オーシャンビューの開放的な窓に二十畳の広々としたリビングが売りのセミスウィートルームは、このコンドミニアムで一番人気の部屋だ。

シーズン中は素泊まりするにはやや割高だが、それを少し外したこの時期は比較的リーズナブルに借りることができる。

「ひなっちは絶対飲みすぎちゃ駄目デス」

「分かってます……って、それ私のですよ桜井さん!」

リビングの真ん中にあるローテーブルを取り囲むようにしてL字型のソファが設置されている。

そのソファでは、各々が好みの酒を手に寛ぎながらカードゲームに興じていた。

「お、これうま」

「だからそれ私のです! あーっ、全部飲まれた!」

空になったレゲエパンチの缶をゴミ袋に突っ込み、雛子は憤慨する。

「……うわぁ間接キス……。私、潔癖症なので絶対無理です……」

「え、鷹峯先生意外です。誰彼構わず女の人とキスしてそうなのに」

雛子の酒を勝手に飲む恭平にドン引きする鷹峯。そして鷹峯にわりと失礼なイメージを持つ夏帆。

「キス……? 無理です。ムリムリ。誰彼構わずセックスは出来ます。でもどんなに好きな相手でもキスだけは無理です。口腔内にどれだけ細菌が存在すると思ってるんですか? 正気の沙汰とは思えません」

「セッ……」

「……ゴホゴホッ」

「いやぁん私もキスなしで良いから抱かれたぁい」

雛子は赤面し、悠貴はむせ、舞は目にハートを浮かべる。

一方鳥肌を擦りながらムリムリと繰り返す鷹峯。珍しく顔を青ざめさせている彼に、恭平がにやりと口角を上げる。

「あ、たかみーの美味そう。一口もらいー」

「あっ、うわ、もうそれいりません」

鷹峯はまるでゴミでも見るような目で恭平を見つめる。

「いつかたかみーにもキスしたくなるくらい好きな女の子ができるといいなー」

「そういう女性が現れたらその方と結婚すると決めています」

「……相手から断られるかもしれないことは考慮しねーのか」

悠貴のツッコミに答えは返ってこない。

「……はい、雛子ちゃん。どっちでしょう?」

真理亜が二枚のカードを雛子の前に出す。先程の会話を完全スルーしているが、実は彼女が心底軽蔑したような目で鷹峯を見ていたことは皆気付いていた。

雛子は目の前の二枚のうち、迷いに迷って一枚を選ぶ。

「あ」

そのカードには、憎たらしい笑顔のクラウンと『JOKER』の文字。

「また雨宮が負け? ババ抜き弱すぎかよ」

「ババ抜きだけじゃないわ……何やっても弱いのよ雛子は……」

競い合うように酒を煽っていた悠貴と夏帆が、思わず手を止めて憐れみの目を雛子に向けた。

「はい! 私アイス!」

「酒」

「酒」

「つまみで」

「カップ焼きそば」

「じゃあお水で」

「真理亜さんまで……」

がくりと項垂れる雛子。

「はい、じゃあカード配りますよ」

一位で上がっていた鷹峯が親となり手札を分配していく。

「諦めなさい。元々次に負けた人が追加の買い出しに行くってルールだったでしょ?」

勝ち誇ったような舞の言葉に、雛子は仕方なく財布を持って買い出しに向かう。

「気を付けて行けよ」

恭平の声が後ろから飛んでくる。

「寄り道しないで、真っ直ぐ帰ること」

「……子ども扱いしないで下さい」

ブスっと頬を膨らませ、雛子は部屋を出る。








玄関のドアを開けると、オレンジの西陽が視界いっぱいに広がった。その眩しさに思わず顔を顰めながら、エレベーターを呼び一階へ降りる。

エントランスから一歩外へ出ると、目の前の西日を反射する海にはまだ何人か人影が見えた。

昼間より随分人は減ったが、今いる複数人はほとんどがカップルのようだ。浜辺で肩を寄せ合い、ただ海を眺めている。

「浜辺でいちゃいちゃですか……良いなぁ」

雛子も人並みに恋愛には興味があるし、願わくばそういう相手に出会いたい気持ちはある。

ただ、今までに機会がなかっただけだ。

徒歩十分程のコンビニへ行く途中も、数組のカップルとすれ違った。

そのうち何人かの女性は、ビキニやワンピースの水着姿だった。

「水着、可愛いなぁ」

惜しげも無く肌を晒す彼女達に、少しだけ僻みを込めて雛子はゴチる。

生ぬるい潮風が柔らかく通り過ぎ、去っていく。

海岸沿いには街路樹とばかりにヤシの木が等間隔で並んでいて、空々しくリゾートらしさを演出していた。

「……早く買って帰ろーっと」

せっかく皆で遊びに来ていると言うのに、海に沈む夕陽を見てセンチメンタルに浸っている場合ではない。

雛子はビーチサンダルを履く足に力を入れ、小走りでコンビニへと向かった。













「ただいま戻りまし……あれ?」

リビングに続くドアを開け、雛子は目を瞬かせる。

「あ、おかえりなさい雛子ちゃん」

「随分時間がかかりましたねぇ」

そこにいたのはいつも通りの柔らかな笑みを浮かべる真理亜、そして鷹峯の二人だけだった。

双方対面のソファに座りにこやかな表情を崩さないものの、室内の体感温度が二、三度低いことには気付かないふりをする。

ローテーブルの上は既に片付けられ、二人が飲んでいる缶チューハイがそれぞれ一本ずつ置かれているだけだった。

「悠貴君と夏帆ちゃん、潰れちゃってね。二人とも隣の部屋に運んだのよ」

真理亜が綺麗に整った眉を八の字にして告げる。

「それから」

次に真理亜は、もうひと部屋の方に目を向ける。

「篠原さん、少し熱っぽいみたい。今恭平が付いてるわ」

「あ、え、そう、なんですか……?」

真理亜の言葉に何故か動揺してしまい、雛子は上擦った声でそう返した。

「ええ、それでとりあえずお開きになりましてね。ここで私と清瀬さんは深めたくもない親睦を深めているところなんですよ」

「大丈夫ですよ先生。全然深まってないですから。うふふ」

「あ、えーーーーっと、私、篠原さんにアイス届けてこようかなぁっ?」

その場の雰囲気に耐えきれず、雛子はビニール袋の中から頼まれていたアイス、それから念の為多めに買っておいたミネラルウォーターを取り出し、急いで恭平達のいる部屋に向かった。










「似てますよねぇ。彼女と貴女」

雛子が舞にアイスを届けに行ったあと、鷹峯は面白そうに口角を歪めながらそう宣った。その言葉に、真理亜はピクリと眉を動かす。

「彼女って、誰のことです?」

缶チューハイの結露を指先でなぞりながら、真理亜は問う。鷹峯はわざと驚いたような顔をして見せた。

「これはこれは。まさか雨宮さんだと思いましたかぁ?」

その言葉に、真理亜の指先に力が入る。アルミの缶が小さく音を立てて僅かにへこむ。

「篠原さんですよ。美人で、まぁ彼女は貴女ほど賢くはないかもしれませんが。いや、狡賢い、と言えばしっくり来ますか、ねぇ?」

にんまりと目を細めてみせる鷹峯に、真理亜は苛立ちを隠して笑みを作って見せた。

「さぁ? 全然似てないと思いますけど?」

その反応に、鷹峯はやはり愉しそうにしながら残っていたチューハイを一気に煽る。

「良いですねぇ。その目」

そして雛子が置いていったビニール袋から新しい缶を二本取り出し、一つを真理亜に渡した。潔癖症と言うだけあり、飲み口の部分を除菌シートで神経質に拭う。

「同族嫌悪、ですか?」

真理亜の綺麗な口角が僅かに歪む。

「あー、それ。良い表情しますねぇ。そそられますよ、とても」

「……」

可笑しそうにそう宣いながら、鷹峯は自分の持つ缶を真理亜のそれに軽く当て、「乾杯」と囁いた。













雛子が買い出しに出かけて程なくした頃である。

「……あれ、入山君、市ヶ谷さん、起きてくださーい?」

次第に目の焦点が合わなくなってきたかと思うと、二人はこくりこくりと船を漕ぎ始める。鷹峯の呼び掛けにも反応がない。

「駄目だなこりゃ。あっちで寝かすか」

やがて完全に寝始めてしまった二人を恭平と鷹峯で運んでいくのを横目に、舞は缶チューハイで首元を冷やしていた。

何となく、頭がぼんやりする。

身体にも気怠さを感じるものの、スマホのカレンダーを睨み付けながら舞は首を捻る。まだ退院してから一週間しか経っていない。

「舞」

名前を呼ばれふとスマホから視線を上げると、至近距離から恭平に顔を覗き込まれていた。

「どうした?」

ドキリと胸が高鳴る。平素からあまり表情の読めない恭平に目を合わせられると、何故だか心の奥深くまで飲み込まれそうな恐怖感すら覚えてしまう。

それでも、その全てを見透かすかのような瞳が好きで、舞は目が離せなくなる。

「あ、えっと……」

頭が働かず何と返事をするか考えている間に、恭平の大きな手のひらが舞の頬や首筋を触れる。

「少し熱っぽいか……? いつもの発熱周期より随分早いな」

考え込む恭平に、舞の胸はより一層大きな音を立て始めた。

恭平が好きだ。

そう思い始めたのはいつ頃のことだろう。

舞はぼんやりする頭で考えた。

「では、篠原さんはあちらの部屋で休んでもらいましょうか」

「ああ、そうだな。いけるか?」

恭平が身体を支えて立たせてくれる。されるがままに舞は隣の部屋へと連れて行かれ、二つあるベッドのうち片方に寝かされる。

「たかみー、どう思う?」

着いてきていた鷹峯が、スマホのライトを片手に診察する。彼は確か、総合内科医だと言っていた。

「口内炎も扁桃の腫れも見られません。恐らく軽い熱中症でしょう」

日中屋外で行動すると、夜になって時間差で熱中症になることがあるのだと彼は説明した。

「水分をしっかり摂って、まだ早いですが今日はこのまま休んだ方が良いでしょう。明日には身体の違和感もなくなると思いますよ。お大事に」

「分かったわ……」

それだけ言うと、鷹峯は部屋をあとにした。いつもの発熱ではなくて良かったと、舞は人知れず息を吐く。

「大丈夫か?」

恭平が再び覗き込む。

いつもの病室とは違うベッド。私服姿の恭平。ホテルとも違うコンドミニアムの室内は、まるで同棲しているカップルのそれに思える。

「舞?」

何も答えない舞に、恭平は問いかける。

「……」

恭平が好きだ。

今日たまたま有給を貰えて、気紛れにやってきた海で恭平を見つけた時、その偶然に今までにないほど心が踊った。

その隣にいたのが病棟屈指の美人看護師である清瀬真理亜だと気付いて、自分でも驚くほど咄嗟に声をかけてしまった。

彼は舞と偶然出くわしても相変わらず驚いた顔ひとつせずに、『奇遇だな』と感想を述べただけだった。

「恭平……」

好きだと、はっきり伝えたかった。

舞は小さく呟き、俯いたまま彼のTシャツを握り締めた。

「あのね、恭平、私っ……」


その時────。


控えめに、けれど急いだようなノックが三回聞こえる。ドアを開けたのは買い物から帰った雛子だった。

「おう、お疲れさん」

恭平の顔を見た雛子が、ほっと緊張を緩めるかのように笑って見せた。

そしてそれに応えるかのように、恭平が薄らと笑みを浮かべたのを舞は見逃さなかった。

(笑った……)

雛子はアイスとミネラルウォーターのボトル、そして木のスプーンをベッドのサイドテーブルに置いた。

「篠原さん、熱っぽいって……大丈夫ですか……?」

心配そうに声を掛ける雛子に対し、恭平が舞の代わりに答える。

「たかみーが言うには、軽い熱中症だって。今日しっかり休めば良くなるらしい」

それを聞いた雛子が、心底安心したかのように笑った。

(恭平の表情が読めないんじゃない……)

羨ましい。

そんな感情が、舞の心を黒く満たした。

(私には、あんな表情してくれないだけだわ……)

患者としていつも自分に優しくしてくれている恭平。その関係性を勘違いしているつもりはなかった。

それなのに。

「それなら良かったですね、篠原さん」

心からほっとしたという顔をして見せる雨宮雛子という人間が羨ましくて、憎たらしく思えた。

(何で恭平、こんな女にあんな顔するのかしら……)

どん臭くて、仕事もできそうになくて、顔もスタイルも自分より劣っている。性格は良いのかもしれないが、それだってきっと幸せな家庭に育ってのほほんとしているだけだろう。

それなのに、同じ職場の人間と言うだけで、舞より随分後に現れた女が恭平の隣で親しげに笑っている。

「気に入らない……」

「えっ?」

舞がぽつりと呟いた言葉が聞き取れず、雛子が聞き返す。

「……何でもないわ」

舞はベッドの上でアイスのカップを開け、ひと口掬う。

「ありがとう、これ食べたらもう休むわ」

そう告げると、雛子はやっと安心したように微笑み、恭平と一緒に部屋を出ていった。