「海だーっ!!!!」

同期である入山悠貴(いりやま ゆうき)の叫びに、雨宮雛子(あまみや ひなこ)はそれまで俯いていた顔を上げた。

目の前には白い砂浜があり、その向こうには太陽を反射させて輝く海が一面に広がっていた。テンションの上がった悠貴はビーチサンダルで浜辺へと続く階段を駆けていく。

「雛子」

同じく同期の市ヶ谷夏帆は、雛子の肩にそっと手を置く。

「大丈夫?」

皆まで言わずとも分かる。特別に思い入れていた患者が亡くなって日が浅く、落ち込んでいる雛子を夏帆は心配気に見つめた。

「うん、大丈夫」

雛子は笑って見せた。

「せっかく三人で合わせて休み取ったんだもん。すっごく楽しみ!」

前々から、この夏は三人で泊まりがけで海水浴に行こうと話していた。しかしそれぞれに仕事も抱えており、念願叶ったのは時期を外した九月に入ってからとなった。

結果として人気のコンドミニアムが低価格で予約でき、同じ関東圏にいながら豪華なリゾート旅行に来た気分だ。

「ん、なら良いけど。いやーそれにしても意外とビーチもまだ人がいるのね。もっとスカスカかと思ってたわ」

「本当にねぇ。水着の人も結構多いね」

真夏よりはマシだと思うものの、まだまだ残暑の厳しい時期である。(まば)らではあるが、時期外れの海へ遊びに来る人間というのは一定数いるらしい。

さすがに泳いでいる人はいないが、波が高い分サーファーの姿は何人か確認できる。また、砂浜ではそれぞれ思い思いの方法で晩夏のビーチを楽しんでいた。

「海の家もないしクラゲがいて泳げないけど、砂浜と波打ち際で遊ぶには今が暑過ぎなくてちょうど良いのよね」

さっそく場所取りをしてパラソルを広げている悠貴の元に着くと、夏帆は躊躇いなくTシャツとホットパンツを脱ぎ捨てビキニ姿になる。

「よし入山、ビーチフラッグで勝負よ!」

「おう! 望むところだ!」

悠貴もTシャツを脱いで元々履いていた海パン一枚になると、荷物の中から旗を取りだし人通りの少ない所に立てる。

「負けたら裸でビーチ一周ね」

「何で俺が負ける前提で話してんだコラ」

「二人とも怪我はしないようにねー」

同期達のやり取りを微笑ましく見ながら、雛子は一人パラソルの下に置いたビーチチェアに寝そべった。

「ん〜気持ち良い〜」

じわりとまとわりつくような暑さの中にも、どこか秋めいた心地良さを感じる。

(やっぱりこの格好じゃちょっと暑いな……)

Tシャツの上に羽織ったUVカットパーカーを脱ぐかしばらく逡巡し、結局やめた。

(あの二人、同じジム通ってるんだよね。身体仕上がってるなぁ)

目の前を全速力で走り抜けていく水着姿の二人が、何だかとても眩しくて少し羨ましくなった。




「ほら、言ったじゃないですか。連れがいると」




突如として聞こえたここにいるはずのない声に、雛子は一気に現実に引き戻された。

「え〜意外! こんなちんちくりんな女のどこが良いのよ!」

驚いて声のした方へ振り向くと、そこにいたのは思っていた通りの人物。

鷹峯(たかがみね)、先生……?」

総合内科医の鷹峯柊真(たかがみね とうま)、そして彼の腕にまとわりつく見知らぬ女性だった。

女性は豊かな胸を鷹峯の腕にこれでもかと押し付けながら、ゴミか虫でも見つけたような目で雛子を見下ろしていた。

「私から言わせれば貴女も十分ちんちくりんですよ。ご自身のどこにそれ程の自信があるんです?」

ほら、言ってみてくださいよ、まさかその脂肪の塊ですか? と煽る鷹峯に、まとわりついていた女性は一瞬にして顔を真っ赤にした。

「はぁっ!? 信じらんないっ!!」

キッと何故か鷹峯ではなく雛子を睨みつけて、女性は足早に去っていった。

「ふぅ、これで良し」

「いやいやいやいやいや」

自分は何故鷹峯に連れ呼ばわりされ、そして見知らぬ女性に貶され睨まれないといけないのか。

旅行に来てまでこの仕打ちである。

「いやぁそれにしても奇遇ですねぇ。あ、お友達の市ヶ谷夏帆(いちがや かほ)さんと入山悠貴(いりやま ゆうき)君もご一緒なんですね」

「……いつも思ってたんですけど先生ってスタッフ全員記憶してるんですか?」

「別に覚えたいわけではありませんが、一度見たもの聞いたものは勝手に脳がインプットしてしまうので」

大方、逆ナンパに遭って辟易していたところに偶然にも雛子を見つけたといったところだろう。そもそも何故鷹峯がここにいるのだろうか。

「久々に三日も休暇が取れたので、ドライブがてらたまには海でも見て癒されたくなったんです。これあげるから許してください」

雛子の意を汲んだのか、鷹峯は手に持っていた二つのアイスコーヒーのうち一つを雛子に渡しながら謝罪する。

「ありがとうございます……え、でも何で二つも買ってるんですか?」

アイスコーヒーは見慣れたコンビニのロゴが描かれている。付近にこのコンビニがないことから、これを購入したのはナンパされる前のことだろう。雛子は首を傾げる。

「ああ、ナンパ避けのつもりで買ったんですけどね、頭の悪い人ってそういうの気付かないみたいですねぇ……いやぁ不思議不思議」

鷹峯は先程の女性のことを思い出しているのか、まるで未確認生物の話でもするかのように眉間に皺を寄せた。

「うぉっ、あれっ、た、鷹峯先生! お疲れ様ですっ!!」

雛子が見ていただけでも三本は走り込んでいた悠貴と夏帆が汗だくになりながら戻ってきた。

悠貴は鷹峯に苦手意識でもあるのか、彼を視認した瞬間ぎこちない動きで頭を下げた。

「入山君は私に何か嫌な思い出でもあるんでしょうかね? お疲れ様です」

「先生も海とか来るんですね」

一方の夏帆は特にいつもと変わらない表情で一礼すると、パラソルの下に置いていたクーラーボックスからスポーツドリンクを取り出し口をつけた。

「たまには日常を忘れて羽を伸ばしに……と言いたいところですが、同僚に会ってしまうとそんな特別感もなくなりますねぇ」

「本当ですね。ではここで皆さん、あちらをご覧下さい」

「??」

夏帆は表情を変えずに、すっと右手を海の方へ差し向けた。鷹峯、悠貴、そして雛子の三人は言われた通りそちらに顔を向ける。


「恭平〜!! すっごぉい格好良かった〜!!」

「ふふふ、良かったわねぇ恭平。篠原さんに褒めてもらえて。次はもうちょっと沖まで出ましょう?」

「はぁ……」

海からサーフボードを抱えて上がってきたのは桜井恭平(さくらい きょうへい)、その両脇には同じくサーフボードを抱えた清瀬真理亜(きよせ まりあ)と、恭平の腕に絡み付く篠原舞(しのはら まい)

「これはこれは」

「あれを見つけてしまって思わず最終レースだけ入山に負けたわ……」

「っていうか……えぇっ、何あの組み合わせ……?」

「げっ、あのワガママ女じゃん」

寮から電車で一時間の距離とはいえ、確かにこれだけ知り合いに会うともはや日常と変わりない。

「あら、あれ雛子ちゃんじゃない?」

真理亜が複数人の視線に気が付き、恭平をつつく。両隣で繰り広げられる水面下の戦いに内心げんなりしていた恭平は、意外な面子が揃っていることに僅かに眉を上げた。

「お、お疲れ様です。篠原さんもこんにちは」

雛子は思わずビーチチェアから立ち上がり、職場の先輩二人に上擦った声で挨拶する。舞にも挨拶するが、思い切り聞こえないふりをされた。

「モテモテですねぇ桜井君?」

「……うるせぇな」

その三人はともかく何故お前が一緒にいる、とでも言うかのように恭平は目で不満を訴えていたが、鷹峯はにんまりと口角を上げてそれをスルーしてみせた。

一方真理亜は鷹峯に一瞬嫌そうな表情を見せたものの、すぐにいつもの女神様のような微笑みを浮かべる。

「確か雛子ちゃんと仲良しの同期の子達ね? 『私と恭平は』サーフィンしに『一緒に』来たのよ」

鷹峯を無視しながら、真理亜は恭平とペアであることを強調する。それを訴えている相手が先程からずっと恭平の腕に絡み付いている舞に向けてであることは明白だった。

「私は良い男探しに来てたんだけどぉ。すっごく上手でイケてるサーファーがいると思ったら恭平だったの! これってもう運命だわぁ!」

自らを抱き締めながらそう宣う舞。腕の間からは自慢の胸が零れ落ちそうで、雛子はヒヤヒヤしながらもついそれを盗み見てしまう。

(……誰この頭の悪そうなビッチは)

(……病棟の常連患者、篠原舞さん)

耳打ちで夏帆に説明しているうちに、舞は今度は鷹峯に猫なで声を上げ始める。

「あっ、病棟で見たことある先生だぁ。何科のお医者さんなんですかぁ?」

「し、篠原さん……」

この女、平素は恭平恭平と散々まとわりついておきながら、イケメンと見れば手当り次第擦り寄るようだ。

だがしかし、鷹峯だけは辞めておけ。何せ彼は恭平のように優しくはない。

「貴女は篠原舞さん、ですね。私も何度かお見かけしたことがありますよ」

周囲の心配を他所に、鷹峯は当たり障りなく対応する。そして─────。



「せっかく顔馴染みが揃ったんですし、どうせなら一緒に休日を楽しみません?」


鷹峯は何を考えているか分からない笑みを深くした。身内の人間関係を掻き回して遊ぶこの男、どうやら大層な悪癖の持ち主のようだ。













「ひなっち右!!」

「は、はいっ! うぁっ」

フリーハンドで描かれた砂のコートギリギリのラインを狙って、元バレー部である夏帆のアタックが振り下ろされる。

アタックが打たれる直前の僅かな身体の動きを読んで、恭平が指示を出した方向へ言われるがまま雛子は動く。

「はい、ゲームセット〜」

雛子が砂に足を取られそのまま砂浜にダイブしたところで、ビーチボールは審判をしていた鷹峯の足元に転がっていった。

「……ほんっと鈍臭い女」

「か、かたじけない……」

チームメイトのはずの舞から容赦ない言葉を浴びせられ、雛子は平謝りする他ない。

「ていうか、何でそんな動きにくい格好してるのよ? あんた水着持ってきてないわけ?」

「な、ないです。ごめんなさい……」

舞に突っ込まれるのも無理はない。全員が水着を着ている中、雛子はまるで子どもの水泳発表会を見に来た母親のようなUVカットファッションに身を包んでいた。

「分かった。まな板だからでしょ」

「ちょっ、なっ、なんてこと言うんですか皆の前でっ!」

しかしこのナイスバディの持ち主が揃う前では、確かに水着を着るのも勇気が必要かもしれない。

「っしゃあ! またこっちのチームの圧勝だぜー!」

反対側のコートでは、悠貴がガッツポーズで飛び上がっていた。

「そりゃそうでしょ。私と真理亜さんのタッグなら負けるわけがない。つまりお荷物はアンタだ入山」

「俺もサーブ決めただろうが!」

同じ元バレー部のよしみでいつの間にか真理亜と仲良くなった夏帆が、キッパリと悠貴を指差した。

「交代しましょうか、雨宮さん?」

完全にへばっている雛子を見兼ねて、鷹峯が交代を申し出る。それに嬉々として賛成したのはもちろん舞だ。

「じゃあ〜次は恭平と鷹峯先生が私のチームね! いやぁん最高のメンバーだわぁ〜」

頬を押えて悦に入ってる舞を後目に、恭平が未だ座り込んでいる雛子を引っ張り起こす。

「ほら、お前座って審判してろ」

「は、はい、ありがとうございます」

普段は白衣に隠されている均整のとれた身体に、薄らと汗が浮かんでいる。何だか見てはいけないものを見ている気がして、雛子は煩くなった心臓を誤魔化すように少しだけ目を伏せる。

「ボコボコにして差し上げますよ、清瀬さん」

「……私に何の恨みがあるかは存じませんが、どうぞご自由になさって?」

「ス、スタート! 試合スタートしましょうっ!」

鷹峯の軽口に、目元をひくつかせながらも笑顔で応じる真理亜。場に渦巻き始めた冷気に肝を冷やされ、雛子は試合開始の合図を送る。

「……絶対負けないわよ、夏帆ちゃん」

「任せてください、真理亜さん」

サーブを構える夏帆が真理亜に答える。

「行きます」

およそビーチボールとは思えない球速で、夏帆の放ったサーブは舞の足元へと落下した。

「きゃっ! ちょ、ちょっとあの女、今私のこと狙ったわよ!?」

「勝つために下手くそなやつ狙って何が悪いんだバーカ!!」

舞の抗議に、悠貴が応酬する。

「バカとは何よ! アンタだって何の役にも立ってないでしょーが!!」

「少なくともお前よりはボール拾えてるわ!!」

「鷹峯先生、さっきの威勢はどうされたのかしら?」

「いやぁビックリするほど予想通りの手の内だったのでつい気が抜けちゃいまして」

(何でこの人達罵り合わないと気が済まないんだろ……)

少しは恭平と夏帆を見習え。雛子は砂の上に正の字で得点を記録しながら、心の中でゴチる。

「まぁでもそうですね。確かに弱い人を狙うのは必勝法」

再び放たれた夏帆のサーブを、鷹峯は難なく受け止め高くトスを上げた。

「ですよね、桜井君?」

「おう、悪いな入山」

「んなっ……!?!?」

高い位置から力強く打ち込まれた恭平のアタックが、悠貴の顔面にクリーンヒットした。

「うわっ、悠貴大丈夫!?」

「アーハッハッハッ!!! 弱いやつは狙われるのよっ!!」

仕返しとばかりに、舞が悪役令嬢のごとく高笑いをしてみせる。悠貴は顔面を押さえながら悔しそうに起き上がった。

「……ちっくしょう。認めたくはないが、市ヶ谷の言う通り俺はお荷物だ。おいワガママ女! 俺達二人は抜けるぞ!」

「はぁっ!? ちょっと何勝手に決めてんのよっ……!」

不平を述べながらも、悠貴が抜けてしまったのを見て仕方なく舞も離脱する。

残ったのは恭平・鷹峯vs真理亜・夏帆の四人だ。

「お前も見てただろ雨宮。鷹峯先生と恭平さんの華麗なコンビネーション。真理亜さんと市ヶ谷がいくら元バレー部とはいえ、これは厳しい戦いだぜ」

「うん、言いたいことは分かるんだけど、何でたかがビーチバレーでそこまでガチンコなわけ?」

真剣な顔で額の汗を拭う悠貴に、雛子もまた真剣な顔でツッコミを入れる。

初めの頃は恭平のことをスカした野郎だなんだと言っていた悠貴だが、街で遭遇した一件以来すっかり彼に惚れていた。そして先月行われた男性看護師の飲み会でたまたま隣の席になり、そこで完全にトドメを刺されたらしい。

今では親愛の意を込めて名前で呼ぶほどに心酔している。

「恭平ー! 鷹峯先生ー! 頑張ってぇー!!」

舞はというと、既に男性チームのスポンサーとして応援に徹していた。

「今度はこっちがサーブだな」

恭平がボールを手に後ろへ下がる。

「手加減無用よ、恭平」

「分かってる」

珍しく好戦的な瞳の真理亜に、恭平は僅かに口角を上げて頷いて見せた。

(桜井さんと真理亜さん、出身大学も一緒って聞いてるけど本当に仲良いんだな……)

なかなか落下することなく激しく宙を舞い続けるボールを眺めながら、雛子はそんなことを考えていた。

(今日も一緒にサーフィンしに来たみたいだし……普段休みの日も会ったりしてるのかな)

両者の実力差はほぼなく五分五分と言ったところ。女性チームはバレー経験者だけあって圧倒的技巧派であり、スポーツ万能らしい男性チームの方は体格とパワー面でバレー経験のなさをカバーしていた。

「すっげー戦いだな。一点入んのにどんだけ時間かかんだよ」

「私お腹空いてきた〜。ていうかもう二時過ぎてんじゃない」

デュース戦に入ってからもなかなか勝負が決まらず、舞がスマホの画面を見ながらボヤく。

(ああ、どうりで……)

時間を聞いて、雛子は納得した。

(ちょっと痛みが出てきたな……)

先程から、身体の奥がじわじわと焼けるように痛み出していた。気温の高い中慣れないスポーツをした上、内服時間がいつもより遅い。徐々に鎮痛剤の効果が切れてきてしまっている。

皆が試合に集中している間に、昼用の薬を飲もう。

そう思い、雛子は立ち上がった。

「ッ……!」

一瞬、身体中に電気が流れたような痛みが走る。声は堪えたものの、苦痛に思わず顔が歪んだ。悠貴と舞はと言うと、女性チームが最後の一点を取れるかどうかの最終局面に目を奪われていた。

(セーフ……何とかバレなかっ……)

ふと前を向く。

「……っ!?」

恭平と、そして鷹峯が少し驚いたような顔をしている。目が合った、気がした。

一瞬の出来事過ぎて確信が持てなかった。次の瞬間には真理亜のアタックが二人の間を縫うようにして放たれ、ボールはそのまま砂浜へ着地した。

「ゲームセット! 真理亜さん市ヶ谷チームの勝利!!」

悠貴が興奮したように拍手している。

「もぉ〜! 恭平も鷹峯先生も私のためにもっと頑張って欲しかったぁ〜!」

舞は可愛く頬を膨らませながら恭平の腕に絡み付く。

「真理亜さん最後めっちゃ格好良かったですー!」

「うふふ、ありがとう夏帆ちゃん」

ビーチバレー対決ですっかり仲良くなった夏帆と真理亜は、ハイタッチで勝利を分かち合っていた。

「……あ〜あ、ちょっと油断しましたかねぇ?」

「……そうかもな」

鷹峯は前髪をかき上げ、ミネラルウォーターを口にしながら恭平に問う。二人とも汗こそかいているものの、あれだけの試合後なのに息一つ乱れていない。

「最初の威勢はどうされたのかしら、鷹峯先生?」

真理亜が勝ち誇ったようにそう訊ねる。鷹峯はさして気分を害した様子はなく、軽快に拍手してみせる。

「いやぁ〜お見逸れ致しました。さすがは経験者だけある。学生時代とても努力されていたんでしょうねぇ」

鷹峯は新しいミネラルウォーターを一本、真理亜に手渡す。

「……『何事も』このくらい真剣に向き合ったらいかがです?」

「……? 何のことかしら?」

そのやり取りは、他の者には聞こえなかった。

「……いえ別に? さて、そろそろ休憩にしましょうか」

鷹峯はさっさと皆の方に向き直り休憩を提案する。午前中ひたすらスポーツに興じていた一同に、異論を唱える者はいない。

「……しかし白熱し過ぎてさすがに疲れたな」

恭平がちらりと雛子の方を気にしながら告げる。

「あ、それなら午後はウチらが泊まる予定のコンドミニアムで遊びません? なんなら皆さん泊まっていっちゃって良いですし」

「あ、それ良い〜! 恭平と鷹峯先生も行くでしょ?」

夏帆の提案に、すかさず舞が男性二人の片腕ずつを取って頷く。

「私は明日も休みですし構いませんよ。泊まりなら……そうですねぇ、飲み会でもしますかねぇ?」

「げっ……マジかよ……」

彼はまだ人間関係を引っ掻き回したくて仕方ないようである。本気とも冗談ともつかない鷹峯の発言に、悠貴は顔を引き攣らせ小声で抗議する。

「……たかみーが行くなら俺も行く」

鷹峯には以前に雛子を泥酔させた前科がある。そのことを警戒している恭平も名乗りを上げる。

「私は恭平が運転してくれないと帰れないし、行くしかないかしら?」

困ったような口ぶりの真理亜も、満更でもなさそうである。

「よし、決まりですね。泊まるのは人数分の料金を払えば了承して貰えると思います」

こうして急遽、恭平、鷹峯、真理亜、舞の四人も宿泊旅行に参加することとなった。

「俺達三人はコンビニで色々買っていくんで、コンドミニアムのロビー集合で良いっすか?」

悠貴が一年三人で買い出しに行くことを提案する。さすがに先輩や患者にお遣いを頼むのは気が引けるので、このメンバーでは自分達が妥当だろう。

「リクエスト受け付けます」

Tシャツとホットパンツを身につけながら夏帆も頷く。

「いやでも……」

恭平が何か言い淀んで再び雛子に目を向ける。皆に背を向け、薬を急いで流し込んでいた雛子は彼の二度の視線にも気付かない。

「ちょっと、アンタ何飲んでんの?」

「はうっ! えっ、し、篠原さんっ!?」

舞に肩を叩かれ、雛子はビクリと振り返る。皆の視線が自分に注がれているのが分かり、一気に嫌な汗が吹き出る。

(嘘……まさか見られたっ……?)

心臓がドキドキと嫌な音を立てる。一瞬の間が、まるで永遠のように長く感じた。

知られたくない。

その気持ちが、雛子の判断力を鈍らせ言葉が浮かばない。

「はぁ? 何よその反応は? それよ、それ! ちょっと貸して!」

言葉を詰まらせた雛子の手から、業を煮やした舞がペットボトルを取り上げた。

「あ、これ新発売のフレーバーティーね。私もこれが良い! これ買ってきて!」

「あっ……」

単純に飲み物を訊ねられただけだと気付き、全身から緊張が抜ける。舞から粗雑にペットボトルを投げ返されると、まだ薬の効いていない身体が堪えきれずふらりと揺らいだ。

その身体を、さり気なく支える大きな手。

「大丈夫か」

恭平が、雛子の顔を見下ろす。彼の大きな手がペットボトルを持っていない方の手に指を絡め、そして手首へと移動する。

「指先が冷たい。脈は……ちょっと速いな。熱中症か?」

雛子からは逆光になっていて、平素より乏しい恭平の表情が今は更に分からない。

「あ……だい、じょうぶ、です、よ?」

そう告げたのに、恭平の手はなかなか雛子を離してはくれなかった。

「なぁんでお前にパシられなきゃなんねーんだ! 雨宮の代わりにお前が着いてこいよ!」

「嫌よ疲れたもん! アンタがその三人で行くって言ったんでしょ!」

放っておくとこの二人はすぐに罵り合いが始まる。結局雛子も同期三人で行くことに賛成したため、その場はことなきを得た。











「なかなか気苦労が絶えませんねぇ。雨宮さんのプリセプターというのは」

真理亜と舞が着替えに行っている間、鷹峯がそう言ってくつくつと笑う。一方恭平は、何が面白いのか分からないといった真顔のまま頷いて見せた。

「まぁな。だがあいつは俺に何も言ってこない。だから俺も何も聞かない」

恭平は人より表情に乏しい。しかし鷹峯は、今彼の中に焦りや不安が燻っていることを感じ取っていた。

「何を知ってんの。たかみーは」

「その変なあだ名やめてくださいって言いましたよね? ロックバンドじゃないんですから」

名字が長い、という理由だけで適当なあだ名を付けられ、それが恭平の中で定着してしまっていることに鷹峯は抗議する。

「そんなこと、今はどうでも良いだろ」

面白くなさそうに抗議され、鷹峯はますます笑みを深くした。

「ひどくご執心なんですねぇ。貴方にしては珍しい」

どうしちゃったんです? 鷹峯はそう宣う。しかし当の本人は、怒るでもなく至極真面目な顔で頷いてみせる。

「ああ、前も言ったろ、あいつが大事なんだって。プリセプターとして俺には責任があんだよ」

自分の感情に無自覚なのか、はたまた本当にただの師弟感情のつもりなのか。鷹峯にそれを測ることはできない。

「やれやれ、まぁ大事なのは大変よく分かりました」

「だったら」

「けど。他人の個人情報をばら撒くのはご法度でしょう。アウティングは美学に反します」

「……」

恭平がどのような感情からこれ程の使命感を持っているのかは分からない。

しかし正直なところ、淡々と飄々を体現しているような彼がここまで他人に興味を示すこと自体、鷹峯からすれば意外であり、興味深かった。

「もうちょっと仲良くなったら、自分で聞いてみるのはいかがです?」

「……」

恭平はまだ何か言いたげな表情であったが、それを口に出す事はなかった。



「恭平〜! 鷹峯先生〜! 待ったぁ〜?」

着替えを終えた女性陣二人が戻ってくる。

「更衣室、今なら空いてるわよ。恭平も着替えてきたら?」

鷹峯先生も。と真理亜はついでのように付け加える。

「おう」

「そうさせて頂きましょうか」

男性二人も更衣室で併設のシャワーを浴びてからラフな格好に着替えると、四人はスマホで開いた地図を頼りにコンドミニアムへと向かった。