「あれはそう……嵐の夜のことじゃった……」

「雛子、雛子、いくら何でも一晩で老け込みすぎじゃない?」

寮の近場に新しく出来たカフェテリアの二階席で、雛子は同期の市ヶ谷夏帆に飽きれられていた。

窓辺に置かれたアイスティーのグラスから、氷が溶けて踊る涼やかな音が心地良く響く。

「だってさぁ、もう無理だよ、あんなの。夜勤メンバー、石川さんと大沢さんだよ? あの石川さんと、大沢さんだよ?」

「うん。二回言われても、知らないよアンタの病棟の先輩のことは」

とはいえ雛子のこの憔悴ぶりを見れば、相当扱かれたことが分かり同情を禁じ得ないのだろう。夏帆は気の毒そうな眼差しを向けてくる。

「気圧が低くてさ、雷もなって酷い天気だったじゃない? 入院も三件入って空気がピリピリしてて……もう思い出しただけで吐きそう……」

嵐が去り、今は抜けるように晴れ渡っている空を雛子は憎々しげに睨み付ける。

「もうね、いつもの夜勤の二倍は長いのに、やることはいつもより全っ然進まなくて終わらないの。なんかもう時空の捻れ起きてた」

「へぇー」

真面目な顔でそう告げる雛子に、夏帆は適当に相槌を打つ。

柔らかな木目のテーブルにぐにゃりと身を預けながら、雛子は昨日の夜勤を思い出していた。









『こら! 雨宮!』

大沢の(げき)は序盤からひっきりなしだった。

『お、大沢さん、なんでしょうか……』

雛子は時間を気にしながらも、呼び止められたら足を止めて返事をするしかない。

『なんでしょうかじゃない! 五号室と六号室の環境整備が全然なってないわよ。あと病室のブラインド、夜間は閉める規則になってるわよね? そんな基礎的なことが今更できてないのは今までもやってなかった証拠でしょ。さっさとやって来なさい!』

『は、はいぃっ! すみませんっ!!』



"いいか、とにかく言われたことは速攻やる、指摘されたことは速攻謝る。今日の夜勤でひなっちがやるべきことはこの二つのみ"



勤務時間中、雛子は夜勤前に恭平から言われた言葉を反芻していた。

(ううっ……私に抜けがあるのが一番問題なんだけど……それ以上に細かいところまでクオリティを求められるとうまく回れないよぉ……)

全くもって予定通りに行かず、やっとステーションに戻ってこられたのは面会時間も終わった十九時過ぎだった。

ステーションの真ん中にあるテーブルのリーダー席では、能面のように無表情の石川が来月のシフトを作成している最中である。

(今それ作るならナースコール出てよぉっ!!)

声にこそ出さないものの、雛子は内心悪態をついた。

石川さつき。通称サイボーグ石川。どんなスタッフや患者にもその鉄仮面を崩すことなく淡々と職務をこなす病棟副主任だ。他のスタッフと仲良く雑談することはおろか、笑った顔すら誰も見たことがないと専らの噂である。

『雨宮さん』

『は、はいっ』

石川はパソコンから目を逸らすことなく、手を動かしながら雛子の名を呼んだ。記録を打ち込もうとしていた雛子はびくりと肩を揺らす。

『あなたが戻ってこないから先大沢さんと桜井君に休憩入ってもらったわ。本当はあなたが先に入るの、分かってるわよね?』

『はい、すみません……』

やることがあったんだから仕方ないだろう、とは口が裂けても言えない。

『それと、藤村翔太君の看護計画、どうなってるかしら』

『ああ、私はサブなので』

メインの計画は桜井さんが立ててくれている通りですが、私の方では主に本人や家族の不安解消など精神的ケアにアプローチする予定です。

と、雛子は言いたかったが、思った通りには続かず。

『サブ? サブだからなんなの? 少しプライマリーの自覚が足りないんじゃない? 今どういう状況なのか周りには全く伝わってこないわよ。病状はどんどん変わっていくんだから、逐一記録にも残してチームでも共有して』

『は、はい……』

その時セントラルモニターがピロピロと耳障りな音を立て、モニターと連動しているPHSの音と相まってステーションが騒がしくなった。

確認すると、大沢が担当している患者のモニターだった。

『鳴ってるわよ。ラウンド行ってきて』

『はい……』

今やっとステーションに戻ってきたところであったとしても、雛子に拒否権はない。波形を見たところ患者が寝返りを打ったことにより筋肉の動きを拾っただけのようだが、ここで石川と二人きりでいるよりラウンドに出た方が気は楽だと思った。