その夜、雛子と鷹峯がやってきたのはいつもの大衆居酒屋『呑んだくれ』。
ではない。
仕事が終わらないからと先に夕飯を済ませておくよう言われ、二十一時を回り鷹峯の仕事が終わってから連れて行かれたのは都内の一等地にあるオーセンティックバー『サブローザ』である。
「これはこれは鷹峯先生、お待ちしておりました」
グレイヘアの穏やかそうなマスターが、入店した二人を和やかに迎え入れた。平日ど真ん中のせいか、狭い店内に他の客はいなかった。
「お連れ様も、ようこそおいで下さいました」
「あ、は、はじめましてっ」
緊張して生真面目に挨拶をすると、鷹峯が小さく吹き出した。
(悪かったですね、こういうお店に慣れてなくてっ!)
笑いを堪えている鷹峯に内心悪態をつく。話を聞いてくれると言うから考えなしに着いてきた自分も自分だが、こんな分不相応な店だなんて聞いていない。
「秘密の話は『薔薇の下』で。ピッタリでしょう?」
「バ、バラの下??」
天井を見上げると、確かに一面赤い薔薇の絵柄が施されている。
「それにあちらと違って同僚は滅多に来ない穴場です」
「はぁ……」
あちらとはもちろん『呑んだくれ』のことである。薔薇の下だと何がピッタリなのか雛子には分からないが、確かに職場の人間がいないに越したことはない。
秘密、と人差し指を一本、形の良い唇に添えながら鷹峯はカウンター席に座った。
雛子も鷹峯が引いてくれた椅子にちょこんと腰掛ける。
「何にされますか?」
マスターが訊ねる。
「あ、えっと……」
店内にメニューのようなものは見当たらず、雛子は言い淀む。カクテルなど洒落たものはせいぜい居酒屋の定番メニューにあるものくらいしか思い付かないが、本格的なバーで頼むのは如何なものかと少々気が引けた。
「マティーニ……と言いたいところですが、生憎今日はオンコールなのでノンアルのものを。彼女にも飲みやすいものをお願いします」
「かしこまりました」
見兼ねた鷹峯が、雛子の分までオーダーしてくれる。こんなアバウトな注文で良いのかと不安げな顔をした雛子に、大丈夫ですよと彼は笑いながら携帯用のアルコール消毒液で両手を擦り合わせた。
これは海で一泊した時に知った事だが、飲食の前に手を消毒するのは、潔癖症である鷹峯のルーティンなのだ。手の消毒が終わると今度は除菌シートでテーブルを拭き出す。
失礼ではないかと内心焦る雛子だが、馴染み客のためかマスターは特に気にしている様子もなくほっとする。
「それで、話というのは?」
カウンター越しにシェイカーを振る美しい所作をぼんやり眺めている雛子に、鷹峯が訊ねる。
「あ、はい。実は、真理亜さんのことで……」
雛子は心を決め、舞と幸子から聞いた話を告げた。
「ふむ、なるほど……」
雛子の話を聞いた鷹峯は、顎に手を当てて何やら考え込む。雛子は彼の答えを、固唾を飲んで待ち構える。
「それは、彼女達の気のせいでしょう」
「へっ……?」
覚悟していたものとは違う答えに、雛子は拍子抜けして間抜けな声を上げる。
「気のせい、ですか……?」
鷹峯の否定に安心する自分と納得いかない自分が同居する。雛子は目を瞬かせた。
「気のせいです。そんな事をして清瀬さんに何のメリットが? ああ、それと二歳児の記憶がそこまで明確に残る例もほぼありません」
「で、ですよね……私もそう思ったんですけど、あの二人が嘘を言っているようにも思えなくて……」
断言する鷹峯に一瞬安心するも、やはり腑に落ちない部分もある。
「お待たせ致しました」
その時、ショートグラスに注がれたオレンジ色のカクテルが雛子の前にそっと置かれた。しっかりと冷やされたグラスの細い脚を慎重に持ち、雛子は「いただきます」と言いながら口に運ぶ。
「ん、美味しい!」
爽やかな柑橘とトロピカルな南国の香りが口いっぱいに広がる。甘味と酸味のバランスが良く、フルーティでいくらでも飲めそうだ。
「飲みやすくてもショートカクテルは度数が高いものが多いですよ。気を付けて飲んで下さいね」
「うっ、き、気を付けます……」
鷹峯に釘を刺され、以前酩酊した前科がある雛子は一気に飲み干しそうになっていたカクテルを慌ててコースターに戻す。
「で?」
「で? とは?」
鷹峯に促され、雛子は首を傾げる。
「ん? もしかして話ってそれだけですか?」
雛子のものに続いて提供されたカクテルを楽しみながら、鷹峯が飽きれたように笑う。
「そ、それだけです……」
もっと愉しい話が聞けると思ったのに、と言いたげな鷹峯の様子に、思い詰めていた自分が何だか馬鹿馬鹿しく思える。
「で、でも、さっちゃんが見た『薬をポケットに入れた』っていうのも勘違いですか? そんな都合良く見間違えますかね……」
安心したいと思いつつ、雛子は尚も疑問をぶつける。
「ああ、それはあの日、私が小林さんの内服を変更したからですよ。恐らく清瀬さんは、指示変更を受けて一度配薬したものを回収したんでしょう」
「なるほど……」
鷹峯の説明を聞き、雛子はようやく安堵の表情を浮かべた。
「というか、貴女は以前も篠原さんに騙されて痛い目見てますよね。歴史に学べとは言いませんが、せめて経験から学習するって事が出来ないんですか?」
「うっ……」
それを言われてしまうとグウの音も出ない。
「池野先生のお子さんも、いくら聡明とはいえまだ五歳。医療の知識もないのですから、看護師が何のために点滴や薬を触っているかなど理解出来るとは思えません」
まだ何か疑問でも? とチャームのミックスナッツを摘みながら鷹峯は訊ねる。
「……だったら何で、先生は真理亜さんのことを嫌ってるんです? 私はてっきり、先生は何かに気付いているからだと……」
真理亜が潔白なら、今度は鷹峯の態度の理由が謎のままだ。
「何でって、それは清瀬さんが気の強い美人だからです」
「……は?」
突拍子もない返答に、雛子は頭にはてなマークを浮かべた。
「気の強い美人って、征服したくなりますよね?」
「いえ……別になりませんけど……」
単純に、鷹峯の性癖に刺さったということか。
深く探るのはやめよう。雛子はこの話題を掘り下げることはしないでおこうと心に決める。
(そっか……やっぱり気のせいだったんだ)
雛子はようやく少しほっとして、残っていたカクテルを飲み干した。心の靄が一気に晴れた気分だった。
「鷹峯先生のおかげでようやく安心出来ました。ありがとうございます」
雛子の言葉に、鷹峯もにんまりと口角を上げる。
「それは良かったです。今夜は奢りますよ」
その申し出に、雛子は目を輝かせた。
「ありがとうございます! マスター、おかわり下さいっ」
「どのようなものになさいますか?」
「えーっと、今度はベリー系のとか……」
「……飲み過ぎだけは本当に気を付けて下さいよ」
「はぁーい」
返事はするものの、こんなお洒落なお店に来たことのない雛子は普段口にしないカクテルに興味津々だ。悩み事が解決したのだから、せっかくなので思う存分楽しみたい。
結局その後は二時間ほど酒を楽しみ、鷹峯と雛子は病院の敷地内にて解散となった。
「ありがとうございました。話を聞いてもらった上に奢っていただいて……」
「いえ、案外有意義に過ごせましたよ。では」
オンコール当番の鷹峯は、呼び出しに備えて当直室に泊まるようだ。雛子は晴々とした気分でエントランスのオートロックを開ける。
(高いお酒だからかな? 全然気分も悪くならない……)
普段は居酒屋しか利用しないため酎ハイやサワーしか飲んだことがなかったが、たまには美味しいお酒を少量嗜むのも悪くない。
これが社会人の醍醐味か、などと考えながら、管理人室の前を通り過ぎる。
「あれっ?」
エレベーターホールには、エレベーターを待つ女性が一人立っていた。その後ろ姿に見覚えがあり、雛子は思わず声を上げる。
「あら、雛子ちゃん?」
声に反応して振り返ったのは、思った通り清瀬真理亜、その人であった。
「お帰りなさい。この時間に帰ってきたってことは、もしかして飲んでたのかしら?」
「は、はい。まぁ」
真理亜の鋭い指摘に、雛子は笑って言葉を濁す。まさか真理亜のことで悩んで鷹峯に話を聞いてもらっていたなど口が裂けても言えない。
二人は到着したエレベーターに乗り込む。
「楽しくてちょっと飲み過ぎちゃいました……明日も日勤だし、早く帰って休まないと……」
飲んだと言ってもショートカクテル三杯程度である。缶チューハイ一本と比べても驚くほど酔いを感じないが、真理亜に対し後ろめたさを感じてつい饒舌になってしまう。
「あらあら、大丈夫?」
真理亜が困ったように整った眉根を寄せる。そんな顔も綺麗だな、と呑気に考える。やはり彼女は優しい。
「二日酔い予防のドリンクがうちに置いてあるから、明日に残らないよう飲んで行ったら?」
「え、良いんですか?」
真理亜の提案に、雛子は素直に従う。最近独り立ちしたばかりだし、調子に乗って飲酒して次の日インシデントを起こすなど最悪のパターンは何としても回避したい。
「ええ、どうぞ上がっていって」
エレベーターが真理亜の部屋の階に到着すると、雛子は大人しく真理亜の後に着いていく。玄関のドアを開けると、真理亜と同じほのかな甘い香りが漂った。
(私の部屋と同じ作りなのに、何故か部屋の空気まで色っぽい……)
何となく来てはいけない秘密の花園に来てしまったような気がして、少しだけ落ち着かない。家具家電付きのため内装も一緒のはずなのに、住む人間が違うだけでこうも差が出るのかと感心する。
「ちょっと待ってて。適当に座っていてね」
部屋の真ん中に置かれている小さなテーブルの前に、雛子は所在なさげに座る。真理亜はキッチンの方で何やら準備すると、トレイに小さな瓶とサプリを乗せて部屋に入ってきた。
「はい、これとこれ。雛子ちゃん相当飲んだんじゃない? 大分顔が赤いけれど」
瓶の蓋を開けながら、真理亜が心配そうに訊ねる。
「えへ、分かります? 実は普段あまり行かないようなお店だったので、つい楽しくなっちゃって……」
いただきます、と声をかけ、雛子はドリンクでサプリを流し込む。瓶にはインパクトのある色使いで『その日の酔いは、その日のうちに!!』とプリントされていた。
何だか真理亜のイメージとはそぐわない。
「普段行かないようなお店? 何それ、デートでもしてきたの?」
真理亜からニコニコとからかうように聞かれ、雛子は首がちぎれるほど横に振る。
「ま、まさか! えっと……同期の夏帆ですよ! 先輩に教えて貰ったらしくて、私も連れていってもらっただけです!」
咄嗟に嘘が口をつく。真理亜に申し訳ないと思いつつ、今度夏帆に口裏合わせをお願いしなければと心に決める。
真理亜は特に疑った様子もなく、雛子を微笑ましげに見つめた。
「ふふ。最近独り立ちしてどう? 何か困ってることはない?」
ああ、姉がいたらこんな感じなんだろうな。一人っ子の雛子は思う。
「もういっぱいいっぱいですよぉ。今まで以上に桜井さんにも迷惑かけっぱなしで……」
早く一人前になりたい、と雛子は意気込む。
「あら、焦ることないわよ。初めは皆出来なくても当然だもの」
「真理亜さぁん……」
病棟が真理亜のような優しい人ばかりだったら良いのに。とはいえ自身の性格を鑑みるに、もし本当にそうだったらいつまでも甘えて成長すらしないかもしれない。
「本当に、うっかりミスが多いんですよね私って……今まで皆さんに……特に、桜井さんや真理亜さんにはどれだけ助けられたことか……」
「あら、そんなことないわ。一年目なんて皆同じよ」
目の前がぼんやりとする。
(あれ、時間差で急に酔いが回ってきたな……)
鷹峯にも釘を刺されたと言うのに、飲みやすいからといってやはり調子に乗ってしまっただろうか。
それに物凄く眠い。
「雛子ちゃん?」
急に黙り込んだ雛子に、真理亜の心配気な声がどこか遠くに聞こえる。
大丈夫ですよ、と言ったつもりが、果たして声が出ていたかどうかすら怪しい。
視界が急激に回転する。
あれ、さっそくまた迷惑、かけてるな……。
そんなことを微かに考えているうち、視界は完全に暗闇に溶けた。
ではない。
仕事が終わらないからと先に夕飯を済ませておくよう言われ、二十一時を回り鷹峯の仕事が終わってから連れて行かれたのは都内の一等地にあるオーセンティックバー『サブローザ』である。
「これはこれは鷹峯先生、お待ちしておりました」
グレイヘアの穏やかそうなマスターが、入店した二人を和やかに迎え入れた。平日ど真ん中のせいか、狭い店内に他の客はいなかった。
「お連れ様も、ようこそおいで下さいました」
「あ、は、はじめましてっ」
緊張して生真面目に挨拶をすると、鷹峯が小さく吹き出した。
(悪かったですね、こういうお店に慣れてなくてっ!)
笑いを堪えている鷹峯に内心悪態をつく。話を聞いてくれると言うから考えなしに着いてきた自分も自分だが、こんな分不相応な店だなんて聞いていない。
「秘密の話は『薔薇の下』で。ピッタリでしょう?」
「バ、バラの下??」
天井を見上げると、確かに一面赤い薔薇の絵柄が施されている。
「それにあちらと違って同僚は滅多に来ない穴場です」
「はぁ……」
あちらとはもちろん『呑んだくれ』のことである。薔薇の下だと何がピッタリなのか雛子には分からないが、確かに職場の人間がいないに越したことはない。
秘密、と人差し指を一本、形の良い唇に添えながら鷹峯はカウンター席に座った。
雛子も鷹峯が引いてくれた椅子にちょこんと腰掛ける。
「何にされますか?」
マスターが訊ねる。
「あ、えっと……」
店内にメニューのようなものは見当たらず、雛子は言い淀む。カクテルなど洒落たものはせいぜい居酒屋の定番メニューにあるものくらいしか思い付かないが、本格的なバーで頼むのは如何なものかと少々気が引けた。
「マティーニ……と言いたいところですが、生憎今日はオンコールなのでノンアルのものを。彼女にも飲みやすいものをお願いします」
「かしこまりました」
見兼ねた鷹峯が、雛子の分までオーダーしてくれる。こんなアバウトな注文で良いのかと不安げな顔をした雛子に、大丈夫ですよと彼は笑いながら携帯用のアルコール消毒液で両手を擦り合わせた。
これは海で一泊した時に知った事だが、飲食の前に手を消毒するのは、潔癖症である鷹峯のルーティンなのだ。手の消毒が終わると今度は除菌シートでテーブルを拭き出す。
失礼ではないかと内心焦る雛子だが、馴染み客のためかマスターは特に気にしている様子もなくほっとする。
「それで、話というのは?」
カウンター越しにシェイカーを振る美しい所作をぼんやり眺めている雛子に、鷹峯が訊ねる。
「あ、はい。実は、真理亜さんのことで……」
雛子は心を決め、舞と幸子から聞いた話を告げた。
「ふむ、なるほど……」
雛子の話を聞いた鷹峯は、顎に手を当てて何やら考え込む。雛子は彼の答えを、固唾を飲んで待ち構える。
「それは、彼女達の気のせいでしょう」
「へっ……?」
覚悟していたものとは違う答えに、雛子は拍子抜けして間抜けな声を上げる。
「気のせい、ですか……?」
鷹峯の否定に安心する自分と納得いかない自分が同居する。雛子は目を瞬かせた。
「気のせいです。そんな事をして清瀬さんに何のメリットが? ああ、それと二歳児の記憶がそこまで明確に残る例もほぼありません」
「で、ですよね……私もそう思ったんですけど、あの二人が嘘を言っているようにも思えなくて……」
断言する鷹峯に一瞬安心するも、やはり腑に落ちない部分もある。
「お待たせ致しました」
その時、ショートグラスに注がれたオレンジ色のカクテルが雛子の前にそっと置かれた。しっかりと冷やされたグラスの細い脚を慎重に持ち、雛子は「いただきます」と言いながら口に運ぶ。
「ん、美味しい!」
爽やかな柑橘とトロピカルな南国の香りが口いっぱいに広がる。甘味と酸味のバランスが良く、フルーティでいくらでも飲めそうだ。
「飲みやすくてもショートカクテルは度数が高いものが多いですよ。気を付けて飲んで下さいね」
「うっ、き、気を付けます……」
鷹峯に釘を刺され、以前酩酊した前科がある雛子は一気に飲み干しそうになっていたカクテルを慌ててコースターに戻す。
「で?」
「で? とは?」
鷹峯に促され、雛子は首を傾げる。
「ん? もしかして話ってそれだけですか?」
雛子のものに続いて提供されたカクテルを楽しみながら、鷹峯が飽きれたように笑う。
「そ、それだけです……」
もっと愉しい話が聞けると思ったのに、と言いたげな鷹峯の様子に、思い詰めていた自分が何だか馬鹿馬鹿しく思える。
「で、でも、さっちゃんが見た『薬をポケットに入れた』っていうのも勘違いですか? そんな都合良く見間違えますかね……」
安心したいと思いつつ、雛子は尚も疑問をぶつける。
「ああ、それはあの日、私が小林さんの内服を変更したからですよ。恐らく清瀬さんは、指示変更を受けて一度配薬したものを回収したんでしょう」
「なるほど……」
鷹峯の説明を聞き、雛子はようやく安堵の表情を浮かべた。
「というか、貴女は以前も篠原さんに騙されて痛い目見てますよね。歴史に学べとは言いませんが、せめて経験から学習するって事が出来ないんですか?」
「うっ……」
それを言われてしまうとグウの音も出ない。
「池野先生のお子さんも、いくら聡明とはいえまだ五歳。医療の知識もないのですから、看護師が何のために点滴や薬を触っているかなど理解出来るとは思えません」
まだ何か疑問でも? とチャームのミックスナッツを摘みながら鷹峯は訊ねる。
「……だったら何で、先生は真理亜さんのことを嫌ってるんです? 私はてっきり、先生は何かに気付いているからだと……」
真理亜が潔白なら、今度は鷹峯の態度の理由が謎のままだ。
「何でって、それは清瀬さんが気の強い美人だからです」
「……は?」
突拍子もない返答に、雛子は頭にはてなマークを浮かべた。
「気の強い美人って、征服したくなりますよね?」
「いえ……別になりませんけど……」
単純に、鷹峯の性癖に刺さったということか。
深く探るのはやめよう。雛子はこの話題を掘り下げることはしないでおこうと心に決める。
(そっか……やっぱり気のせいだったんだ)
雛子はようやく少しほっとして、残っていたカクテルを飲み干した。心の靄が一気に晴れた気分だった。
「鷹峯先生のおかげでようやく安心出来ました。ありがとうございます」
雛子の言葉に、鷹峯もにんまりと口角を上げる。
「それは良かったです。今夜は奢りますよ」
その申し出に、雛子は目を輝かせた。
「ありがとうございます! マスター、おかわり下さいっ」
「どのようなものになさいますか?」
「えーっと、今度はベリー系のとか……」
「……飲み過ぎだけは本当に気を付けて下さいよ」
「はぁーい」
返事はするものの、こんなお洒落なお店に来たことのない雛子は普段口にしないカクテルに興味津々だ。悩み事が解決したのだから、せっかくなので思う存分楽しみたい。
結局その後は二時間ほど酒を楽しみ、鷹峯と雛子は病院の敷地内にて解散となった。
「ありがとうございました。話を聞いてもらった上に奢っていただいて……」
「いえ、案外有意義に過ごせましたよ。では」
オンコール当番の鷹峯は、呼び出しに備えて当直室に泊まるようだ。雛子は晴々とした気分でエントランスのオートロックを開ける。
(高いお酒だからかな? 全然気分も悪くならない……)
普段は居酒屋しか利用しないため酎ハイやサワーしか飲んだことがなかったが、たまには美味しいお酒を少量嗜むのも悪くない。
これが社会人の醍醐味か、などと考えながら、管理人室の前を通り過ぎる。
「あれっ?」
エレベーターホールには、エレベーターを待つ女性が一人立っていた。その後ろ姿に見覚えがあり、雛子は思わず声を上げる。
「あら、雛子ちゃん?」
声に反応して振り返ったのは、思った通り清瀬真理亜、その人であった。
「お帰りなさい。この時間に帰ってきたってことは、もしかして飲んでたのかしら?」
「は、はい。まぁ」
真理亜の鋭い指摘に、雛子は笑って言葉を濁す。まさか真理亜のことで悩んで鷹峯に話を聞いてもらっていたなど口が裂けても言えない。
二人は到着したエレベーターに乗り込む。
「楽しくてちょっと飲み過ぎちゃいました……明日も日勤だし、早く帰って休まないと……」
飲んだと言ってもショートカクテル三杯程度である。缶チューハイ一本と比べても驚くほど酔いを感じないが、真理亜に対し後ろめたさを感じてつい饒舌になってしまう。
「あらあら、大丈夫?」
真理亜が困ったように整った眉根を寄せる。そんな顔も綺麗だな、と呑気に考える。やはり彼女は優しい。
「二日酔い予防のドリンクがうちに置いてあるから、明日に残らないよう飲んで行ったら?」
「え、良いんですか?」
真理亜の提案に、雛子は素直に従う。最近独り立ちしたばかりだし、調子に乗って飲酒して次の日インシデントを起こすなど最悪のパターンは何としても回避したい。
「ええ、どうぞ上がっていって」
エレベーターが真理亜の部屋の階に到着すると、雛子は大人しく真理亜の後に着いていく。玄関のドアを開けると、真理亜と同じほのかな甘い香りが漂った。
(私の部屋と同じ作りなのに、何故か部屋の空気まで色っぽい……)
何となく来てはいけない秘密の花園に来てしまったような気がして、少しだけ落ち着かない。家具家電付きのため内装も一緒のはずなのに、住む人間が違うだけでこうも差が出るのかと感心する。
「ちょっと待ってて。適当に座っていてね」
部屋の真ん中に置かれている小さなテーブルの前に、雛子は所在なさげに座る。真理亜はキッチンの方で何やら準備すると、トレイに小さな瓶とサプリを乗せて部屋に入ってきた。
「はい、これとこれ。雛子ちゃん相当飲んだんじゃない? 大分顔が赤いけれど」
瓶の蓋を開けながら、真理亜が心配そうに訊ねる。
「えへ、分かります? 実は普段あまり行かないようなお店だったので、つい楽しくなっちゃって……」
いただきます、と声をかけ、雛子はドリンクでサプリを流し込む。瓶にはインパクトのある色使いで『その日の酔いは、その日のうちに!!』とプリントされていた。
何だか真理亜のイメージとはそぐわない。
「普段行かないようなお店? 何それ、デートでもしてきたの?」
真理亜からニコニコとからかうように聞かれ、雛子は首がちぎれるほど横に振る。
「ま、まさか! えっと……同期の夏帆ですよ! 先輩に教えて貰ったらしくて、私も連れていってもらっただけです!」
咄嗟に嘘が口をつく。真理亜に申し訳ないと思いつつ、今度夏帆に口裏合わせをお願いしなければと心に決める。
真理亜は特に疑った様子もなく、雛子を微笑ましげに見つめた。
「ふふ。最近独り立ちしてどう? 何か困ってることはない?」
ああ、姉がいたらこんな感じなんだろうな。一人っ子の雛子は思う。
「もういっぱいいっぱいですよぉ。今まで以上に桜井さんにも迷惑かけっぱなしで……」
早く一人前になりたい、と雛子は意気込む。
「あら、焦ることないわよ。初めは皆出来なくても当然だもの」
「真理亜さぁん……」
病棟が真理亜のような優しい人ばかりだったら良いのに。とはいえ自身の性格を鑑みるに、もし本当にそうだったらいつまでも甘えて成長すらしないかもしれない。
「本当に、うっかりミスが多いんですよね私って……今まで皆さんに……特に、桜井さんや真理亜さんにはどれだけ助けられたことか……」
「あら、そんなことないわ。一年目なんて皆同じよ」
目の前がぼんやりとする。
(あれ、時間差で急に酔いが回ってきたな……)
鷹峯にも釘を刺されたと言うのに、飲みやすいからといってやはり調子に乗ってしまっただろうか。
それに物凄く眠い。
「雛子ちゃん?」
急に黙り込んだ雛子に、真理亜の心配気な声がどこか遠くに聞こえる。
大丈夫ですよ、と言ったつもりが、果たして声が出ていたかどうかすら怪しい。
視界が急激に回転する。
あれ、さっそくまた迷惑、かけてるな……。
そんなことを微かに考えているうち、視界は完全に暗闇に溶けた。