴の音のように透き通った声音が耳に届いた。反射的に、雛子は顔を上げる。
「あ、あのっ……! 雨宮雛子なら、ここにいますっ!」
見るとそこには、声に違わぬ容姿端麗な女性の姿が。
白衣の天使。そんな言葉が頭に浮かぶ。
「うわっ……綺麗な人……」
横で夏帆も思わず呟く。美人は美人と言われる事に慣れているのか、特に動じる事も、ましてや謙遜する事もなく笑みを零し、「ありがとう」と返す。
「ごめんなさい、えっと……雨宮さん。私は8Aの清瀬真理亜って言います。よろしくね」
「雨宮雛子です! よ、よろしくお願いします!」
雛子は勢いよく立ち上がって、慌てて頭を下げる。美女、真理亜がクスクスと小さく笑う。
「こんな可愛い後輩が出来るなんて嬉しいわ。さぁ、行きましょうか」
「はい!」
先程まで項垂れていたのが嘘のように歯切れの良い返事を返し、雛子は真理亜のあとに着いていく。
夏帆が胸の前で小さく手を振っているのに、雛子も小さく返してホールを出る。
(8Aにこんな美人な先輩がいるんだ……しかも優しそうだし、頑張れるかも……)
真理亜はハッキリとした目鼻立ちに黒髪が映え色っぽさを感じさせる、アンニュイな雰囲気の女性だった。
背も低く童顔な雛子とは何もかもが違う。「まるでシェパードとチワワ……」などと種族の個体差についてどうでも良い事を考える。
あれこれ考えているうちに二人は研修棟を抜け、病棟へと続くエレベーターに乗り真理亜が八階のボタンを押す。
九階は社員食堂になっているため、病棟としては最上階だ。
「こんな可愛い子が来るんだったら私がプリセプターやりたかったなぁ。残念だわ」
二人きりの密室に雛子が緊張していると、その様子に笑みを浮かべていた真理亜が残念そうに溜息を吐いた。
「あ……清瀬さんがプリセプターじゃないんですね」
「真理亜で良いわよ」
あっという間に八階に着き、二人はエレベーターを降りる。本来なら左手側はB病棟になっているはずだが、そちらは電気が消え倉庫のように使われているようだ。八階はA病棟のみが稼働していた。
真理亜がA病棟への扉を開ける。
「そうなの。本来ならもう一人新人さんが入る予定だったんだけどね、ほら、今年の国試難しかったって噂だし、滑っちゃったみたいで……。五年目になったらプリセプターやるの楽しみにしてたんだけど」
病棟に入ると、特有の薬品臭が鼻を突く。モニターや忙しない足音が聞こえる。
患者側とは違う視点で、その場所に足を踏み入れた。
「こっちよ」
スタッフ用の通路を通りナースステーション内に入る。
「大沢さん、新人の子連れてきました」
ステーション内に一人残っていた女性の看護師が、パソコンから顔を上げこちらを向く。
「あら、あなたが?」
こちらも真理亜とはタイプも年齢も違うが、キリッとした顔立ちの美人だ。
キツく冷たそうな印象ではあるが、笑うと頼りがいのある姉御肌な印象を受ける。
「初めまして! 私は────……」
雛子が自己紹介しようとした時だった。
「あ、恭平! プリ子連れてきたわよ」
ステーションに入ってきた長身の男性看護師を、真理亜が呼び止めた。
「ん……? あーっ!」
彼の姿を見た瞬間、雛子は思わず声を上げる。大沢と真理亜がびくりと肩を揺らした。
「え、なになに? あんた達知り合い?」
大沢の問いを無視し、雛子は真理亜に詰め寄る。
「真理亜さんっ、プリ子ってことはもしかして……もしかしてこのメロンパンの人が……?」
雛子はまじまじと、恭平と呼ばれた人物を見つめる。
「め、メロンパンの人? ああ、メロンパンの人、ねぇ……」
何かを悟ったように、真理亜が含みのある笑みを浮かべた。
ライトブラウンの癖毛に、スラリと背の高いモデル体型。無表情で何を考えているのか分からないその顔。
そう、紛れもなく、昨日休憩所で出会った人物である。
「そう、彼は私の同期で桜井恭平。今日から雛子ちゃんのプリセプターよ」
真理亜の紹介に、雛子は無理矢理笑顔を作った口角がひくりと引き攣れるのを感じた。
彼、恭平も、会った瞬間雛子に気が付いたようだった。無表情から一変、口元だけに薄らと悪巧みするような笑みを浮かべ、こう宣う。
「よろしくな、ち・ん・じゅ・う」
「っ……!?」
こうして雨宮雛子の、新米看護師としての生活がスタートしたのだった。
「いぇ〜い!」
同期の市ヶ谷夏帆と入山悠貴の二人に茶化され、雨宮雛子は唇を突き出して抗議をした。
「もう、二人とも他人事だと思ってひどいよぉ!」
「他人事でーす!」
いつも暇さえあればやり合っているくせに、こんな時ばかり妙に馬が合う悠貴と夏帆。
雛子は何度か付き合わないのか問うた事があるが、お互いにもはや異性とは思えないらしい。恋愛経験のない雛子にはよく分からないが、見ている限り男女の友情というのも成立するようだ。
まぁ、今はそんな事はどうでも良い。
「はぁ〜やってけるのかな、私……」
新人看護師としてこの春入職し、この日は全体オリエンテーションの最終日。明日からそれぞれ配属先でのオリエンテーションが始まるにあたり、本日所属部署が正式発表となったのだ。
「入山くん、皆こっちで食べるって」
「市ヶ谷さんも早くきてー!」
午前の部の最後で配属発表があり、昼休憩になると周りの新人たちはそれぞれ同じ所属のもの同士で集まり親睦を深めているようだ。
「ごめんね雛子。また後でね!」
「じゃあなー」
悠貴と夏帆もそれぞれ同所属の同期が呼びに来て、さっさと行ってしまった。ぽつんと残された雛子はいたたまれなくなり、そっと席を立った。
(よりによって8A病棟……しかも配属は私一人だけ……)
述べ百人以上いる同期の中で、自分だけが孤独のように思える。
浮かれる同期達とは裏腹に、雛子はどんどん気が重くなっていった。病院附属の看護学校を出た雛子にとって、東京病院の8A病棟がどんな場所かというのは聞き飽きるほど耳にしていた。
(他の病棟から溢れた患者を、ベッドの空きさえあれば誰でも受け入れる……入退院も転棟も激しい上、診療科も全て網羅するから勉強も業務も大変って噂なんだよね……)
大学病院は大抵、病棟が診療科ごとに分かれていることが多い。そんな中、8A病棟は決まった診療科に限局せず、様々な患者を受け入れることが特色の部署なのだ。
内科外科、小児成人を問わないため求められるスキルも多くなる。「激務の8A」として所属希望者は毎年ほとんどいないそうだ。
(私だって希望出してないんだけど……)
悠貴も夏帆も、第三希望内の部署に配属されていたのに、何故……。雛子は第三希望にすらかすりもしていない。
というのも、雛子が出した希望は外来や内視鏡、検査室などどれも日勤業務の部署のみ。
そういう部署は産休育休明けの子どもを抱えた看護師が大半を占めていて、新人が配属される可能性はほぼないというのはあとから知った話であった。
オリエンテーションを行っているホールから出て、しばらくあてもなくふらふらと歩く。
ここは病院の中でも研修棟なので、患者の姿はない。ベンチを見つけ、雛子はそこに腰を下ろし脱力した。廊下の一角が少し広い空間になっており、飲み物と食料品の自販機が何台か置いてある。ちょっとした休憩所なのだろう。
「希望は叶わなかったけど……でも、うん。頑張るしかないよねっ」
雛子はベンチに腰掛けたまま、両手の握りこぶしにぎゅっと力を込めた。
「元々なりたかった看護師になれたんだし」
自分に言い聞かせる。
「考えてみれば、色んな診療科が勉強出来るなんてすごい! ラッキー!」
ポジティブシンキング。
「燃えてきた! 俄然やる気出てきた!」
マインドコントロール。
「よし! 大丈夫! 私いけそうな気がする! やればできる!」
元来、能天気で楽天的な性格の雛子である。「やればできる」と口に出すだけで、本当にどうにかなりそうな気持ちになれる自分を褒めたい。
その時ふと視線を感じ、雛子は隣のベンチに目をやった。
「あ……」
いつから隣にいたのだろう。長い脚を投げ出すように座っているその男性は、まるで珍獣でも見るかのような視線を雛子に向けていた。
服装は上下セパレートの白衣であり、同期の悠貴が着ているものと同じ。つまりは看護スタッフである。
髪はライトブラウンでやや癖のある無造作ヘアがお洒落。パーツの整った小さな顔に均整の取れたスタイルは、まるで雑誌に出てくるモデルのようだった。
隙がないほどルックスが完璧な一方、その表情は乏しくどこか不機嫌そうにも見える。
(あ、なんか格好良い……かも)
一方雛子に下された評価はと言うと。
「……珍獣?」
「……」
やはり珍獣だと思われていた。
「……ってことがあってね」
翌日。いよいよ本日から各病棟での研修が始まる。新人たちはホールに集められ、それぞれ配属先の先輩が迎えに来るまでの時間を談笑して過ごしていた。
結局昨日の午後は各自配属部署ごとに分かれて座っていた上、研修後はそれぞれの部署ごとに親睦会をやるグループもあった。
夏帆と悠貴ももれなく親睦会という名の飲み会で昨日は会う機会がなく、雛子は今日になって休憩所での出来事を二人に話して聞かせていた。
「ぷっ……だははははっ! 珍獣って……!」
「雛子まじウケるそれっ……ちょ、お腹いたっ……」
案の定、清々しいほどに笑われた。
「うん、いいよいいよ。いっそ大爆笑してくれたら昨日の珍獣も浮かばれるよ……」
ホールに並べられた机の一角で頬杖を突き、雛子は不貞腐れていた。
「でもさぁ、その先輩もちょっと変わってて。私のこと珍獣呼ばわりしたかと思ったら……」
雛子は昨日の男性看護師とのやり取りを思い出す。
『……ほら』
『はい……?』
差し出されたのは自販機に売っているメロンパン一袋だった。
『いや、あの……わ、悪いです』
返答に困り、とりあえず日本人らしく第一声は遠慮の言葉を口にしてみる。
『怖くなーい、怖くなーい』
『えっと、あの、怖くはないんですケド』
否、本当はある意味怖い。自分は何故手負いの獣のように餌付けされそうになっているのか。
『大丈夫、俺いっぱい買ったし』
見ると彼の横には、メロンパンの山。自販機に目を向けると、メロンパンと書かれた部分に売切れの赤字が表示されていた。
『餌やるよ、珍獣』
「そのあとその人、メロンパンをすごい勢いで完食してた」
抱腹絶倒の二人を尻目に、事の顛末を話して聞かせる雛子は至って真剣だ。
「もう〜ちょっと雛子ぉ! 私達が新メンバーで親睦を深めてる間に、何一人で楽しい事やってんのよ!」
バシバシと背中を叩かれて、雛子はむくれる。
「良いよね〜夏帆と悠貴は。親睦を深めるメンバーが何人もいてさぁ……」
私なんて……といじけている間にも、新人たちは次々と配属先から先輩看護師が迎えに来て、人数が減っていく。
やがてERの看護師がやって来て、悠貴は他の八人の新人と共にホールを後にした。
その時の悠貴のキラキラした表情に、雛子は「眩しいなぁ」と少しだけ目を細める。
「ねぇ雛子見た? 入山んとこの先輩、白衣じゃなくて緑のスクラブだったわね。さっすが王道花形のER!」
雛子に構う事なく、夏帆は自分達の先輩がいつ迎えに来るのかと目を輝かせて待っている。
「あの……あめみやさんって子、いるかしら?」
各々談笑しており賑やかな中、突如鈴の音のように透き通った声音が耳に届いた。反射的に、雛子は顔を上げる。
「あ、あのっ……! 雨宮雛子なら、ここにいますっ!」
見るとそこには、声に違わぬ容姿端麗な女性の姿が。
白衣の天使。そんな言葉が頭に浮かぶ。
「うわっ……綺麗な人……」
横で夏帆も思わず呟く。美人は美人と言われる事に慣れているのか、特に動じる事も、ましてや謙遜する事もなく笑みを零し、「ありがとう」と返す。
「ごめんなさい、えっと……雨宮さん。私は8Aの清瀬真理亜って言います。よろしくね」
「雨宮雛子です! よ、よろしくお願いします!」
雛子は勢いよく立ち上がって、慌てて頭を下げる。美女、真理亜がクスクスと小さく笑う。
「こんな可愛い後輩が出来るなんて嬉しいわ。さぁ、行きましょうか」
「はい!」
先程まで項垂れていたのが嘘のように歯切れの良い返事を返し、雛子は真理亜のあとに着いていく。
夏帆が胸の前で小さく手を振っているのに、雛子も小さく返してホールを出る。
(8Aにこんな美人な先輩がいるんだ……しかも優しそうだし、頑張れるかも……)
真理亜はハッキリとした目鼻立ちに黒髪が映え色っぽさを感じさせる、アンニュイな雰囲気の女性だった。
背も低く童顔な雛子とは何もかもが違う。「まるでシェパードとチワワ……」などと種族の個体差についてどうでも良い事を考える。
あれこれ考えているうちに二人は研修棟を抜け、病棟へと続くエレベーターに乗り真理亜が八階のボタンを押す。
九階は社員食堂になっているため、病棟としては最上階だ。
「こんな可愛い子が来るんだったら私がプリセプターやりたかったなぁ。残念だわ」
二人きりの密室に雛子が緊張していると、その様子に笑みを浮かべていた真理亜が残念そうに溜息を吐いた。
「あ……清瀬さんがプリセプターじゃないんですね」
「真理亜で良いわよ」
あっという間に八階に着き、二人はエレベーターを降りる。本来なら左手側はB病棟になっているはずだが、そちらは電気が消え倉庫のように使われているようだ。八階はA病棟のみが稼働していた。
真理亜がA病棟への扉を開ける。
「そうなの。本来ならもう一人新人さんが入る予定だったんだけどね、ほら、今年の国試難しかったって噂だし、滑っちゃったみたいで……。五年目になったらプリセプターやるの楽しみにしてたんだけど」
病棟に入ると、特有の薬品臭が鼻を突く。モニターや忙しない足音が聞こえる。
患者側とは違う視点で、その場所に足を踏み入れた。
「こっちよ」
スタッフ用の通路を通りナースステーション内に入る。
「大沢さん、新人の子連れてきました」
ステーション内に一人残っていた女性の看護師が、パソコンから顔を上げこちらを向く。
「あら、あなたが?」
こちらも真理亜とはタイプも年齢も違うが、キリッとした顔立ちの美人だ。
キツく冷たそうな印象ではあるが、笑うと頼りがいのある姉御肌な印象を受ける。
「初めまして! 私は────……」
雛子が自己紹介しようとした時だった。
「あ、恭平! プリ子連れてきたわよ」
ステーションに入ってきた長身の男性看護師を、真理亜が呼び止めた。
「ん……? あーっ!」
彼の姿を見た瞬間、雛子は思わず声を上げる。大沢と真理亜がびくりと肩を揺らした。
「え、なになに? あんた達知り合い?」
大沢の問いを無視し、雛子は真理亜に詰め寄る。
「真理亜さんっ、プリ子ってことはもしかして……もしかしてこのメロンパンの人が……?」
雛子はまじまじと、恭平と呼ばれた人物を見つめる。
「め、メロンパンの人? ああ、メロンパンの人、ねぇ……」
何かを悟ったように、真理亜が含みのある笑みを浮かべた。
ライトブラウンの癖毛に、スラリと背の高いモデル体型。無表情で何を考えているのか分からないその顔。
そう、紛れもなく、昨日休憩所で出会った人物である。
「そう、彼は私の同期で桜井恭平。今日から雛子ちゃんのプリセプターよ」
真理亜の紹介に、雛子は無理矢理笑顔を作った口角がひくりと引き攣れるのを感じた。
彼、恭平も、会った瞬間雛子に気が付いたようだった。無表情から一変、口元だけに薄らと悪巧みするような笑みを浮かべ、こう宣う。
「よろしくな、ち・ん・じゅ・う」
「っ……!?」
こうして雨宮雛子の、新米看護師としての生活がスタートしたのだった。