論文に目を通したのは、紛れもなく事実だが。
その後考えていたのは、厨二病ノートのことなので。
当然、「厨二病ノートは封印しておいて欲しいと思っていたところです」なんて言えないので。
僕は、瞬時に頭の中で、彼らに対して述べる「それっぽい考察」を考えることになった。
面倒だなとは思ったが、それくらいでは狼狽えない。
「そうですね…。この論文が書かれた時期を考えると、この筆者は非常にイノベーションな意見の持ち主だったように見えます」
政治家とかがよく使う術、その1。
わざと小難しい横文字を使って、それっぽさを出す。
イノベーションとかコンセンサスとかエビデンスとか、とりあえずそれっぽい単語並べておけば。
何だか知的に聞こえてくるから、不思議なもんだ。
これ、人生の裏技な。
何とか切り抜けなければならない場面が出てきたら、とりあえず格好良い横文字で誤魔化せ。
「そして、お手本とも言うべきファンダメンタリズムな思想ですね。今日のコミュニズムに関する論文にしては、珍しい部類に入るかと」
「…確かに」
「しかし…現在のルティス帝国では、この論文に書かれていることを実現するのは、不可能でしょうね」
「…何?」
全員が、僕の方をジロッと見た。
…あ、なんかヤバいこと言ったっぽい?
いや、大丈夫だ。
「あまりにも下地が悪過ぎます。現在のルティス帝国は、まだこのような共産主義体制に移行することは出来ないでしょう」
政治家とかがよく使う術、その2。
同じことを、言葉を変えて何度も繰り返す。
そしたら、なんかちゃんと答弁してるように聞こえる。
試してみると良いですよ。
「何故、そう思うのです?」
ちっ。
このまま、のらりくらり躱そうと思ってたのに、掘り下げてきやがった。
「残念ながら、現在のルティス帝国では、まだ現体制に賛成派も多くいます。そんな状況で、このような原理主義的共産主義体制は、国民には受け入れられないでしょう」
「…」
「無論最終的には、我々の望む、完璧なるコミュニズム思想を、全ての国民も理解するでしょう。しかし、それには時間が…」
「…時間など、かけている余裕がこの国にあるとお思いですか、同志ルクシア」
…何だと?
「…どういう意味ですか?」
僕がそう尋ねると。
同志は、そんなことも分からないのか、みたいな。
嘆かわしそうな顔をした。
そんなことも分からなくて、悪かったですね。
「我が国には、最早一刻の猶予もないのです」
「…」
「私達がこうしている今も、飢えに苦しみ、明日食べるものどころか、今日食べるもののことを考えている人がいます。今このときに、既に苦しんでいる人がいるのに…」
「今すぐにでも、ルティス帝国は変わらなければならないのです。同志がそのような、悠長なことを言っている間に、一人また一人と、無辜なる民が死んでいくのです。そのようなことを考えたことはありませんか」
「…これは、失礼しました」
如何せん僕は、無辜なる民が飢えに苦しんでいる間。
王族としての嗜みと言われて、バイオリン弾いていたもので。
「確かに、僕が浅はかでした。申し訳ありません」
「…」
サナミア党首含む、全ての同志達が、僕を懐疑的に見つめる。
…うーん、嫌な空気だ。
「誤解しないで頂きたい。僕は、この論文そのものに反対している訳ではありません。ルティス帝国の目指すべき未来は、この論文の中にあるものだと思っています」
ここはせめて、言い訳をしておかないと。
政治家とかがよく使う術、その3。
必死の言い訳。
「出来るだけ早く、改革を推し進めなければならないことも分かっています…。しかし、真に国民のことを考えるならば、急速な政府体制の変革に伴う弊害についても、考えなくてはならないでしょう」
「弊害ですか?政治改革をして弊害を受けるのは精々、現在貴族特権で優雅に暮らしている一部の特権階級だけでしょう」
サナミア党首は、せせら笑うかのようにそう言い。
他の同志達も、その通りだとばかりに頷いた。
酷い話ですよ。
弊害を受けるのは、貴族達だけではない。
自分達もまた、自らの身を痛めつけることになると、彼らは気づいていないのだから。
「…どうやらルクシア同志には、独自の思想、信条があるようですね」
…何?
つまり、「お前は私達とは違う考えの持ち主のようだな」ってことか。
スパイとしては、大変不味い認識だ。
「…理解して頂けないのが、とても残念です」
僕は、大袈裟なくらい悲痛な顔をしてみせた。
すると。
「理解していないとは言っていません。あなたは、『赤き星』の同志。あなたの考えを、私達に理解させてもらいたいと思っています」
「…それで僕は、どうすれば理解してもらえるのでしょう?」
「そうですね…。…論文から始まった議論です。あなたの思想、信条を、紙に書いて持ってきてはもらえませんか」
何?
また論文提出しろって言うんですか。
このサークルは、どれだけ僕に論文を書かせたいんだ。
美術学部での、抽象画課題の提出期限が来週までだから、そちらも描かないといけないのだが?
それに加えて、また面倒そうな課題を…。
…しかし。
「分かりました。光栄です」
僕は、自分の考えを知ってもらえる良い機会を得たとばかりに、嬉しそうに頷いてみせた。
スパイとしては、そうするのが正解。
おのれ。面倒なことになってしまった。
…しかし、抽象画の方、どうしよう?
…かくなる上は。
もう、こうするしかない。
「お帰り〜ルーチェスく、」
「セカイさん!お願いがあります」
「ふぇ!?ど、どうしたの、帰ってすぐ…。欲求不満なの?」
「はい!」
あ、勢いで本音が。
「そ、そうなの?いーよ。じゃ、早速…」
「いや、待ってください。僕が欲求不満なのは事実ですが、しかしそうではなく」
「え?溢れ出る若い性欲を満たしたくて、ウズウズしてるんじゃないの?」
さすがセカイお姉ちゃん。僕のことよく分かってる。
しかし、今はそうじゃない。
「頼みがあるんです、セカイお姉ちゃん」
「お?何だ何だ?お姉ちゃんが、なーんでも聞いてあげよう!」
それは頼もしい。
なら…。
僕は、『赤き星』の連中に信頼を得る為、論文を書かなければならないので。
代わりに。
「…描いてください、抽象画」
「へ?」
これで、課題の一つは解決だな。
自分が、全く『赤き星』の党員達に信用されていないことは。
もとより分かっていた。
彼らがあの部屋で僕を見るときの、その目を見れば分かる。
彼らは、一応僕を『赤き星』に加えはしたものの。
他のメンバー同士のような信頼関係は、全くない。
『赤き星』に入ったからといって、それで終わりではない。
僕は、まだ試されているのだ。
本当に、このルクシア・セレネという人間が、『赤き星』の一員として相応しい人物なのかどうか。
彼らにとっては、まだ試用期間みたいなもの。
今日、図らずも彼らの意見に対立するようなことを言ってしまったのも、裏目に出ている。
ここいらで、挽回しておかなくては。
僕が『赤き星』に相応しくないと判断すれば、彼らは躊躇うことなく、僕を追い出すことだろう。
それだけは避けなければならない。
『赤き星』の内部に入れないなら、わざわざスパイとして潜入した意味がない。
この二作目の論文は、二次試験みたいなものだ。
これを通過しなくては、僕は『赤き星』のメンバーから除名されかねない。
となると、入学時のときのような論文では、不充分だ。
もっと確かに、彼らを納得させられるような論文に仕上げなくては。
面倒だが、出来ないことではない。
相手が悪かったな。
生憎、政治関連の難しい云々かんぬんは、嫌というほど叩き込まれてるんでね。
出来るだけ短時間で、彼らの納得するような論文を書き上げてみせよう。
僕の、腕と頭の見せどころだ。
――――――…私は、寝室のベッドの中に横たわって。
ランプの灯りの下、机に向かってもう何時間も難しそうな本や紙の束(論文?)を読み。
更に、それらを読みながらさらさらと手を動かす、ルーチェス君の背中を見つめていた。
「セカイさんは寝てて良いですよ」と言われ、仕方なく私はベッドに入った。
大体私が起きてても、手伝えることは何もない。
私が、お隣のフューニャちゃんみたいに、料理上手だったらなぁ。
ルーチェス君に、夜食とか作ってあげるんだけど。
私がキッチンに立ったら、ルーチェス君の仕事が増えちゃうよ。
仕方なく、私はルーチェス君の邪魔をしないように、眠っていることにした。
けれど、あくまで眠っている振りだ。
ルーチェス君が、あんなに頑張ってるのに。
私だけ、ボケーッと寝てるのは気が咎める。
…そして、それ以上に。
私の頭の中は、ルーチェス君からの頼み事が、ぐるぐる回っていた。
「抽象画を描いてください」って言われて。
つい、よく分からないまま。
ルーチェス君の助けになりたくて、「任せて!」と答えちゃったのだが。
実は今、内心。
「えぇぇぇぇぇ抽象画って何〜っ!?私そんなの描けないよぉぉぉぉ!!」
…って、言ってる。心の中で。
そもそも、抽象画って何?
それは何なの?食べ物じゃないことは分かる。
画って言うだけあって、多分絵の一種なのだ。
そして多分、本来はルーチェス君自身がやらなければならない課題なんだろう。
ルーチェス君、美術学部だって言ってたし。
多分そこで、課題が出されたんだろう。
さっきの、抽象画っていうのを描いてきなさい、って。
そこまでは推測出来るのだけど。
それにしても、学生に課した課題を、部外者の私が描いて出して良いものなの?
よく分からないけど、ルーチェス君が私に託してきたってことは、別に私の代作でも、問題ないんだろう。
本当はいけないんだろうけど。
バレなきゃセーフ。
でもね、ルーチェス君。
私実は、抽象画ってものが何なのかすら、よく分かってないんだよ。
そんな人間が描いた作品が、仮にも美術学部で…しかも、ルーチェス君が通ってるのって、私立ローゼリア学園大学でしょ?
私みたいな、大学に最も縁遠い人間でさえ、名前くらいは知っている。
そんな有名大学の、美術学部の課題を。
素人の私が描いたりしたら、バレるんじゃないの?
いくら一年生とはいえ。
自慢じゃないけど私、芸術的センスは皆無だよ?
何億もする名画と、近所の絵画教室に通ってる人が、適当に描いた絵の区別がつかないタイプだよ?
何なら、抽象画の意味すら分かってないから。
もう、美術のセンスがあるとか以前。知識の段階から問題がある。
…けれど。
こうして、頑張ってるルーチェス君の背中を見ていたら、そんなことは言えない。
とても言えない。
私が「そんなの描けないよ無理〜っ!」って言えば。
多分ルーチェス君は、「分かりました。じゃあ僕がやるんです大丈夫ですよ」とか言って。
寝る時間を削って、自分でテキパキやってしまうのだろう。
大体普段から、ルーチェス君って、何でも自分でやっちゃうんだもんなぁ。
私が不器用なせいでもあるんだけど。
いつもいつも、頑張るのはルーチェス君ばかり。
私だって、不器用だけど、頭も悪いしセンスもないけど、でもルーチェス君の役には立ちたい。
それに何より、ルーチェス君は、今回私にお願いしてくれたのだ。
いつもは何でも自分でやっちゃうルーチェス君が、わざわざ私に頼んできた。
つまり、今回はルーチェス君も、自分でやる余裕がないのだろう。
当然だよね。あんな難しそうな本をたくさん読んでたら…。絵なんて描いてる暇ないよ。
だったら、私が頑張らなきゃ。
折角ルーチェス君が、このセカイお姉ちゃんに頼み事をしてくれたのだ。
その思いには応えるのが、お姉ちゃんとしての役目というもの。
…よし、頑張ろう。
私は毛布にくるまりながら、固くそう決意したのだった。
翌日。
私は、早速この決意を、実行に移すことにした。
抽象画が分からないなら、分かる人に聞けば良い。
更に、世の中には、百聞は一見にしかずという言葉もある。
なら、分かる人に聞くより、この目で見れば良い。
そんな訳で、私が向かったのは。
「うわー…。でっか…」
私は、思わず感嘆の声をあげてしまった。
私が向かったのは、ルティス帝国王立美術館。
ルティス帝国で、一番大きな美術館である。
その荘厳さたるや、まるで王宮のようだ。
…まぁ、私王宮見たことないんだけど。
ルーチェス君曰く、「大したことないですよ、あんな建物」らしいが。
大したことあるに決まってるでしょ。何言ってるのあの子。
あれで王子様育ちだから、感覚が色々狂ってるのかもしれない。
それはともかく。
「…よし!入るぞ!」
こんな大きな美術館、入るのは初めてだ。
そもそも美術館自体、入ったことがあるのは人生で一度か二度くらい。
確か、小学校の遠足以来。
それだって、地元の…市立の美術館だったし。
言い方は悪いけど、大したものも置いてなかった。
超有名な絵画!…の、オマージュ作品みたいな。
でもここには、本物の超有名な絵画!が置いてあるのだ。
そう考えると、凄いよね。
やっぱり本物を見てみなければ、どんなものか分からない。
ましてや私、描かないといけない訳だから。
単に鑑賞してるだけじゃ駄目なんだよ。
…よし。
心の中で再度決意して、私は王立美術館の入り口に向かった。
…そのとき。
「…?」
ふと、背後に気配を感じた気がした。
反射的に振り返るけど、そこには。
…ただの、私と同じ、美術館を訪ねに来た人がちらほらいるだけ。
誰も、私を気に留める人はいない。
…気のせい、かな。
あんまり意気込んでいたから、ちょっと過敏になってたのかも。
改めて。
私はチケットを買って、美術館の中に入っていった。
「…ほぇー…」
建物自体も、凄く大きかったけど。
当然ながら、中も広い。
ロビーだけで、もうね、十人くらい余裕で人が住めそうなくらい広い。
あっちを向いて良いのか、こっちを向いて良いのか、分かんないよ。
と、とりあえず。
こういう美術館とか博物館って、順路があるんだよね。
こっちから見て回ってくださいねー、みたいな。
それに従って歩けば、全部鑑賞出来るはず。
しかし。
「…うーん?」
順路はこっちですよー、の看板が見つからない。
代わりに、何とかエリア、何とかエリア、みたいな看板が貼ってある。
…エリア…?
私、順路が知りたいんですけど。
…仕方ない。
どうせ、学芸員さんに声をかけようと思ってたんだし。
私は、ロビーで待機している、受付のお姉さんに声をかけてみることにした。
「あ、あのっ」
「はい。何か御用でしょうか?」
「私、ここ来たの初めてなんですけど。何処から見て回れば良いんですか?順路とか…」
私がそう尋ねると、お姉さんは、ちょっと困ったような顔をした。
え、何で?
「旅行者の方ですか?」
「え?違いますよ。普通に見に来ただけなんですけど…」
「そうですか。一応、ツアーの方向けに順路はあるんですが…。今日は、日帰りのご予定ですか?」
え。何で私、お泊りで旅行しに来た人みたいになってるの?
普通に見に来たんだよ?
大体、美術館に泊まる人なんているの?
そういえば、美術館の近くに、やけにホテルがたくさんあるなぁとは思ったけど。
もしかして、それと関係あるの?
「勿論…日帰りですけど…」
遅くても、お昼頃には美術館を出て、近くの喫茶店でお昼ご飯食べて、そのまま帰るつもりで…。
「そうですか。あの…当館の展示品を全て見て回るには、最低でも三日は必要でして」
「えぇ!?三日!?」
私は、思わず声を張り上げてしまった。