私立ローゼリア学園大学。
言わずと知れた、僕が潜入している大学である。
ちなみに、美術学部である。
入学試験が楽だったから、何となくで入ったけど。
後になって、ちょっと失敗だったかなと思った。
というのも、科目ごとに、彫刻だの油絵だの水彩画だの、提出しなければならない課題が結構ある。
おまけに、幼い頃から、もう美術館の学芸員に死ぬほど聞かされてきて。
本なんかで調べなくても、すらすら引用出来る内容の美術史について、今更長々レポートを書かされたり。
ルティス帝国含め、世界の有名な美術家について調べて、これまたレポートを書かされ。
更には、その美術家の作品について、批評する感想文みたいなものも書かされたり。
結構やること多くて、面倒臭い。
しかも僕、これらについては、幼い頃から散々、王族の嗜みとして叩き込まれてきた。
今更、学ぶ必要はないくらい。
だから、日中の講義は暇で仕方ない。
で、山のような作品の課題や、レポート課題を課せられる訳だろう?
大学生も大変だよ。
わざわざ、潜入任務の彫刻に、本気を出しても仕方ないので。
僕は、わざと適度に手を抜いているが。
これら、全部真面目にやっていたら、時間がいくらあっても足りないよ。
更に。
僕には、もう一つ…学業とは別に、やらなければならないことがあるのだから。
そしてそれこそが、僕の悩みの種…元凶なのである。
「同志諸君、これを見てください」
僕はその日も、狭苦しい、薄暗い、
いかにも地下組織、みたいなサークル棟の一室にいた。
『赤き星』。
それが、このサークルの名前だ。
しかし、このサークルに所属しているメンバーは、『赤き星』を単なるサークルとは思っていない。
入学時に提出した、僕の渾身の論文のお陰で。
かろうじて、『赤き星』に入ることは許されたものの。
入れたからといって、仲間として認められたとは言い難かった。
やはり、上級生ばかりではな。
しかも、温度差。
僕も上級生を装ってはいるが、どうしても、古参のメンバーとの間には、距離を感じる。
僕がそう思っているくらいなのだから、古参メンバーからしたら、余計余所者感を感じていることだろう。
何とか置いていかれないように、僕も必死に、コミュニストを演じているつもりだが…。
彼らが、僕のことをどう思っているのかは、怪しいところだった。
…で。
これを見ろ、だったな。
一体何なんだと思って、見てみると。
なんと、半世紀以上も前に書かれた、古い論文のコピーだった。
何処から探してきたんだ、こんなの。
レポートの著者を見ると、成程、ルティス帝国の有名なコミュニストの名だ。
「とても画期的な論文です。是非、同志達にも読んでもらいたいと思いまして」
論文を持ってきた同志は、自信満々にそう言った。
それはそれは、どうもご苦労様。
そんな訳で、その日は僕達『赤き星』のメンバーは、同志の一人が持ってきた、
例の論文を読むことに、時間を費やした。
皆、一言一句を噛み締めるように、真剣な眼差しで論文を読んでいた。
僕はと言うと、本音で言えば、コミュニズムなんて、大概はろくな結果しか産まないんだからやめとけ、としか思ってないので。
さっさと読み終わってしまって、暇。
しかも、画期的とか言いながら、これ書かれたの何年前だと思ってるんだ。
お陰でその内容も、原理共産主義的と言うか。
もう、一切の妥協も許さない、完璧なるコミュニズム論を提唱していて。
正直、中学生の厨二病ノート読まされてる気分だった。
痛い。これは痛いレベルですよもう。
こんな理想論、よくも思いついたものだ。
むしろ、理想だからこそ、ポンポン出てくるものなんだろうか。
あんたの理想論厨二病ノートが、黒歴史として封印されているだけなら、それで良い。
問題は、その厨二病ノートを見つけ出し、これこそ世の真理だ!と真に受ける奴が多過ぎるって点だ。
全く、厨二病ノートを作成するのは結構だが、それを公開するのはやめてくれないか。
こうして、真に受ける奴がいるんだからさ。
それも、妄信的なほどに。
この人達の、この真剣な眼差しを見ていると。
この論文に、「実は10年後世界が滅びます」と書かれていたら、マジで信じるんじゃないかと思うほど。
まぁ、それは有り得ないのだが。
大体この論文が書かれたのは、もう半世紀以上前だし。
「10年後世界が滅びます」って書いてても、全然滅びてないじゃん!ってなるからな。
いや、いっそそんな馬鹿げたこと書いててくれた方が良かった。
だってそうしたら、この論文に書かれていることがどれほどいい加減か、皆に伝わるだろう?
…などと、余所事ばかり考えていると。
「…同志ルクシア」
「…はい?」
自分の名前を呼ばれたのだと、気づくのに一瞬遅れた。
そうだ。そんな名前で潜入してるんだった、僕。
「もう読んだのですか?」
この、懐疑的な目。
しまった。余所事考えてるのバレたか?
「はい」
読み終えたのは事実なので。
「その上で、この論文に書かれていることの本質について、自分なりに考察していました」
ちょっと、それっぽいことを言ってみた。
すると。
「成程。では、あなたが考えた、その考察というのを皆に聞かせてもらえますか?」
畜生。
ちょっとそれっぽいことを言っただけで、この仕打ちだよ。
論文に目を通したのは、紛れもなく事実だが。
その後考えていたのは、厨二病ノートのことなので。
当然、「厨二病ノートは封印しておいて欲しいと思っていたところです」なんて言えないので。
僕は、瞬時に頭の中で、彼らに対して述べる「それっぽい考察」を考えることになった。
面倒だなとは思ったが、それくらいでは狼狽えない。
「そうですね…。この論文が書かれた時期を考えると、この筆者は非常にイノベーションな意見の持ち主だったように見えます」
政治家とかがよく使う術、その1。
わざと小難しい横文字を使って、それっぽさを出す。
イノベーションとかコンセンサスとかエビデンスとか、とりあえずそれっぽい単語並べておけば。
何だか知的に聞こえてくるから、不思議なもんだ。
これ、人生の裏技な。
何とか切り抜けなければならない場面が出てきたら、とりあえず格好良い横文字で誤魔化せ。
「そして、お手本とも言うべきファンダメンタリズムな思想ですね。今日のコミュニズムに関する論文にしては、珍しい部類に入るかと」
「…確かに」
「しかし…現在のルティス帝国では、この論文に書かれていることを実現するのは、不可能でしょうね」
「…何?」
全員が、僕の方をジロッと見た。
…あ、なんかヤバいこと言ったっぽい?
いや、大丈夫だ。
「あまりにも下地が悪過ぎます。現在のルティス帝国は、まだこのような共産主義体制に移行することは出来ないでしょう」
政治家とかがよく使う術、その2。
同じことを、言葉を変えて何度も繰り返す。
そしたら、なんかちゃんと答弁してるように聞こえる。
試してみると良いですよ。
「何故、そう思うのです?」
ちっ。
このまま、のらりくらり躱そうと思ってたのに、掘り下げてきやがった。
「残念ながら、現在のルティス帝国では、まだ現体制に賛成派も多くいます。そんな状況で、このような原理主義的共産主義体制は、国民には受け入れられないでしょう」
「…」
「無論最終的には、我々の望む、完璧なるコミュニズム思想を、全ての国民も理解するでしょう。しかし、それには時間が…」
「…時間など、かけている余裕がこの国にあるとお思いですか、同志ルクシア」
…何だと?
「…どういう意味ですか?」
僕がそう尋ねると。
同志は、そんなことも分からないのか、みたいな。
嘆かわしそうな顔をした。
そんなことも分からなくて、悪かったですね。
「我が国には、最早一刻の猶予もないのです」
「…」
「私達がこうしている今も、飢えに苦しみ、明日食べるものどころか、今日食べるもののことを考えている人がいます。今このときに、既に苦しんでいる人がいるのに…」
「今すぐにでも、ルティス帝国は変わらなければならないのです。同志がそのような、悠長なことを言っている間に、一人また一人と、無辜なる民が死んでいくのです。そのようなことを考えたことはありませんか」
「…これは、失礼しました」
如何せん僕は、無辜なる民が飢えに苦しんでいる間。
王族としての嗜みと言われて、バイオリン弾いていたもので。
「確かに、僕が浅はかでした。申し訳ありません」
「…」
サナミア党首含む、全ての同志達が、僕を懐疑的に見つめる。
…うーん、嫌な空気だ。
「誤解しないで頂きたい。僕は、この論文そのものに反対している訳ではありません。ルティス帝国の目指すべき未来は、この論文の中にあるものだと思っています」
ここはせめて、言い訳をしておかないと。
政治家とかがよく使う術、その3。
必死の言い訳。
「出来るだけ早く、改革を推し進めなければならないことも分かっています…。しかし、真に国民のことを考えるならば、急速な政府体制の変革に伴う弊害についても、考えなくてはならないでしょう」
「弊害ですか?政治改革をして弊害を受けるのは精々、現在貴族特権で優雅に暮らしている一部の特権階級だけでしょう」
サナミア党首は、せせら笑うかのようにそう言い。
他の同志達も、その通りだとばかりに頷いた。
酷い話ですよ。
弊害を受けるのは、貴族達だけではない。
自分達もまた、自らの身を痛めつけることになると、彼らは気づいていないのだから。
「…どうやらルクシア同志には、独自の思想、信条があるようですね」
…何?
つまり、「お前は私達とは違う考えの持ち主のようだな」ってことか。
スパイとしては、大変不味い認識だ。
「…理解して頂けないのが、とても残念です」
僕は、大袈裟なくらい悲痛な顔をしてみせた。
すると。
「理解していないとは言っていません。あなたは、『赤き星』の同志。あなたの考えを、私達に理解させてもらいたいと思っています」
「…それで僕は、どうすれば理解してもらえるのでしょう?」
「そうですね…。…論文から始まった議論です。あなたの思想、信条を、紙に書いて持ってきてはもらえませんか」
何?
また論文提出しろって言うんですか。
このサークルは、どれだけ僕に論文を書かせたいんだ。
美術学部での、抽象画課題の提出期限が来週までだから、そちらも描かないといけないのだが?
それに加えて、また面倒そうな課題を…。
…しかし。
「分かりました。光栄です」
僕は、自分の考えを知ってもらえる良い機会を得たとばかりに、嬉しそうに頷いてみせた。
スパイとしては、そうするのが正解。
おのれ。面倒なことになってしまった。
…しかし、抽象画の方、どうしよう?
…かくなる上は。
もう、こうするしかない。
「お帰り〜ルーチェスく、」
「セカイさん!お願いがあります」
「ふぇ!?ど、どうしたの、帰ってすぐ…。欲求不満なの?」
「はい!」
あ、勢いで本音が。
「そ、そうなの?いーよ。じゃ、早速…」
「いや、待ってください。僕が欲求不満なのは事実ですが、しかしそうではなく」
「え?溢れ出る若い性欲を満たしたくて、ウズウズしてるんじゃないの?」
さすがセカイお姉ちゃん。僕のことよく分かってる。
しかし、今はそうじゃない。
「頼みがあるんです、セカイお姉ちゃん」
「お?何だ何だ?お姉ちゃんが、なーんでも聞いてあげよう!」
それは頼もしい。
なら…。
僕は、『赤き星』の連中に信頼を得る為、論文を書かなければならないので。
代わりに。
「…描いてください、抽象画」
「へ?」
これで、課題の一つは解決だな。
自分が、全く『赤き星』の党員達に信用されていないことは。
もとより分かっていた。
彼らがあの部屋で僕を見るときの、その目を見れば分かる。
彼らは、一応僕を『赤き星』に加えはしたものの。
他のメンバー同士のような信頼関係は、全くない。
『赤き星』に入ったからといって、それで終わりではない。
僕は、まだ試されているのだ。
本当に、このルクシア・セレネという人間が、『赤き星』の一員として相応しい人物なのかどうか。
彼らにとっては、まだ試用期間みたいなもの。
今日、図らずも彼らの意見に対立するようなことを言ってしまったのも、裏目に出ている。
ここいらで、挽回しておかなくては。
僕が『赤き星』に相応しくないと判断すれば、彼らは躊躇うことなく、僕を追い出すことだろう。
それだけは避けなければならない。
『赤き星』の内部に入れないなら、わざわざスパイとして潜入した意味がない。
この二作目の論文は、二次試験みたいなものだ。
これを通過しなくては、僕は『赤き星』のメンバーから除名されかねない。
となると、入学時のときのような論文では、不充分だ。
もっと確かに、彼らを納得させられるような論文に仕上げなくては。
面倒だが、出来ないことではない。
相手が悪かったな。
生憎、政治関連の難しい云々かんぬんは、嫌というほど叩き込まれてるんでね。
出来るだけ短時間で、彼らの納得するような論文を書き上げてみせよう。
僕の、腕と頭の見せどころだ。
――――――…私は、寝室のベッドの中に横たわって。
ランプの灯りの下、机に向かってもう何時間も難しそうな本や紙の束(論文?)を読み。
更に、それらを読みながらさらさらと手を動かす、ルーチェス君の背中を見つめていた。
「セカイさんは寝てて良いですよ」と言われ、仕方なく私はベッドに入った。
大体私が起きてても、手伝えることは何もない。
私が、お隣のフューニャちゃんみたいに、料理上手だったらなぁ。
ルーチェス君に、夜食とか作ってあげるんだけど。
私がキッチンに立ったら、ルーチェス君の仕事が増えちゃうよ。
仕方なく、私はルーチェス君の邪魔をしないように、眠っていることにした。
けれど、あくまで眠っている振りだ。
ルーチェス君が、あんなに頑張ってるのに。
私だけ、ボケーッと寝てるのは気が咎める。
…そして、それ以上に。
私の頭の中は、ルーチェス君からの頼み事が、ぐるぐる回っていた。
「抽象画を描いてください」って言われて。
つい、よく分からないまま。
ルーチェス君の助けになりたくて、「任せて!」と答えちゃったのだが。
実は今、内心。
「えぇぇぇぇぇ抽象画って何〜っ!?私そんなの描けないよぉぉぉぉ!!」
…って、言ってる。心の中で。
そもそも、抽象画って何?
それは何なの?食べ物じゃないことは分かる。
画って言うだけあって、多分絵の一種なのだ。
そして多分、本来はルーチェス君自身がやらなければならない課題なんだろう。
ルーチェス君、美術学部だって言ってたし。
多分そこで、課題が出されたんだろう。
さっきの、抽象画っていうのを描いてきなさい、って。
そこまでは推測出来るのだけど。
それにしても、学生に課した課題を、部外者の私が描いて出して良いものなの?
よく分からないけど、ルーチェス君が私に託してきたってことは、別に私の代作でも、問題ないんだろう。
本当はいけないんだろうけど。
バレなきゃセーフ。
でもね、ルーチェス君。
私実は、抽象画ってものが何なのかすら、よく分かってないんだよ。
そんな人間が描いた作品が、仮にも美術学部で…しかも、ルーチェス君が通ってるのって、私立ローゼリア学園大学でしょ?
私みたいな、大学に最も縁遠い人間でさえ、名前くらいは知っている。
そんな有名大学の、美術学部の課題を。
素人の私が描いたりしたら、バレるんじゃないの?
いくら一年生とはいえ。
自慢じゃないけど私、芸術的センスは皆無だよ?
何億もする名画と、近所の絵画教室に通ってる人が、適当に描いた絵の区別がつかないタイプだよ?
何なら、抽象画の意味すら分かってないから。
もう、美術のセンスがあるとか以前。知識の段階から問題がある。
…けれど。
こうして、頑張ってるルーチェス君の背中を見ていたら、そんなことは言えない。
とても言えない。
私が「そんなの描けないよ無理〜っ!」って言えば。
多分ルーチェス君は、「分かりました。じゃあ僕がやるんです大丈夫ですよ」とか言って。
寝る時間を削って、自分でテキパキやってしまうのだろう。
大体普段から、ルーチェス君って、何でも自分でやっちゃうんだもんなぁ。
私が不器用なせいでもあるんだけど。
いつもいつも、頑張るのはルーチェス君ばかり。
私だって、不器用だけど、頭も悪いしセンスもないけど、でもルーチェス君の役には立ちたい。
それに何より、ルーチェス君は、今回私にお願いしてくれたのだ。
いつもは何でも自分でやっちゃうルーチェス君が、わざわざ私に頼んできた。
つまり、今回はルーチェス君も、自分でやる余裕がないのだろう。
当然だよね。あんな難しそうな本をたくさん読んでたら…。絵なんて描いてる暇ないよ。
だったら、私が頑張らなきゃ。
折角ルーチェス君が、このセカイお姉ちゃんに頼み事をしてくれたのだ。
その思いには応えるのが、お姉ちゃんとしての役目というもの。
…よし、頑張ろう。
私は毛布にくるまりながら、固くそう決意したのだった。