アリューシャの、小指の痛みが引いてから。
半泣きのアリューシャに、私はこう言った。
「アリューシャ。向上心があるのは良いことだけど、慣れないことをいきなり始めるのは良くないよ」
さっきみたいな、痛い目に遭うことになるよ。
「うぅぅ…。分かってるさぁ…。どうせアリューシャは、狙撃とゴキブリ以外、何の取り柄もねぇって…」
「そんなことはないよ」
「でも、アリューシャもなんかやりてぇ!なんかやらして!役に立つこと!」
役に立つこと、か…。
私としては、さっきみたいに、私の目の前でアリューシャが微笑ましいことをしていてくれれば。
それだけで、充分私の精神衛生の役に立っているのだが。
アリューシャが、これ以上何かしたいと言うなら…。
「…じゃ、私の肩を叩いてくれないかな?」
「よし来た!アリューシャにお任せ!」
「うんうん、その辺り」
ちょっと威力が強いけど、まぁ良いだろう。
こんな報告書を読まされたら、肩が凝るどころか。
頭痛が酷くなるばかりだからな。
…それと。
「そうだ、アリューシャ」
「おうよ!」
「もう一つ、頼みがあるんだけど良いかな」
「何々!?アリューシャ何でもやるぜ!何ならバク宙とかもやる!」
それは危ないからやめておこうか。
「バク宙は良いから、この書類、シュノに渡してきてくれる?」
「よし来た!アリューシャにお任せ!」
やっていることは、単なるお使いなのに。
重要任務を託されたかのように、アリューシャは書類を受け取るなり。
脱兎のごとく私の部屋を出て、シュノのもとに向かった。
…さて。
あの書類が…ただでさえ余裕のないシュノの心を、痛めなければ良いのだが。
このときの私は、まだ知らなかった。
これからもっと、私達の状況が悪くなっていくことに。
――――――…まるで、任務中のときのように、集中して机に向かっていたものだから。
部屋をノックされたことに、しばし気づかなかった。
「シュー公〜っ!いないのかー!」
「…え?」
私、今呼ばれた?
驚いて、ハッと顔を上げる。
気がついたら、もう二時間近くたっていた。
今、ドアの向こうから…声がしたよね?
誰か、来客…。
慌てて立ち上がりかけたところに、
「シュー公〜!…はっ!まさか、いつぞやみたいに、ねっちゅーしょーで倒れてるのでは!?」
「!?」
この声は…アリューシャ?
ね、熱中症?
「待ってろシュー公!アリューシャが助けてやるからな!ピーポーアリューシャ参上!助けに来たぞシュー公!」
バーン!と扉が開いて、アリューシャが飛び込んできた。
「え、あ…いらっしゃい…」
「…?」
…いや、そんな首を傾げられても。
私は無事だよ?
「…シュー公、ねっちゅーしょー?」
「ううん…。ちゃんと涼しいよ、部屋…」
いつぞやみたいに、エアコンが壊れてる訳じゃないよ。
「じゃあ何で閉じこもって…はっ!もしかして、今流行りの孤独死!?」
ずっこけそうになった。
物騒だから、そんなものは流行らせないで。
「生きてるよ…」
死んでないから、私。
成程、アイズがいつも、アリューシャが精神衛生上必要だと言っている理由が、ちょっと分かった。
思い詰めて必死になってる心に、ちょっと余裕が生まれた。
…しかし、それも長くは続かなかった。
「つーかシュー公!部屋に閉じこもって何やってんだよ?」
「…それは…」
「いっつも閉じこもっちゃってるからさー、キノコでも育ててんのかと思った!」
…何でキノコ?
心配しなくても、キノコは育ててない。
「ルレ公いなくて寂しいのは分かるけどよー、『ごじゅう』のアリューシャ達がこんな、しんみりしてたんじゃ、ルレ公達も士気が下がるってもんよ」
「う、うん…。そうだね…?」
「ごじゅう」って何だろう…?五十…?
今は、アリューシャ専門通訳のアイズがいないので。
その言葉が、「銃後」の言い間違いであることを、私は知らなかった。
確かに私も、ルレイアが…ルレイア達がいなくなって、寂しいけれど。
ここ最近、ずっと部屋に閉じこもっているのは。
別に、寂しくて不貞腐れているからてはない。
「それで…どうしたの?何か用?」
私は、話題を変える為にそう言った。
「おー!そうだそうだ、アイ公にお使い頼まれてたんだったぜ」
お使い?
よく見ると、アリューシャは片手に書類を持っていた。
あぁ、あれを持ってきてくれたんだ。
「ほいっ、これ、シュー公にって」
「ありがとう。確かに受け取ったわ」
…ところで。
「アリューシャは、この書類読んだの?もうアイズから聞いた?」
「へ?知らん!」
知らないんだ。
「そ、そっか…」
「そんじゃ、アリューシャはキノコ作ったことねーけど…アリューシャの力が必要だったら、いつでも呼んでくれよな!」
そう言い残して、アリューシャは帰っていった。
「あ…ありがとう…」
気持ちは嬉しいのだけど、私、キノコなんて育ててない。
まぁ…良いか。
とにかく、アイズが託してくれた、この便りを読むのが先だ。
そして。
「…!」
私はその書類を読んで、どうしてアイズが、アリューシャにその内容を先に知らせなかったのか分かった。
もし、アリューシャがこれを知れば。
「そいつらヤバそうだから、もうアリューシャが全員狙撃してくる!」とか言って。
愛用のライフルを片手に、飛び出しかねなかっただろうから。
でも、その気持ちはよく分かった。
私だって、飛び出したくて堪らなかったから。
「ルレイア…」
私は、その危険の真っ只中にいる彼のことを思った。
…お願い、どうか無事でいて。
そして私もまた、知らなかった。
私が密かに続けていた努力が、もうすぐ実を結ぶことになるのだと。
―――――――…時は、少し遡る。
『青薔薇連合会』幹部、ルレイア・ティシェリーの派閥で、準幹部をしている私、華弦は。
上司から直々に頼まれた任務を、忠実に果たす為…。
…可愛い妹の家を訪ねていた。
私が受けた任務は、私の妹であるフューニャの、隣に住む奥さんを守ることである。
しかし、単に守ると言っても、遠目から見守るだけでは足りない。
もっと確実に彼女を守るならば、彼女に存在を認知していてもらう必要がある。
更に信頼を得られれば御の字。
そして、同僚であり、義理の弟であるルヴィアさんから、
「フューニャはお隣の奥さんと仲が良い」ことを聞いた。
だから、それを口実に、お隣の奥さんとやらに取り入るつもりである。
…私は、別に。
可愛い妹に出来たという、ご近所のお友達を見てみたい訳じゃありませんからね。
えぇ、決してそんな邪な気持ちはありませんとも。
任務ですからね。えぇ、任務ですから。
万全を期す必要があるというだけです。
そんな訳なので。
「時にフューニャ、最近、お隣に新婚夫婦が引っ越してきたとか?」
手土産のケーキを手に、さり気なく妹の家を訪ねたとき。
私は、それとなく探りを入れてみることにした。
「あら、お姉ちゃんもご存知なんですね」
「ご夫婦の旦那さんの方は、私の同僚ですからね」
『青薔薇連合会』に突如入ってきた、通称『裏幹部』。
私も、聞いたことくらいはある。
何と言っても、私の直属の上司の弟子ですし。
何でも、幹部級の実力を持っているけれど。
彼の出自があまりに特殊過ぎるので、幹部にすることは出来ず。
やむを得ず、『裏幹部』の称号をもらったのだとか。
あまり想像したくない出自だ。
それはともかく。
「どんな方ですか?仲良くしてるんですか」
「えぇ。奥さんとは、よく午後のお茶をご一緒するんです」
「…」
「…?お姉ちゃん?」
「いえ…」
別に、思ってませんよ。
フューニャと午後のお茶を楽しめるなんて、羨ましいだなんて。
ちっとも思ってませんから。私。
「それが、お隣の旦那さんは凄いんですよ」
フューニャは、肘をついて嘆息した。
「凄い?」
それは、あのルレイアさんの弟子になるくらいだから。
まぁ、まともな神経はしてないでしょうが。
「えぇ。なんとお隣の家は、炊事もお掃除も、旦那さんが担当なんだそうです」
「ほう」
「奥さんとお喋りする度に、たくさん自慢されますよ。羨ましいくらいに。何でもお隣の旦那さん、お洒落な料理を作るのが上手だそうで」
「お洒落な料理ですか」
「この間はフレンチのフルコースを作ってもらったとか」
そんなことが出来るんですね。ルレイアさんの弟子は。
さすがは『裏幹部』と呼ばれるだけのことはある。
「それにお菓子作りも得意みたいで、よく手作りスイーツをお裾分けしてくれるんですけど、凄く美味しいんです」
「そうなんですか」
「お掃除も得意らしくて、短時間でパパっと綺麗にしてしまうみたいですよ。お隣にお邪魔したとき見ましたけど、インテリアも素敵ですし。あれも、旦那さんの趣味だそうです」
「なかなかハイスペックな旦那さんですね」
「そうなんです。うちのルヴィアさんにも、爪の垢を煎じて飲ませたいくらいです」
隣の芝生は…という奴ですね。
「全くルヴィアさんと来たら、私がいないとダメダメなんですから」
「…」
などと言いながら。
口元は緩んでいるので、本気で呆れている訳ではなさそうだ。
良かった。
…とはいえ、今時専業主婦と言えど、妻一人に全ての家事を押し付けるのは時代遅れ。
今度義弟に会ったら、少しばかりお灸を据えておく必要があるかもしれない。
…それはともかく。
フューニャが、お隣の奥さんと親しいことは、これではっきりした。
ならば。
「…フューニャがそんなに仲良くしているなら、是非、会ってみたいですね」
「え?」
「お隣の奥さんですよ。よく一緒にお茶してるんでしょう?」
「えぇ、そうですが…」
ならば、その機会を利用するとしましょう。
「なら、そのお茶会に私も混ぜてもらえませんか」
「?良いですけど…」
「実は、先日シェルドニアから、シェルドニア名物のスイーツを取り寄せたんです。フューニャと食べようと思ったんですが、お隣の奥さんも呼んでみましょう。来てくれるでしょうか」
お隣の奥さんに会う為に、わざわざシェルドニアからお菓子を取り寄せたのか、と思われたかもしれないが。
それは偶然である。
単に私は、可愛いフューニャとスイーツを楽しもうと思って、お取り寄せしたに過ぎない。
丁度良い口実になるから、そこにフューニャのお隣の奥さんを招こうという、そういう作戦である。
だから本当は、フューニャと二人で食べたかった。
しかし、任務だから仕方ないですね。
それに。
「来てくれると思いますよ。明日にでも、誘ってみます」
「お願いしますね」
可愛いフューニャの友達として相応しいかどうか、私の目で確かめさせてもらう、良い機会です。