「桜井君、ちょっと良いですか?」
いつも通り時間内に仕事を終え、あとは秒針が一周もすれば退勤時刻となる頃。
「お、たかみーだ」
その人物の声に、恭平は座ったまま椅子をくるりと回転させて後ろを仰ぐ。
他の医師と比べて鷹峯が病棟に来る率は低い。総合内科が他科に比べて抱えている患者の全体数が少ないからだ。
「じゃあ恭平、私は先に行ってるから」
「おう、またあとで」
定時になったのを見計らい、真理亜が椅子から立ち上がる。
「おや、デートの約束ですかぁ? それはそれは、勤務終わりに呼び止めて申し訳ありません」
少しも申し訳なさそうには見えない鷹峯だが、いつもの事だと特に気にもせず大人しく呼ばれた方へ向かう。
「今日はひなっちの代わりに真理亜が出勤してくれたからな、その礼に飯奢ることになった」
大雑把に説明する。鷹峯は不思議がるでもなく、むしろ「ああ」と納得したように頷いた。
「雨宮さん、昨日は随分酩酊していましたからね。そして内科のオンコールは私が担当していました」
「へぇ、そうなんだ」
「まぁ、昨夜雨宮さんをバーに連れて行ったのは私なんですけどね」
「へぇ、そう……は?」
一瞬スルーしそうになるも、聞き捨てならない言葉に恭平は信じられないという顔で鷹峯を見つめる。
「鷹峯お前……この前も雨宮のこと酔い潰したくせによくも……」
しかも受診が必要なレベルで飲ませたとなれば、さすがの恭平も黙ってはいられない。そのおかげで、仕事を休んだ雛子は他のスタッフからの心象も少なからず悪くなっているのだ。
「まぁまぁ落ち着いて下さい。私が貴方に声を掛けたのもそのことについてですよ」
胸倉を掴んできそうな雰囲気の恭平に、鷹峯は両手を前に出してストップをかける。
「まずはこれを見て頂けますか?」
そして鷹峯は電子カルテを指差すと、昨夜雛子が受診した際の記録を開いて見せた。
寮に帰り一度自室に荷物を置くと、恭平は真理亜の部屋に向かう。
「お疲れ様、恭平。早かったわね」
インターホンを鳴らすと、程なくしてドアが開いた。病棟にいる時とは違い、長い髪を解いた真理亜がにこやかに恭平を迎え入れる。
「まだ出かける準備が出来ていないの。少し上がって待っていてくれる?」
「……ああ」
招き入れられた部屋の中は、どこか少し甘ったるいような香りが立ち込めていた。真理亜の部屋には何度となく立ち入っているが、彼女の部屋の香りに気が付いたのは今回が初めてだった。
「何系のお店に行く? それによって服を決めるから」
クローゼットを開けながら、真理亜が恭平に訊ねる。
「今日はえっと……あ、金曜日。この時間ならまだどこのお店も入れるかしら?」
続いてカレンダーを見ながらそう話しかける。
「恭平……?」
「……」
やがて真理亜は、何を話しかけても恭平が答えないことに気が付く。どうしたのかとその綺麗な顔を不安げに翳らせて手を止めた。
「……真理亜、お前」
「なに……?」
無表情、けれどどこか真剣な顔付きで、恭平は真理亜を見つめた。二人の視線がぶつかる。
「……お前、雨宮に一服盛ったろ」
部屋の中を、一瞬の静寂が支配した。
「……え?」
真理亜は訳が分からないと言うように首を傾げる。
「なに、言ってるの……?」
真理亜が恭平に詰め寄る。
「ねぇ恭平。どうしたの? 何でそんな酷いこと言うの?」
「……」
「ねぇってば!!」
口を閉ざした恭平に、真理亜が声を荒らげる。詰め寄られた反動で恭平の身体が床に倒れ、真理亜が押し倒す形になる。
「……飲んでないんだ」
その体勢のまま、恭平はぽつりと呟いた。
「昨日の夜、彼女は酒なんて飲んでいない……」
「は……?」
何を言っているか分からない。真理亜はそう言いたげに顔を歪める。
「一緒に飲んでいた鷹峯が見ているんだ。雨宮は昨日、ノンアルコールのカクテルしか口にしていない」
はっきりと告げられたその言葉に、美しい顔が益々歪んでいった。
「はぁ……? 何なのよ、それ……。鷹峯先生と飲んでた……? アルコールは口にしていない……? だってあの子、そんな……」
「雨宮は鷹峯に、お前のことを相談していたそうだ」
「っ……」
恭平は押し倒された体勢のまま、鷹峯から聞いた事実をありのまま伝えた。
「鷹峯は雨宮の体調を気にして、昨日はアルコールを提供しないよう事前に店に頼んでおいたそうだ。雨宮はノンアルとは知らずに飲酒した気分になっていただけだ。それなのに寮へ帰ってお前から酔い覚ましのためにドリンクとサプリをもらってから気を失った」
恭平は続ける。
「検査結果でも確かにアルコールが検出された。急速にアルコールが回ったのを見るに、恐らくエナジードリンクとスピリッツを割ったもの、それから万が一ERで血中薬物濃度を調べられても良いように雨宮が内服しているものと同じ薬をカプセルに詰めて飲ませたんだろう?」
真理亜は何も答えない。
「あいつは強い鎮痛剤と抗不安薬を何錠も内服している。お前それどこかで見て知ってたろ。海で泊まった二日目の朝、あいつのバッグからくすねたんだよな?」
雛子は空の薬包を必ず持ち帰っている。何を飲んでいるか気になった真理亜が、海へ行った翌日に探ったのだろう。
あの日、焦ったような表情でバッグの中にあるピルケースを探していた雛子を恭平は思い出す。
「あいつはお前がインシデントに関与している可能性があると言っていたらしい。真理亜、どうなんだ?」
静かな、けれど強い口調で恭平は真理亜の瞳を見つめた。
「……あの子が初めて受け持ちした日、恭平が受け持ちを代わっていなかったらどうなってたかな」
恭平に跨ったまま、真理亜はそう言って小さく笑った。
「雛子ちゃんが言っていた通りよ。小林さんが不整脈を起こしたのも、彼女が同じ日に何度もインシデントをしたのも、本当は私のせい」
「お前っ……」
悪びれる様子もなくそう宣う真理亜。
「ああ、ちなみにその日に採った血培のコンタミもね。ポイントはダラダラやらずに畳み掛けるようにミスさせること。雛子ちゃん、自分に自信がなくなってさぞかし辛かったでしょうね」
いつも通りの完璧な笑み。しかし目元は笑っていない、冷えた嗤いだった。
「……でも、鷹峯先生はいつでも私のしたことに気が付いてた。その度にチクチク嫌味を言って牽制してきて、証拠を残さないようにするのになかなか骨が折れたわ」
「何でバレたのかしら……」と、どこか遠くを見つめながら真理亜が呟く。その夢見心地な表情に、恭平は何故気付けなかったのかと悔しさを滲ませた。
「真理亜……お前何やってんだよ……『妹』のために看護師になったんじゃねぇのかよ……『もう二度とこんな事はしない』ってあの時約束しただろっ……?」
恭平は苦しげな瞳で馬乗りになっている真理亜を見上げる。その彼の頬に、真理亜はそっと手を当て顔を近付けた。
「……ゾクゾクするの」
囁くような、けれどはっきりとした声。
「駄目って分かってるけど止められないの。落ち込んでる雛子ちゃんを励ます時、皆が私を褒めてくれるの。『優しくて、完璧な看護師』だって……。でも肝心の恭平は全然私を相手にしてくれないじゃない?」
「俺のせいだって言いたいのかっ?」
「あなたが好きなの」
真理亜は恭平に告げる。
「好きよ、恭平」
その言葉に、嘘はなかった。
「……やめろ」
しかし真理亜の想いに、恭平は応えなかった。溜息を吐いて、真理亜は恭平の上から降りる。
「……あ〜あ、シラケる……ほぉんとつれないわよねぇ」
その表情は、いつも通りの完璧な真理亜に見えた。その中に少しだけ哀しい色が混ざっていた。
「ねぇ、ビール一本くらいは付き合ってよ。昔話を肴に、ね?」
いつも通り時間内に仕事を終え、あとは秒針が一周もすれば退勤時刻となる頃。
「お、たかみーだ」
その人物の声に、恭平は座ったまま椅子をくるりと回転させて後ろを仰ぐ。
他の医師と比べて鷹峯が病棟に来る率は低い。総合内科が他科に比べて抱えている患者の全体数が少ないからだ。
「じゃあ恭平、私は先に行ってるから」
「おう、またあとで」
定時になったのを見計らい、真理亜が椅子から立ち上がる。
「おや、デートの約束ですかぁ? それはそれは、勤務終わりに呼び止めて申し訳ありません」
少しも申し訳なさそうには見えない鷹峯だが、いつもの事だと特に気にもせず大人しく呼ばれた方へ向かう。
「今日はひなっちの代わりに真理亜が出勤してくれたからな、その礼に飯奢ることになった」
大雑把に説明する。鷹峯は不思議がるでもなく、むしろ「ああ」と納得したように頷いた。
「雨宮さん、昨日は随分酩酊していましたからね。そして内科のオンコールは私が担当していました」
「へぇ、そうなんだ」
「まぁ、昨夜雨宮さんをバーに連れて行ったのは私なんですけどね」
「へぇ、そう……は?」
一瞬スルーしそうになるも、聞き捨てならない言葉に恭平は信じられないという顔で鷹峯を見つめる。
「鷹峯お前……この前も雨宮のこと酔い潰したくせによくも……」
しかも受診が必要なレベルで飲ませたとなれば、さすがの恭平も黙ってはいられない。そのおかげで、仕事を休んだ雛子は他のスタッフからの心象も少なからず悪くなっているのだ。
「まぁまぁ落ち着いて下さい。私が貴方に声を掛けたのもそのことについてですよ」
胸倉を掴んできそうな雰囲気の恭平に、鷹峯は両手を前に出してストップをかける。
「まずはこれを見て頂けますか?」
そして鷹峯は電子カルテを指差すと、昨夜雛子が受診した際の記録を開いて見せた。
寮に帰り一度自室に荷物を置くと、恭平は真理亜の部屋に向かう。
「お疲れ様、恭平。早かったわね」
インターホンを鳴らすと、程なくしてドアが開いた。病棟にいる時とは違い、長い髪を解いた真理亜がにこやかに恭平を迎え入れる。
「まだ出かける準備が出来ていないの。少し上がって待っていてくれる?」
「……ああ」
招き入れられた部屋の中は、どこか少し甘ったるいような香りが立ち込めていた。真理亜の部屋には何度となく立ち入っているが、彼女の部屋の香りに気が付いたのは今回が初めてだった。
「何系のお店に行く? それによって服を決めるから」
クローゼットを開けながら、真理亜が恭平に訊ねる。
「今日はえっと……あ、金曜日。この時間ならまだどこのお店も入れるかしら?」
続いてカレンダーを見ながらそう話しかける。
「恭平……?」
「……」
やがて真理亜は、何を話しかけても恭平が答えないことに気が付く。どうしたのかとその綺麗な顔を不安げに翳らせて手を止めた。
「……真理亜、お前」
「なに……?」
無表情、けれどどこか真剣な顔付きで、恭平は真理亜を見つめた。二人の視線がぶつかる。
「……お前、雨宮に一服盛ったろ」
部屋の中を、一瞬の静寂が支配した。
「……え?」
真理亜は訳が分からないと言うように首を傾げる。
「なに、言ってるの……?」
真理亜が恭平に詰め寄る。
「ねぇ恭平。どうしたの? 何でそんな酷いこと言うの?」
「……」
「ねぇってば!!」
口を閉ざした恭平に、真理亜が声を荒らげる。詰め寄られた反動で恭平の身体が床に倒れ、真理亜が押し倒す形になる。
「……飲んでないんだ」
その体勢のまま、恭平はぽつりと呟いた。
「昨日の夜、彼女は酒なんて飲んでいない……」
「は……?」
何を言っているか分からない。真理亜はそう言いたげに顔を歪める。
「一緒に飲んでいた鷹峯が見ているんだ。雨宮は昨日、ノンアルコールのカクテルしか口にしていない」
はっきりと告げられたその言葉に、美しい顔が益々歪んでいった。
「はぁ……? 何なのよ、それ……。鷹峯先生と飲んでた……? アルコールは口にしていない……? だってあの子、そんな……」
「雨宮は鷹峯に、お前のことを相談していたそうだ」
「っ……」
恭平は押し倒された体勢のまま、鷹峯から聞いた事実をありのまま伝えた。
「鷹峯は雨宮の体調を気にして、昨日はアルコールを提供しないよう事前に店に頼んでおいたそうだ。雨宮はノンアルとは知らずに飲酒した気分になっていただけだ。それなのに寮へ帰ってお前から酔い覚ましのためにドリンクとサプリをもらってから気を失った」
恭平は続ける。
「検査結果でも確かにアルコールが検出された。急速にアルコールが回ったのを見るに、恐らくエナジードリンクとスピリッツを割ったもの、それから万が一ERで血中薬物濃度を調べられても良いように雨宮が内服しているものと同じ薬をカプセルに詰めて飲ませたんだろう?」
真理亜は何も答えない。
「あいつは強い鎮痛剤と抗不安薬を何錠も内服している。お前それどこかで見て知ってたろ。海で泊まった二日目の朝、あいつのバッグからくすねたんだよな?」
雛子は空の薬包を必ず持ち帰っている。何を飲んでいるか気になった真理亜が、海へ行った翌日に探ったのだろう。
あの日、焦ったような表情でバッグの中にあるピルケースを探していた雛子を恭平は思い出す。
「あいつはお前がインシデントに関与している可能性があると言っていたらしい。真理亜、どうなんだ?」
静かな、けれど強い口調で恭平は真理亜の瞳を見つめた。
「……あの子が初めて受け持ちした日、恭平が受け持ちを代わっていなかったらどうなってたかな」
恭平に跨ったまま、真理亜はそう言って小さく笑った。
「雛子ちゃんが言っていた通りよ。小林さんが不整脈を起こしたのも、彼女が同じ日に何度もインシデントをしたのも、本当は私のせい」
「お前っ……」
悪びれる様子もなくそう宣う真理亜。
「ああ、ちなみにその日に採った血培のコンタミもね。ポイントはダラダラやらずに畳み掛けるようにミスさせること。雛子ちゃん、自分に自信がなくなってさぞかし辛かったでしょうね」
いつも通りの完璧な笑み。しかし目元は笑っていない、冷えた嗤いだった。
「……でも、鷹峯先生はいつでも私のしたことに気が付いてた。その度にチクチク嫌味を言って牽制してきて、証拠を残さないようにするのになかなか骨が折れたわ」
「何でバレたのかしら……」と、どこか遠くを見つめながら真理亜が呟く。その夢見心地な表情に、恭平は何故気付けなかったのかと悔しさを滲ませた。
「真理亜……お前何やってんだよ……『妹』のために看護師になったんじゃねぇのかよ……『もう二度とこんな事はしない』ってあの時約束しただろっ……?」
恭平は苦しげな瞳で馬乗りになっている真理亜を見上げる。その彼の頬に、真理亜はそっと手を当て顔を近付けた。
「……ゾクゾクするの」
囁くような、けれどはっきりとした声。
「駄目って分かってるけど止められないの。落ち込んでる雛子ちゃんを励ます時、皆が私を褒めてくれるの。『優しくて、完璧な看護師』だって……。でも肝心の恭平は全然私を相手にしてくれないじゃない?」
「俺のせいだって言いたいのかっ?」
「あなたが好きなの」
真理亜は恭平に告げる。
「好きよ、恭平」
その言葉に、嘘はなかった。
「……やめろ」
しかし真理亜の想いに、恭平は応えなかった。溜息を吐いて、真理亜は恭平の上から降りる。
「……あ〜あ、シラケる……ほぉんとつれないわよねぇ」
その表情は、いつも通りの完璧な真理亜に見えた。その中に少しだけ哀しい色が混ざっていた。
「ねぇ、ビール一本くらいは付き合ってよ。昔話を肴に、ね?」