「……どーいう風の吹き回しだ? おいコラへっぽこ雛子」

車椅子を押して検査室を後にする雛子に、翔太は訝しむような視線を向けた。

「え? ナンノコトカナ〜」

「とぼけんの下手くそか」

明後日の方向を向く雛子に、翔太は飽きれたような溜息を吐く。

「いやおかしいだろ。お前今日夜勤明けだよな? 何で俺の検査に付き添ってんだ?」

現在時刻は朝の十一時。とっくに日勤帯であり、一緒に夜勤をしていた他のメンバーは恭平含めすでに帰宅していた。

「んー、だってさぁ? 今日は予定オペ三件に緊急オペまで重なって日勤さんバタバタしてたから? 翔太くんの検査は私が行きますよーって手を挙げたら? ぜひお願いってリーダーの大沢さんが言うから?」

「何で疑問形? そもそもこんな時間までお前だけ病棟残ってること自体おかしくねぇ?」

「それは純粋に、私だけ記録が終わらなかったからです」

「無能かよ」

有能か無能かと言われれば無能だし、へっぽこであることは否めないので何も言い返せない。

そう、今はそんなことはどうでも良いのだ。

「そしてお前は、どこに向かっている?」

病棟と比べ賑やかな外来のロビーを、雛子はエレベーターと真逆の方向へ車椅子を押していた。いくらポンコツな雛子でも、院内で迷子になるレベルからはさすがに脱している。

やがて車椅子は夜間出入り口を抜け、病院の中庭へとやって来ていた。

快適な院内とは違いジワジワと不快な蒸し暑さだが、この時間帯でもまだ僅かに残る日陰に入れば幾分かマシだ。

「よしっ、この辺なら良いんじゃない!?」

雛子は出入り口から少し離れた場所まで行くと、辺りをキョロキョロとしながら木陰で車椅子のストッパーをかけた。

この時間帯に、メインエントランスとは真逆に当たるこちら側に来る人が殆どいないことは把握済みだ。

雛子は訝しむ翔太に構わず、車椅子の下部にある荷物置きに手を伸ばす。

「じゃーん!」

「……っそれ!」

雛子が取り出したのは、サッカーボールだった。

「なんで、そんなの、いつの間に……?」

マスクの上からでも、翔太が驚いて口をパクパクさせているのが分かり雛子は吹き出す。

「夜勤中にこっそり忍ばせて、上からブランケットを掛けて隠しておきました!」

「いや犯行手口がプロかよ」

冷静なツッコミも意に介さず、雛子は車椅子のフットレストを上げて翔太の足をゆっくり地面に下ろす。

そしてサッカーボールを、翔太の足の前に置いた。

「はい、ほら、蹴って」

雛子は翔太から三メートル程の距離を取って、そう声をかけた。

「蹴る……?」

翔太は言われた意味が分からず、雛子の言葉を反芻した。

「前にサッカーしたいって言ってたでしょ? ほらっ、いつまでも帰らないとさすがに怪しまれるし、早くっ!」

蹴って、と雛子は再度促した。

「蹴る……」

翔太は暫しの間ボールを見つめていた。


『翔太っ! パス!!』

『行け翔太!!』

かつてチームメイト達と全力で走ったコートを、翔太は思い出していた。



「っ!!!!」



バシッ、という重い音を立て、サッカーボールは雛子の胸辺りに蹴り込まれた。

「……ナ、ナイスシュートぉ」

何とかキャッチした雛子だが、座ったまま放たれたとは思えないキックに一瞬呆気に取られる。

「すっごい翔太くん! 良い蹴りだったよ!!」



『翔太ーー !! ナイスシュートーーーー!!!!』




「……」

はしゃぐ雛子を他所に、翔太は未だ放心状態だった。雛子はそれに気付くと、今度は一転慌てた様子を見せる。

「だ、大丈夫? 暑くて具合悪い? 足痛くなった? ごめんね、もう戻ろうかっ」

雛子は再びボールを車椅子の下に隠すと、そそくさと院内に戻る。

「ごめんね翔太くん、喜ぶかと思って、私勝手に……」

「……たよ」

泣きそうになりながら謝る雛子に、翔太は思わず呟いた。

「楽しかったよ、めっちゃ。嬉しかった」

翔太は顔を上げた。


「さいっこーーーーだった!!」


その顔はマスク越しでも分かる、屈託のない太陽のような笑みだった。

「ありがとうな! 雛子!」

「……っ。うんっ!」

それは心からの言葉だと分かって、雛子は車椅子を押す手にぐっと力を込めて笑い返した。

「……お前はさ、もっと自信持てよな」

「え?」

翔太は照れくさそうに鼻の頭をかく。

「だからさ、いつでもどん臭くてポンコツで、でも全力でぶつかってる自分にもっと自信持てよ。いっつも自信なさそうにオドオドすんなうっとーしいからよ。そういうの患者(こっち)からしたら全部分かんだよ」

エレベーターホールでエレベーターの到着を待つ。

「自分を信じろ」

翔太は振り返り、拳を雛子に向ける。雛子もまた翔太のそれに自身の拳をこつりとぶつけた。

「っ……分かった」

エレベーターが到着し、扉が開く。

「約束するよ」

エレベーターから一人の女性が降りてくる。その後ろからは年配の看護師が慌てて着いてきた。

「あなたねっ……!!!!」

「っ……!?」

血相を変えて近づいてきたその女性が翔太の母親だと気づいた時には、雛子は顔面を張り飛ばされエレベーターホールの床に倒れ込んでいた。

「藤村さんっ! 落ち着いてくださいっ!」

飛び出してきた病棟師長が母親と雛子の間に割って入る。

「なんてことっ……なんてことしてくれたの……!? 翔太には安静が必要なのよっ……!! 何を勝手にっ……!!」

「もっ、申し訳、ありませっ……」

雛子はグワングワンと回る視界に耐えながら何とか身体を起こす。

「母さん!! 何やってんだよ!!」

予期せぬ母親の登場に一瞬放心していた翔太も、野次馬が遠巻きに自分達を見ていることにはっとすると慌てて声を上げた。

「面会に行ったら検査に降りたって言うから部屋で待ってたのよ! 何気なく窓の外を見たら翔太がっ……!」

母親は興奮して声を荒らげる。まだ殴り足りないとばかりに手を振り上げる母親を師長が制す。

「藤村君、体調は大丈夫なのね? とにかくお母さんも、雨宮さんも一回病棟に戻りましょう。藤村君を休ませるのが第一ですからっ」

師長が翔太の車椅子をエレベーターに押し込み、雛子も引っ張り起こして引き入れる。








事態の収束には半日かかった。


その後は主治医と勤務時間外の恭平までが呼び出され、全員で翔太の両親に謝罪。雛子はサブプライマリーを外された上、病室にも出入り禁止を言い渡された。

雛子は主治医と師長からも散々叱責された挙句、病棟スタッフから同情と飽きれの目を向けられつつ夕方になりようやくインシデントレポートの記入を終えた。

「ったくお前は……翔太が元気なのが不幸中の幸いだな」

恭平が心底飽きれたように溜息を吐き、頭を抱えた。

「翔太のためを思っての行動だろうが、それがあいつの身体にどれだけの負担をかけるのか、そして自分達のいない所で勝手に思い出作りをされた家族の気持ちがどんなものか……それを分かっていたか?」

「あ……」

翔太本人のことだけでなく、家族の気持ちにすら配慮できていなかったことに今更気付く。答えられずにいる雛子に、恭平は再び溜息を吐く。

「どうせ死ぬ奴だから何したって構わない。そう思ったのか?」

「っ!! そんなことありませんっ!!」

「お前のしたことはそういうことだ」

「っ……」

にべもなく返され、雛子は押し黙る。

「価値観は人それぞれだ。実際翔太の母親は大激怒だったが、翔太本人は無事だったし喜んでたんだろう? でもそれは結果論に過ぎない」

恭平は静かな声で続ける。

「医療者の行動ひとつによって患者や家族にどんな影響をもたらすか。経験と知識がお前にあれば実行の前に俺に相談するなり、主治医に許可を取るなり他にやりようがあったはずだ」

「……」

「お前は今回知識ではなく、感情と思いつきだけで行動した。それはプロじゃなく素人だ」

それだけ言うと、恭平は椅子から立ち上がる。

「さてと。んじゃ帰るか。俺は翔太のところ顔出してくるから、ひなっちは先帰って」

恭平はそこでふと、雛子の顔に手を伸ばす。

「あーあ。派手にやられたな」

「痛っ……」

そっと優しく触れられた頬に、ジンジンと鈍い痛みが走る。

「冷やすヒマなかったんだろ。帰ったらちゃんと冷やしとけよ」

「あの、桜井さんっ……」

ステーションを出ていこうとする恭平に、雛子は頭を下げた。

「勤務時間外なのに対応していただいてありがとうございました。それからご迷惑をおかけしてすみません。翔太くんにもごめんなさいとお伝え下さい」

恭平は返事代わりに片手をヒラヒラさせると、翔太の病室の方へと消えていった。

それを見届け、雛子も病棟を後にする。









(はぁ……私って何やってんだろ……)

更衣室で白衣を着替え、雛子は重い足取りで階段を降りる。日勤が上がるにはまだ早い時間であり、更衣室のある研修棟に人の気配はない。

(良い案だと思ったんだけどなぁ……でも御家族や師長達が怒るのも無理ないし……)


『どうせ死ぬ奴だから何したって構わない。そう思ったのか?』


恭平の言葉を思い出す。その時は咄嗟に否定したが、果たして本当にそう思わなかったかと改めて考えると自信がない。

考えごとをしながら緩慢に階段を降りる雛子の後ろから、やがてカツカツと軽快な足音が近付いてきた。

(あれ……でも……桜井さん、そんなに怒ってなかったなぁ……もう怒るを通り越して飽きれられてたのかな……)



「あの、さっさと歩いてくれません? 邪魔なんですが」


「す、すみませんっ!」

後ろから来た人物にそう声をかけられ、雛子はとっさに謝った。てっきり追い抜いていくと思っていたのに、容赦ない言葉を吐かれ驚いて振り返る。

「あっ、えっ、たっ!」

「はぁ? 頭大丈夫ですか、雨宮さん?」

言葉遣いは丁寧で表情も笑顔なのに、思い切り人を小馬鹿にするような雰囲気を醸し出す男は、総合内科医の鷹峯柊真(たかがみね とうま)その人であった。

意外な人物の登場に、雛子は動揺を禁じ得ない。

「あっ、たたた、鷹峯先生、お疲れ様ですっ」

「ええ、今貴女のせいで余計に疲れていってます。お疲れ様です」

前半部分は口にしないと気が済まないのだろうか。

鷹峯はにんまりと胡散臭そうな笑みを貼り付けていたが、ふと雛子の顔を見て首を傾げた。

「これ、どうしたんです?」

「あだっ!?」

打たれた頬に気付いて触れた手は、気遣わしげだった恭平とは違い容赦なく腫れた部分を撫であげる。雛子は思わず情けない悲鳴を漏らす。

「誰かに殴られたんですか?」

「はい、まぁ……」

暫し何かを考え込む鷹峯。やがてぽん、と手を打ち、名案とばかりにその胡散臭い笑みを深くした。

「雨宮さん、今から一緒に食事に行きましょうか」