「家ここ」
 マンションの前で言った。
「やっぱりコンビニから近いですね。じゃ、これノートの」

オレにルーズリーフ数枚を渡し、羽澄は踵を返そうとした。さっきまで頭がグルグルして、緩慢な動きでいっぱいいっぱいだったのに、素早く自転車の反対側に回り込み、右手で羽澄の左手首を掴んだ。

 躊躇う羽澄を無視し、より強く手首を握りこみ、オレの方に引き寄せると、急なことに羽澄はよろけ、力無く身体がオレに預けられた。
 羽澄の手から自転車のハンドルが離れ、ガシャン―、と音を立て倒れた。

「せっかくだから、少し家に上がっていきなよ」
 胸の所で俯いたままの羽澄に囁いた。
「え……」と羽澄が顔をあげた瞬間、10センチくらいのところまで顔を近づけた。
 避けようと思えば出来ただろうけど、羽澄はオレの瞳をジッと見つめたまま動かなかった。
 右手を羽澄の手首から手のひらへ握る位置をずらし、体の横へそっとおろした。、左手を羽澄の頬に当てると夜風にさらされたからか、とても冷たかった。

 そして、一気に羽澄の唇に自分の唇を寄せた。

 頬と同じで冷え切っていたけれど、漏れる吐息が熱くて、オレの身体を熱くさせた。

 
 何秒経ったか分からない。
 ふと、握っていた手が震えていたことに気がついた。

 慌てて唇を離すと、羽澄はすかさず俯くと、右の手の甲を自分の唇に当てた。その拭うような動作に、オレはショックを受けた。
 暗がりで羽澄の表情は見えなかった。

 それでもオレは手を離さなかった。

 重い沈黙が続いた。

「怒った?」
 ついそんなデリカシーのない言葉がついた。
 微動だにせず、そっぽ向いたままの羽澄の手を引きながら、倒れた自転車を起こしマンションの隅に立てかけた。

 そして1階角の自分の部屋のドアの前へ連れて行った。
 共用廊下の蛍光灯に照らされ、羽澄の顔を……といってもオレの方をみないから、横顔だけだが、頬と耳が真っ赤になっていた。