思えば朝からイレギュラーなことばかり起こり、休日のわりに忙しい一日だったと鷹峯は懐古する。
土曜日は自分の担当外来がない。そのため当直日以外は朝一で数少ない自分の入院患者を診察してカルテを書き、ゆっくりと休日を満喫すると決めているのだ。
総合内科では診断がつき次第適切な科に患者を転科させるため、自分で担当する患者は①転科先の医師が手一杯で受け入れてもらえない時の一時しのぎの場合②診断が付かず検査目的に入院する場合、基本的にはこれら二つである。
今日は②の患者がアレストを起こしたと朝日も登る前から呼び出され、何とか蘇生した矢先に①の患者の受け入れ先が空いたと連絡を受けたため、書きかけだったカルテを急いで仕上げた。
その後は普段通り入院患者たちの診察に回り、そのうちの一人の検査結果を見ようとカルテを開いたが、まだ結果が反映されていなかったため検査科に直接降りた。
しかし検査科も本日は休日、当番の検査技師二人は別の検体を調べていたため、自分で検体をチェックしていく。
そこで診断が付き、至急カルテを書き転科先の医師へコンサルの院内メールを飛ばした。ついでにその患者と家族を呼び病状説明をしたところで、気付いたら貴重な土曜日もほぼ一勤務分が終わる頃になっていた。
週明けの仕事がいくつか片付いただけだ。そう自分を納得させつつ、更衣室で白衣を洗濯に出してさっさと帰宅しようと言う時だった。
人気のない階段をのろのろと降りる小柄な女性スタッフの姿が目に映った。
「ううっ……ひっく……だから私はぁ……駄目なんれすよぅ〜……」
病院からほど近い場所にある居酒屋『呑んだくれ』のカウンター席に、ベロベロに酔いの回った看護師、雨宮雛子とそれを面倒くさそうに眺める鷹峯柊真の姿はあった。
「もうどぉしよもなくドン臭くてぇ……ひっく……怒られてばっかだし……でも今日は桜井さんからぁ……怒られすらしなかったんれすぅ〜っ」
管を巻く雛子に、鷹峯は適当に相槌を打ちながら自分も五杯目のハイボールに口をつけた。
何でこんなことになったんだろうか。一瞬思考を巡らすも、自分が帰りがけに雛子を食事に誘ったのだと思い出す。
「いやぁ、私はてっきり桜井君の逆鱗にでも触れて引っぱたかれたのかと思いましたよ。最近プリセプティが彼氏に現抜かしてるらしいって愚痴ってましたからねぇ」
「なんの話ですかぁ……」
雛子は難しい話でも聞いているかのように眉間に皺を寄せた。鷹峯はやれやれと溜息を吐く。
「面白い話が聞けると思って誘ったんですがねぇ」
その容姿や仕事ぶりから、元々何かと院内で噂されがちな鷹峯と恭平である。
その二人が実は、時々サシで飲みに出かけるほどに仲がいいというのは二年目以降のスタッフなら周知の事実だ。
「きっともぉ飽きれられてるんれす……もぉ桜井さんは私のことなんか嫌いなんれすよぉ〜! せんせぇちゃんと人の話聞いてますかぁ!?」
「聞いてます、聞いてますよ。……それより貴女、酒飲めるんですか? 深酒はやめた方が良いですよ。ほっぺたも余計に腫れますし」
最初は少しくらい飲ませても問題ないだろうと傍観していた鷹峯だが、彼女の飲酒ペースにはさすがに眉を顰める。
聞けば夜勤明けで昼食も仮眠も取らず空きっ腹にいきなりサワーを煽り始めたらしく、ジョッキ一杯を飲み終わる頃にはすでにこの状態に出来上がっていた。
「らぁいじょうぶれすよ! らいじょうぶ! たいしょー! 青りんごサワーおかわり!」
「大丈夫には見えないんですがねぇ」
雛子は焼き鳥をもぐもぐと咀嚼しながらまたサワーを注文している。
「あ、大将。ノンアルにしといて下さい」
「あいよ。先生も大変だねぇ。雛子ちゃん、普段は全然飲まないのによっぽど落ち込んでんだね」
焼き鳥を焼きながら一緒に話を聞いていた『呑んだくれ』の大将は苦笑しながら、青りんごサワーの代わりにサイダーをジョッキに注いでカウンター越しに雛子に渡す。
「はぁ〜……しぇんしぇ〜……あたし……まりあさんみたいになりたいれす……きれいで……仕事できて……めっちゃ優しくてぇ……」
ただのサイダーをぐびぐびと一気に飲み干すと、雛子はとろんとした目でカウンターに潰れた。
「えぇ〜? 清瀬さんですかぁ? ま、私はオススメしませんけど、好みは人それぞれですからねぇ」
真理亜の名前を聞き、鷹峯は心底嫌そうに眉間にシワを寄せた。
「……今回の件、私が主治医なら怒ったりしませんけどね」
鷹峯の言葉に、雛子は眠そうな目を瞬かせる。
「桜井君が言っていた通り個人の価値観の問題ですよ。確かにそれを判断するには雨宮さんに知識も経験も足りなかった。それでも、間違ってたとは思いません。そして桜井君が怒らなかった理由も、きっと『同じ』でしょう。決して貴女に飽きれた訳ではありませんよ」
「しぇんしぇ……」
鷹峯は氷の溶け始めたハイボールを飲み干すと、伝票を持って立ち上がる。
「いいひと! しぇんしぇ意外といいひと!!」
「分かりました。分かりましたから離れて下さい。夜勤明けでシャワーも浴びてないような汚い人に触りたくありません」
「ひどい〜……」
腕に張り付いてきた酔っ払いを引き剥がすと、さっさと会計を済ませて大将に礼を言いながら店を出る。
「さぁ、帰って貴女はもう寝て下さい。ちょっと飲み過ぎて……雨宮さん? もしもーし?」
動いたことで完全に酔いが回ったのだろう。店から出た瞬間、重そうだったまぶたが完全に閉じ、雛子の身体がグラグラと大きく揺れだした。
さすがに汚いなどとは言っていられず、倒れ込みそうになったのを咄嗟に支える。
(軽いな……)
受け止めた彼女の身体は、ぽすりと片腕に収まった。
「ほら、ちゃんと歩いて下さい。もうすぐ迎えが来ますから」
そう告げたのと、道の向こうから男が一人、走ってくるのとほぼ同時だった。
「はぁっ……これっ、どういう状況?」
息を切らす男に、鷹峯はにんまりとした笑みを深くした。
「来てくれてありがとうございます、桜井君」
急いで走ってきたと見られる恭平は、額の汗を拭いながら不機嫌そうな顔をする。
「質問に答えろ」
珍しく怒っている様子の恭平に、鷹峯は切れ長の瞳を僅かに見開いた。
「べつに、どうもこうもありませんよ? 面白い話を聞こうと思って食事に誘ったら、酒が弱すぎてクダ巻かれちゃいました」
それだけです、と言うと、ぽいっとぞんざいに雛子を投げ渡す。粗雑に扱われても、一切目を覚ます様子がない。
「……っと、ひなっち、おーい?」
恭平の呼び掛けにも反応がない。
「……ったく。冷やしとけって言ったのに」
冷やさなかったことに加え飲酒によって益々赤くなった頬を、恭平がまるで壊れ物を扱うように撫でる。
「そんなに慌ててくるほど彼女が大事なんですか?」
楽しそうな鷹峯の問いに、恭平は訝しげに首を傾げる。
「そりゃそうだろ。こいつは俺のプリセプティだぞ。それにあんな写真送られてくれば誰だって心配する」
『あんな』というのはカウンターで正体をなくしている雛子の様子である。恭平からしてみれば、雛子が酩酊していることも、鷹峯という悪い男に連れ回されていることも、こうして着の身着のまま寮を飛び出してくる程の緊急事態だったのだろう。
「そうでしたかぁ。それはそれはすみません。では保護者も来たことですし、私はこれで失礼しますよ。……面白いものも見れましたしね」
芝居がかった物言いでくつくつと笑みを零しながら、鷹峯は駅の方へと消えていった。
「……あのやろー、何企んでやがった?」
雛子を抱いたまま取り残された恭平は、しばらく鷹峯の消えていった方を見つめながら考えた。
「……まぁ良いや、とりあえず帰るぞひなっち」
とは声をかけるものの、一グラムも自分の足で体重を支える様子のない彼女を見て仕方なく背負うことにする。
土曜日の街中はサラリーマンよりも学生などの若者で賑わっており、皆そろそろ二件目に向かう頃なのかいくつかのグループがワイワイと楽しそうに通り過ぎていった。
時々雛子を背負う恭平を見て指をさしたり何か言っている様子の者も見られるが、元々人目などはばからないタイプの恭平である。そんなものは一切気にしないで黙々と寮を目指す。
「……恭平?」
だから気が付かなかった。たまたま通りの向かいを歩いていた真理亜が、二人の姿を目で追っていることに。
土曜日は自分の担当外来がない。そのため当直日以外は朝一で数少ない自分の入院患者を診察してカルテを書き、ゆっくりと休日を満喫すると決めているのだ。
総合内科では診断がつき次第適切な科に患者を転科させるため、自分で担当する患者は①転科先の医師が手一杯で受け入れてもらえない時の一時しのぎの場合②診断が付かず検査目的に入院する場合、基本的にはこれら二つである。
今日は②の患者がアレストを起こしたと朝日も登る前から呼び出され、何とか蘇生した矢先に①の患者の受け入れ先が空いたと連絡を受けたため、書きかけだったカルテを急いで仕上げた。
その後は普段通り入院患者たちの診察に回り、そのうちの一人の検査結果を見ようとカルテを開いたが、まだ結果が反映されていなかったため検査科に直接降りた。
しかし検査科も本日は休日、当番の検査技師二人は別の検体を調べていたため、自分で検体をチェックしていく。
そこで診断が付き、至急カルテを書き転科先の医師へコンサルの院内メールを飛ばした。ついでにその患者と家族を呼び病状説明をしたところで、気付いたら貴重な土曜日もほぼ一勤務分が終わる頃になっていた。
週明けの仕事がいくつか片付いただけだ。そう自分を納得させつつ、更衣室で白衣を洗濯に出してさっさと帰宅しようと言う時だった。
人気のない階段をのろのろと降りる小柄な女性スタッフの姿が目に映った。
「ううっ……ひっく……だから私はぁ……駄目なんれすよぅ〜……」
病院からほど近い場所にある居酒屋『呑んだくれ』のカウンター席に、ベロベロに酔いの回った看護師、雨宮雛子とそれを面倒くさそうに眺める鷹峯柊真の姿はあった。
「もうどぉしよもなくドン臭くてぇ……ひっく……怒られてばっかだし……でも今日は桜井さんからぁ……怒られすらしなかったんれすぅ〜っ」
管を巻く雛子に、鷹峯は適当に相槌を打ちながら自分も五杯目のハイボールに口をつけた。
何でこんなことになったんだろうか。一瞬思考を巡らすも、自分が帰りがけに雛子を食事に誘ったのだと思い出す。
「いやぁ、私はてっきり桜井君の逆鱗にでも触れて引っぱたかれたのかと思いましたよ。最近プリセプティが彼氏に現抜かしてるらしいって愚痴ってましたからねぇ」
「なんの話ですかぁ……」
雛子は難しい話でも聞いているかのように眉間に皺を寄せた。鷹峯はやれやれと溜息を吐く。
「面白い話が聞けると思って誘ったんですがねぇ」
その容姿や仕事ぶりから、元々何かと院内で噂されがちな鷹峯と恭平である。
その二人が実は、時々サシで飲みに出かけるほどに仲がいいというのは二年目以降のスタッフなら周知の事実だ。
「きっともぉ飽きれられてるんれす……もぉ桜井さんは私のことなんか嫌いなんれすよぉ〜! せんせぇちゃんと人の話聞いてますかぁ!?」
「聞いてます、聞いてますよ。……それより貴女、酒飲めるんですか? 深酒はやめた方が良いですよ。ほっぺたも余計に腫れますし」
最初は少しくらい飲ませても問題ないだろうと傍観していた鷹峯だが、彼女の飲酒ペースにはさすがに眉を顰める。
聞けば夜勤明けで昼食も仮眠も取らず空きっ腹にいきなりサワーを煽り始めたらしく、ジョッキ一杯を飲み終わる頃にはすでにこの状態に出来上がっていた。
「らぁいじょうぶれすよ! らいじょうぶ! たいしょー! 青りんごサワーおかわり!」
「大丈夫には見えないんですがねぇ」
雛子は焼き鳥をもぐもぐと咀嚼しながらまたサワーを注文している。
「あ、大将。ノンアルにしといて下さい」
「あいよ。先生も大変だねぇ。雛子ちゃん、普段は全然飲まないのによっぽど落ち込んでんだね」
焼き鳥を焼きながら一緒に話を聞いていた『呑んだくれ』の大将は苦笑しながら、青りんごサワーの代わりにサイダーをジョッキに注いでカウンター越しに雛子に渡す。
「はぁ〜……しぇんしぇ〜……あたし……まりあさんみたいになりたいれす……きれいで……仕事できて……めっちゃ優しくてぇ……」
ただのサイダーをぐびぐびと一気に飲み干すと、雛子はとろんとした目でカウンターに潰れた。
「えぇ〜? 清瀬さんですかぁ? ま、私はオススメしませんけど、好みは人それぞれですからねぇ」
真理亜の名前を聞き、鷹峯は心底嫌そうに眉間にシワを寄せた。
「……今回の件、私が主治医なら怒ったりしませんけどね」
鷹峯の言葉に、雛子は眠そうな目を瞬かせる。
「桜井君が言っていた通り個人の価値観の問題ですよ。確かにそれを判断するには雨宮さんに知識も経験も足りなかった。それでも、間違ってたとは思いません。そして桜井君が怒らなかった理由も、きっと『同じ』でしょう。決して貴女に飽きれた訳ではありませんよ」
「しぇんしぇ……」
鷹峯は氷の溶け始めたハイボールを飲み干すと、伝票を持って立ち上がる。
「いいひと! しぇんしぇ意外といいひと!!」
「分かりました。分かりましたから離れて下さい。夜勤明けでシャワーも浴びてないような汚い人に触りたくありません」
「ひどい〜……」
腕に張り付いてきた酔っ払いを引き剥がすと、さっさと会計を済ませて大将に礼を言いながら店を出る。
「さぁ、帰って貴女はもう寝て下さい。ちょっと飲み過ぎて……雨宮さん? もしもーし?」
動いたことで完全に酔いが回ったのだろう。店から出た瞬間、重そうだったまぶたが完全に閉じ、雛子の身体がグラグラと大きく揺れだした。
さすがに汚いなどとは言っていられず、倒れ込みそうになったのを咄嗟に支える。
(軽いな……)
受け止めた彼女の身体は、ぽすりと片腕に収まった。
「ほら、ちゃんと歩いて下さい。もうすぐ迎えが来ますから」
そう告げたのと、道の向こうから男が一人、走ってくるのとほぼ同時だった。
「はぁっ……これっ、どういう状況?」
息を切らす男に、鷹峯はにんまりとした笑みを深くした。
「来てくれてありがとうございます、桜井君」
急いで走ってきたと見られる恭平は、額の汗を拭いながら不機嫌そうな顔をする。
「質問に答えろ」
珍しく怒っている様子の恭平に、鷹峯は切れ長の瞳を僅かに見開いた。
「べつに、どうもこうもありませんよ? 面白い話を聞こうと思って食事に誘ったら、酒が弱すぎてクダ巻かれちゃいました」
それだけです、と言うと、ぽいっとぞんざいに雛子を投げ渡す。粗雑に扱われても、一切目を覚ます様子がない。
「……っと、ひなっち、おーい?」
恭平の呼び掛けにも反応がない。
「……ったく。冷やしとけって言ったのに」
冷やさなかったことに加え飲酒によって益々赤くなった頬を、恭平がまるで壊れ物を扱うように撫でる。
「そんなに慌ててくるほど彼女が大事なんですか?」
楽しそうな鷹峯の問いに、恭平は訝しげに首を傾げる。
「そりゃそうだろ。こいつは俺のプリセプティだぞ。それにあんな写真送られてくれば誰だって心配する」
『あんな』というのはカウンターで正体をなくしている雛子の様子である。恭平からしてみれば、雛子が酩酊していることも、鷹峯という悪い男に連れ回されていることも、こうして着の身着のまま寮を飛び出してくる程の緊急事態だったのだろう。
「そうでしたかぁ。それはそれはすみません。では保護者も来たことですし、私はこれで失礼しますよ。……面白いものも見れましたしね」
芝居がかった物言いでくつくつと笑みを零しながら、鷹峯は駅の方へと消えていった。
「……あのやろー、何企んでやがった?」
雛子を抱いたまま取り残された恭平は、しばらく鷹峯の消えていった方を見つめながら考えた。
「……まぁ良いや、とりあえず帰るぞひなっち」
とは声をかけるものの、一グラムも自分の足で体重を支える様子のない彼女を見て仕方なく背負うことにする。
土曜日の街中はサラリーマンよりも学生などの若者で賑わっており、皆そろそろ二件目に向かう頃なのかいくつかのグループがワイワイと楽しそうに通り過ぎていった。
時々雛子を背負う恭平を見て指をさしたり何か言っている様子の者も見られるが、元々人目などはばからないタイプの恭平である。そんなものは一切気にしないで黙々と寮を目指す。
「……恭平?」
だから気が付かなかった。たまたま通りの向かいを歩いていた真理亜が、二人の姿を目で追っていることに。