郊外の広大な敷地に屋敷はあった。周辺の村も、麦畑も、皆この舘の主、グレイ伯の支配下にある。巨大な屋敷はノルマン様式の重厚な石造りで、周囲を深い森が囲んでいた。マックスは車を玄関前に乗り付けた。ミラは軽く身震いする。
「何だ、屋敷の迫力に気圧されたか? 俺達は仕事で来たんだ。招待客っていう訳じゃない。普段通りにやれば良いだけさ」
マックスはそう言うと車を降りた。屋敷の車番がすぐさま駆け寄る。
「お客様、失礼ですがお車のキーを……」
「いや、すまないが車はそのままにしておいてくれ」
マックスは警察手帳を見せた。
「……畏まりました」
老執事が玄関のドアの前で二人を出迎えた。
「どういった御用件で?」
黒いスーツに灰色の髪を後ろに撫で付けた、賢そうなヘイゼルの瞳をした執事は慇懃に訊ねた。
「我々は警察だ。この屋敷のメイドの件で、母親から捜査の依頼があったので来たんだ。先ずは簡単な質問をさせてくれ」
「……旦那様は現在就寝中でございます。いくら警察の方とは言え、事前に連絡も無しにやって来られては迷惑でございます。どうかお引き取りを」
執事は礼をすると、二人を追い返そうとした。
「ちょっと待ってくれ。こちらは正式な礼状もあるんだぞ。こんな風に誤魔化されたら、なおの事舘の主への嫌疑が深まるぞ。何でも無いなら入れてくれ」
執事はしばらく黙っていたが、諦めたように口を開いた。
「……分かりました。こちらへどうぞ」
執事は渋々二人をホールへ引き入れた。
ホールへ入った二人は思わず溜め息をついた。白い円柱に尖塔ヴォールトが連結して、高い天井を支えている。ヴォールトと天井には美しい紋様が施され、空間を圧倒的な美で支配していた。中央に大きな階段が設えてあり、青い絨毯と共に二階へと続いている。壁際に巨大な花瓶が立っており、色とりどりの花が活けてあった。アフロディーテと思われる大理石の彫刻が、妖艶な裸体を曝している。
「想像していたより、凄いお屋敷ね」
「まあな。だが屋敷が素晴らしいからと言って、家主まで素晴らしいとは限らんぞ」
「……こちらへ」
執事に促されて二人は客間へと通された。こちらも素晴らしい部屋だった。淡いブルーの壁に美しい風景画が幾つも飾られている。ゴブラン織りの華やかなソファーが大理石のテーブルの回りに並んでいた。
「お茶をお持ち致しますから、しばらくここでお待ちくださいませ」
執事は礼をすると部屋を出ていった。
「こんな屋敷に住んでいるって、どんな気分かしら?」
ローラが絵画を眺めながら呟いた。
「そりゃあ、快適だろうさ。面倒な事は全部召使いがやってくれるんだしな」
「まるでお伽噺話の世界ね」
「だが、長い事こんな暮らしをしていれば、それが普通になって、感動も何も無くなるのかも知れないぜ」
「そうかしら?」
「昔から良くあるだろう。貴族ってのは、最盛を極めた後、堕落して悪に染まったりするものさ。貧困の結果犯罪に手を染めるのとは訳が違うんだからな」
「そうね……」
ローラは写真の伯爵の姿を思い出していた。確かに全き善人という風情では無かった。でも威厳があり、立派そうな面構えだったわ……。ローラがそう答えようとした時、執事が戻って来た。
「お待たせ致しました」
ティーポットとカップを乗せたワゴンを、執事は部屋の隅に停めた。非の打ち所の無い丁重な手つきで、紅茶をカップへ注いでいく。アールグレイの高雅な香りが、ただでさえ優雅な部屋を更に格調高く満たしていった。二人は大人しくソファーに座った。
「どうぞ」
「ありがとう」
二人の前のテーブルに紅茶を入れたカップが置かれたが、二人は口を付けなかった。
「それで……改めてお訊き致しますが、どういった捜査で?」
執事は座らずに二人の向かいの壁の前に立った。その美しい立ち姿だけで、長年の執務に磨かれて来た有能な執事である事が窺えた。
「先刻も言いましたが、この屋敷にマリアン・ヤングというメイドが居ますね? 一週間ほど前の事です。彼女の母親から訴えがあったのです。つまり、いつも娘は休暇には実家へ帰って来るのに、今回は帰って来なかった、と。こちらにその旨連絡したら、忙しいから帰れない、と言われたと。母親はそれはおかしい、毎回休暇日には帰省していたのに何かあったのではないか? と疑っています」
マックスは嫌疑の詳細を淀みなく伝えた。
「左様で。確かにマリアンというメイドがおります。実は一週間前は当屋敷で集会がございまして」
「集会?」
「はい。旦那様の遠来の御一族やら、御友人やらがお泊まりになられて、晩餐会を催しました。その準備やお客様のお世話で、当屋敷はてんてこ舞いの忙しさだったのです。何しろ皆やんごとなき方々ですからな。抜かり無く歓迎の意を表すのに、旦那様からくれぐれもよろしく、と頼まれておりました。当然メイドも休みなく働いておりましたよ」
執事はにこやかに答えた。
「その集会というのは?」
「簡単に申せば御一族の懇談会です。普段はお互い中々お会いになれませぬ故、盛大に催すのです」
「そうですか……。そのメイド、マリアンに会ってみたいが」
「ええ。ではこちらに呼びましょう」
執事はそう告げると、呼び紐を引いた。
マリアンはすぐにやって来た。小柄ながらしっかりした骨格である事が、メイド服の上からでも分かった。ブルネットの髪を後ろでシニヨンにまとめた、薄茶色の可愛らしい瞳の持ち主だった。淡いソバカスが鼻から頬にかけて散らばっている。
「マリアン。こちらは警察の方だ。お前に訊きたい事があるそうだよ」
「警察?」
「いいから座りなさい」
執事に言われて、マリアンはぎこちなくソファーに座った。
「ミス・ヤング。実は貴方の母上より訴えがあったんです。休暇になっても娘が帰って来ないとね。一週間前はどうしていましたか?」
ローラは出来るだけ優しい声色で訊ねた。
「はい。一週間前は、お屋敷で旦那様のお客様のお世話をする仕事に追われていました。忙しかったので実家へ帰れなかったんです」
「そうですか……では、何か犯罪に繋がるような事がこの屋敷でありましたか?」
「いいえ。特にありません」
「そう。グレイ伯はどんな方かしら?」
「それは……私共は宿舎も階下ですし、仕事以外でお顔を拝見する機会もありませんから詳しくは知りません。でも、優しくて良い方だと思います」
「他に何か……」
ローラがそう言いかけた時である。客室のドアが勢い良く開いた。
「何の騒ぎだね?」
長身の、ガッチリした体型の男が入って来た。ダークスーツに身を包んだその姿には威厳があった。柔らかい金髪を後ろに撫で付けた顔は青白く、落ち窪んだ目の中で明るいブルーの瞳が狼の目の様な鋭い光を放っている――グレイ伯その人である。二人とマリアンは立ち上がろうとしたが、グレイ伯がそのままで、とゼスチャーをした。
「旦那様。こちらは警察の方でございます。メイドのマリアンの件でお見えになったのです」
「そうか。メイドの件というのは?」
「はい。先日御一族の集会がございましたね? その時は忙しかった故、マリアンも仕事に就いておりましたが、本来であれば休暇日だったのです。それで、マリアンの母親が、娘が帰らない、と不審に思い、警察へ訴えたのでございます」
「ほう……そんな事か。何故私に黙っていた? ドナルド?」
「はい、旦那様。使用人の采配については私とメイド頭に任されております事ですし、母親には電話で答えておりましたし、休暇は後日与える事になっておりましたから、まさかこの様な事になるとは……」
「そうか」
グレイ伯はフッと鼻から息を吐いた。
「それで、捜査の進展はどうかね? お二方?」
からかうような視線でグレイ伯はマックスを見た。
「え、ええ。滞りなく終わりましたよ。ミス・ヤング、もう良いよ」
「はい。失礼します」
マリアンは小さく答えると伯爵に膝を折ってから部屋を出ていった。
「それにしても――」
言いかけて、グレイ伯はローラの顔を見て固まった。無言でローラを見つめ、何か言葉を探している様だった。穴が開くほど見つめるとはこの事である。伯爵の強烈な視線に曝されて、ローラは居心地悪そうに体を揺すった。
「あの、何か――」
そう言うのを遮って、伯爵はミラの前に歩み寄ると跪いた。
「お嬢さん、お名前をうかがっても?」
「え、ローラ・バーンズです」
「ミス・バーンズ、貴方は美しい……私と結婚して頂けませんか?」
「は?」
「何を寝ぼけた事言ってやがる!」
マックスが叫ぶ。
「私は本気です」
「は、はあ……でも、お会いしたばかりでいきなりそんな事言われても」
ミラは頬が高揚するのを感じた。今言った通り、会ったばかりの男に告白されたからと言って、何故こんなに赤面しなければならないのか。赤面すべきは向こうである。ローラは何だか馬鹿にされている様な気がして、腹が立った。だが伯爵は顔色一つ変えずに続けた。
「よろしい。確かに、いきなりこの様な申し出を受けても貴女も混乱するだろう。しばらく良く考えて欲しい。私は本心から申しているし、例え貴女が私を愛してくれなくとも、私と結婚すればこの屋敷と広大な所領から得られる利益の半分が、貴女の物になるのだ。悪い取引きでは無いと思うが? 良く考えてくれ。それと……お近付きの印に、これを受け取って頂きたい」
グレイ伯はポケットから銀の鎖に三日月型のムーンストーンの付いたネックレスを取り出した。ソファーの後ろに回り、ローラの首にネックレスを掛ける。
「でも……」
「心配には及ばんよ。それほど高価な物でも無いのだ。まあ、御守りだね。貴女が不幸から身を護れる様に。記念に着けていてもらえると嬉しい」
マックスは呆気にとられて見ていたが、イライラした口調で
「O.K.捜査はこれで終わりだ。ローラ、帰るぞ。見送りは結構! 仕事で来たんだ」
と告げると荒っぽくドアを開けた。
「マックス!」
ミラが慌てて後を追う。二人は停めてあった車に乗り込んだ。マックスはエンジンをかけると、大急ぎで屋敷を後にした。こんな得体の知れない所にもう一秒だってローラを置いておく訳にはいかない。屋敷はみるみる遠ざかり、夕日が辺りを金色に染めていた。麦畑が風に揺れて、まるで金色の海の様である。ローラは後ろを振り返った。屋敷の姿はもう見えなかった。
その日の夜、ローラは久しぶりにバスタブに湯を張って浸かる事にした。何時もは忙しいため、シャワーで済ませる事が多かったのだが、今日は独り静かに、浴槽で物思いに耽りたい気分だった。バブルソープを入れて泡立ったバスタブにゆっくり体を横たえる。ふと、胸元のネックレスに目が行った。鈍く光る銀の鎖に白いムーンストーンが清純な光を放っている。
「お近付きの印に……」
グレイ伯の低い声が脳内に木霊した。全く、何という事かしら? ローラにだって今まで付き合った男は居たが、何れも結婚まではいかなかった。相手にそのつもりが無かった場合もあったし、ローラの方でも、仕事と結婚生活を両立出来るか不安でもあったのだ。そもそもプロポーズなど初めての事である。
ローラは泡を腕に撫で付けると、伯爵の顔を思い浮かべた。渋くて良い男だと思う。かなり年齢が上だし、会うなり愛の告白とはイカれていると思うが、正直言えば嬉しかった。だが、相手はお貴族様である。男っ振りも良くて財力も申し分無いのだ、女など幾らでも好きに出来るだろうに、何故出会ったばかりの平民の私なのか? ローラは浴室に掛けてある鏡の曇りを拭くと覗き込んだ。整った顔立ちではあるが、凡そセクシーさとは無縁の少年の様である。外見の魅力に参ったとも思えなかった。
「考えたって分かる訳無いわね」
ローラはそう呟くと、体を洗い始めた。
翌日からまた何時もの日々が始まった。オフィスに着くと、マックスが待ち侘びた様な様子で声をかける。
「それで、どうするつもりだ?」
「どうって……」
「昨日の伯爵の野郎の件だ!」
マックスは鼻息も荒くローラーに詰め寄った。
「分からないわ。しばらく考えたいの」
「そうか。俺はお薦めしないけどな」
「どうして?」
「先ず身分が違いすぎる! それにな、出会ったばかりで相手の事をろくに知りもしないのにプロポーズするなんざ、何か良からぬ事があるに違いないぞ」
「そうかもね」
「それだけか?」
「ええ。今の所はね。とにかく、今日も仕事よ」
マックスは納得いかない様子だったが、席に戻った。
デスクで昨日の捜査結果についての書類を書き込んでいたローラは、落ち着かなかった。作業に集中しようとしても、伯爵の姿と声が頭にこびりついて離れないのである。美しい金髪と厳めしくライオンの様に精悍な顔。とりわけ、あの狼を思わせる青い冷たい瞳が、ローラを捕らえて離さなかった。今は自分はオフィスに居て、伯爵とは物理的に距離が離れているにも関わらず、常にあの瞳に監視されている様に感じた。そしてあのやや陰があるが堂々とした立ち姿を思い返す度に、自分がまるで蛇に睨まれたカエルにでもなったかの様な気分になるのだった。今までどんな人物に出会っても、偉ぶる課長の前でさえ、こんな風に感じた事は無い。やはり生まれながらの貴族というのは違うのか? ローラは自分の中に生まれた、この形容し難い想いを、どう扱って良いのか分かりかねていた。いっそ考えなければ気が楽だと思ったが、この不安とも畏怖とも言える気持ちは消え去る事は無かった。
一週間後、ローラとマックスは突入部隊と共に、麻薬密売組織の出先機関の前に居た。出先機関と言っても、要は普通の雑居ビルである。今日はここにたむろしている連中を取り押さえて必要資料を押収し、メンバーを連行するのだ。
「連中の車のエンジンは破壊したか?」
マックスが停めてある車の中から無線で特殊部隊に連絡した。
「手筈通りです」
「よし、突入しろ!」
突入部隊が入り口のドアを爆破して中へ入った。何発か銃の音が鳴り響いたが、すぐに静かになる。
「制圧しました」
「よし、行くぞローラ!」
二人は粉塵の舞うビルの中へ入って行った。薄暗い部屋に三人の男が床にうつ伏せて後ろ手に手錠をかけられている。三人とも畜生とか今に見ていろなどと悪態をついていたが、こうなってはじっとしているしか無かった。
「三人を護送車へ連れていけ」
マックスは指示を出すと、机の引き出しを開けた。
「ミラ、収支記録が何処かにあるはずだ、探せ」
「ええ。でも、そういうデータはコンピューターに入っているのではなくて?」
「もちろんそうだろうが、セキュリティの関係上、より重要な記録は紙に録ってある筈だ」
ローラは脇の棚の引き出しを漁った。一番下の引き出しには鍵が掛かっていた。
「ここね」
ローラはナイフを取り出すと引き出しの隙間へ捩じ込み、鍵を破壊する。その時である。
「動くな!」
背後のバーカウンターの中から男が這い出て、銃をローラへ突きつけた。カウンターには細工がしてあり、人が中へ隠れられる様になっていたのだ。
「ローラ!」
マックスが叫ぶと同時に男は左手をローラの腰へ回して体を引き寄せ、彼女のこめかみに銃を当てた。
「よし、ナイフを捨てろ。おい、お前! 仲間の拘束を解いて連れ戻せ! さもないとコイツの命は無いぞ!」
「マックス! 駄目よ!」
「黙れ!」
男はローラの頭を銃床で殴った。ぐったりするローラ。
「わ、分かった」
マックスは無線を入れた。ゾロゾロと男の仲間が戻って来る。一人の男が部屋へ入り様、マックスを殴り付けた。
「ウッ……! 貴様ら、望みは何だ?」
「そうだな、空港に高跳び用の飛行機を用意してもらおうか。パイロットと移動用の車もな。コイツは人質として連れて行く。妙な真似したら……分かってるな?」
男は薄ら笑いを浮かべた。
「……分かった」
「よし、準備が整い次第、ここに電話をしろ。それまで、このビルに誰も近付けるな。お前はさっさと行け!」
「ローラ……」
マックスは切れた口の中で小さく呟くと外へ出た。
外の街は既に夕暮れを迎えていた。ブラインドの隙間から、僅かに夕日のオレンジ色の光がローラ達の居るビルの部屋へ射し込んでいる。ローラは手を後ろ手に縛られて、椅子に座らされていた。
「飛行機の準備はまだなのか?」
一人の男がイライラした口調で訊いた。
「まあ、連中にとっても急な事だろうからな。先ずお偉いさんに相談して、議論して……とか何とか、そんなまだるっこしい事をやってるんだろうさ」
「まさか、このまま放置っていう事は無いよな?」
「心配するな。こっちは人質を取っているんだぞ。しかも奴等の仲間だ。見捨てる訳がねえよ」
「……そうだよな。しかし、こうして見ると中々良い女じゃないか。俺は堪らなくなって来たぜ」
男がローラに近付く。男の邪な笑みを見て、ローラは体を硬直させた。
「今はやめておけ。無事飛行機で国外へ脱出するまではな。何、アジトへ着けば好きにしたら良いさ」
リーダー格の男がたしなめる。ローラはホッと胸を撫で下ろした。それにしても、本当に飛行機を手配するだろうか? ローラが助かるにはそれしかないが、かと言って手配されてしまえば、こいつらはローラを連れて何処だか知れない国外のアジトとやらに逃亡してしまうのだ。そうなれば捜査はおろか、ローラの命も保証はされないだろう。
男がさも残念そうにローラから離れた時である。壊れたビルの入り口の方から、割れたガラスを踏む音がした。四人の男達に緊張が走る。
「おい、今の音……」
「シッ。静かにしろ」
男達は一斉に銃を構えて部屋のドアに向けた。足音は段々部屋へ近付いてきて、ドアの向こうで止まった。一瞬静寂が訪れた。次の瞬間四人は先を争うようにドアに向かって銃弾を放つ。弾丸は木製のドアを貫通した。再び無音が空間に満ちた。
「殺ったのか?」
「……多分な。確認しよう」
リーダーの男はそう言うと、ドアの真横に立ち、片手でドアノブを回した。残りの三人もドアの脇の壁際へ立って、銃を構えている。リーダーは、思い切って勢い良くドアを開けると、銃を廊下へ向かって突き付けた。大柄の黒いコートを着た男が向かいの壁にもたれ掛かって立っている。ガックリと頭を垂れ、ピクリとも動かない。体に無数の銃痕があった。
「死んでるのか?」
「……分からん」
リーダーはそう言いながらコートの男に数発打ち込んだ。それでもコートの男は動かなかった。
「ハ……ハハハ。どうやら死んでいる様だな」
「何者なんだ?」
「俺が知るか。まあ、どのみち死んじまったんだ。何者かどうかなんて関係ねえよ」
リーダーは安堵の溜め息をつく。死体に背を向けて部屋へ入ろうとした時である。
「それで終わりか?」
背後から低い声がした。リーダーはビクッと体を震わせ、即座に振り向いた。コートの男が懐から銃を抜くのと同時だった。
ドンドンッ!
リーダーの額に銃弾がめり込む。そのままリーダーは後ろに倒れた。
「野郎!」
三人がコートの男に向かって引き金を引こうとしたが、コートの男の方が早かった。発砲音と共に三人の体に弾丸が突き刺さる。三人は呻いてその場に崩れ落ちた。コートの男はゆっくり三人に近付くと、空になった弾倉を新しい弾倉に入れ替え、床をのたうち回る三人の頭に止めを刺した。コートの男は乱れた金髪を左手で撫で付けると、部屋へ足を踏み入れた。
「伯爵!」
ローラが叫ぶ。そう、コートの男はグレイ伯だった。
「無事かね?」
「え、ええ……。でもどうしてここに? いえ、銃弾が当たったのに何故?」
「ああ、これか」
伯爵は銃痕を眺めると静かに目を閉じた。大きく息を吸いこんで止めると、身体中の筋肉に力を入れる。
コン!
伯爵の体から弾丸が押し出されて床に転がった。弾丸は次々に体から排出されていく。
「……貴方は一体何者なの?」
呆気にとられたローラが掠れる声で訊いた。
「その質問に答える前に、先ずはここから脱出すべきではないかね?」
伯爵はそう言うとローラの拘束を解いた。
「立てるか?」
「ええ。大丈夫よ」
ローラはヨロヨロと立ち上がった。
「では行こうか」
「えっ?」
伯爵はローラをフワリと抱き締める。驚いたローラが思わず体を硬直させた瞬間、二人の体は中に浮き、凄まじいスピードで部屋をすり抜けビルの外へ出た。
外は既に日が落ちて、街には灯りが灯っていたが、そんな様子を確認する間も無く、二人は高速で空を飛んでゆく。他の人間には二人の姿は見えていない様であった。伯爵の腕の中で、ローラは一抹の安堵と共に、言い知れぬ恐怖に包まれていた。彼は明らかに人間では無い。では何なのか? あれこれ想像する事は出来るが、そのどれも現実感が無かった。もっとも、こんな風に空を飛んでいるという事自体がまるで夢の中の出来事の様だったが。街を越え、畑を越え、二人はみるみる伯爵の館へと近付いて行く。深い紺色の夜空に銀色の星が輝き、明るい満月が煌々と辺りに妖しい光を放っていた。
館に辿り着いた伯爵は、玄関ドアの前にローラを優しく降ろした。
「話は中へ入ってからだ」
そう言うと、ドアを開けてホールへローラを促す。
「お帰りなさいませ」
執事が現れて伯爵のコートを脱がせた。
「ありがとう。客人を連れてきた。前にも会っていると思うが、ミス・バーンズだ。これから我が家に居てもらうからそのつもりで。ミス・バーンズ、こちらは執事のドナルド・カーティスだ」
「ドナルドとお呼び下さい」
「……よろしく」
「ドナルド、部屋へスーズトニックを持って来てくれるか? 夕食はその後にしよう」
「畏まりました」
執事はうやうやしく礼をすると、コートを畳んで脇のドアへと消えていった。
「付いて来たまえ」
伯爵は階段を上り始めた。ローラも後に続く。踊場の壁には巨大なグレイ伯の肖像画が掛けられていた。ミラは思わず目を遣った。
「私としては、自分の肖像画を飾るなど趣味では無いのだが、ドナルド曰く当主の絵を飾るのは我が家の代々の習わしだそうでね」
ローラが訊いてもいないのに、伯爵はそう説明した。まるで悪戯を見つかった子供の言い訳を聞いている様で、ローラはクスリと笑う。謎に満ちた伯爵の、意外にも可愛らしい一面を見て、ローラの緊張は解れた。
「さぞかし有名な画家に描かせたのでしょうね?」
「いや、特別有名という訳では無いが、腕の良いイタリアの画家に描かせたのだよ。肖像画を生業にしている男だ」
ローラは絵を良く見てみた。暗闇の中から鮮やかに浮かび上がるグレイ伯。青白い肌の繊細な表現といい、鋭い眼光の瞳の鮮やかな色合いといい、まるで生きた伯爵がそこに居るかの様だった。背景が真っ暗なのは、より人物を鮮明に印象付ける為の作者の意図であろう。確かに腕の良い画家に違いない。
長い廊下を歩いて、伯爵の部屋にローラは通された。濃いグリーンの壁にローズウッドの深みのある色のフローリングが、落ち着いた雰囲気を醸し出している。暖炉には赤々と火が燃えていた。
「先ずは火に当たると良い」
ローラは暖炉の前の革張りのソファーに腰かけた。マントルピースの上の壁には大きな垂れ幕が掛かっている。大きさと形から推察するに、どうやら何かの絵画を覆っている様だ。
「あれは何です?」
ローラが垂れ幕を指差して訊ねる。
「うん……絵が飾ってあったのだが、今はもう見なくて良いのだ」
「どんな絵なんです?」
ローラは立ち上がって暖炉の前まで移動した。垂れ幕を上げようと手を伸ばした時である。その手を伯爵の右手が力強く掴んだ。ローラは目をパチクリさせる。だってほんの今まで、伯爵は部屋の反対側に居たのだ。驚いたローラが伯爵の顔を見上げると、そこには怒りとも、悲しみとも付かない悲痛な表情があった。
「すまないが、これには近付かないでもらえるか?」
ローラは意図していなかったとは言え、伯爵を傷付けた事を後悔した。伯爵が人間かどうかも定かでは無いが、仮にも心を宿す者なら、他人に触れられたくない事の一つや二つあるものだ。
「……ご免なさい」
「いや、謝る必要は無い。だが、あれには構わないでくれ」
「分かったわ」
ドアをノックする音が聞こえた。
「ドナルドか? 入れ」
「失礼致します」
執事はロンググラスを乗せた銀のトレイを持って部屋へ入って来た。二人は向かい合って座る。
「スーズトニックでございます」
執事はテーブルにグラスを置いた。
「ありがとう、ドナルド。下がって良いぞ」
執事は静かに部屋を出ていった。
「スーズトニックは食事の前に飲むには良い酒だよ。食欲を増進してくれるのだ。遠慮せずに飲みたまえ」
ローラは言われるままに一口飲んでみた。カンパリに良く似た味だが、それより苦みが強かった。
「大人の味といった感じね」
「そうだな」
「それで……。私の質問にまだ答えていないわ。貴方は一体何者なんです? どうしてあのビルに私が居る事が分かったの?」
伯爵はしばらく黙ってカクテルを飲んでいたが、おもむろに話し始めた。
「我が一族だが、かつてこの地域を治めていた王が我らの祖先だ。王は隣国を治める王と土地を巡って争っていた。当時は隣国の方が勢力があり、度々我が国へ侵入しては農民を脅して無理矢理税を治めさせたり、乱暴狼藉を行っていた。領民からの訴えもあり、とうとう隣国と本格的な戦になったが、多勢に無勢、勢いに乗る敵に我が国は負け続け、あっという間に衰退した。そんな折、国に一人の老女が流れ着いた。噂では魔女という事だった。老女は敵を撃ち破り、国を復興させる秘密を教えるから、王に会わせてくれと申し出た。老女は王に謁見して、秘密を教えた。曰く、ここから馬車で三日ほどの岩山の奥地の洞窟に、太古の昔より狼が住んでいて、ずっとこの地を見守って来た。その狼へ、王の一番大事な者を生け贄として捧げれば、狼との契約が成立し、国は狼の力を借りて戦に勝ち、その後繁栄するだろう、という事だった」
ここまで話すと、伯爵はカクテルを一口含んで暖炉の火を見つめた。瞳に炎のオレンジ色が映って、まるで伯爵の瞳が燃え上がっている様だった。
「その生け贄って……」
「私だ。王の息子である私が生け贄に選ばれた。私は当時八つだった。国の運命を左右する貴重な贄として、美しく着飾り、丁重に扱われたが、死にゆく運命である事には変わりが無かった。私は馬車で岩山まで運ばれ、そこから先は人が運ぶ輿に乗って洞窟まで運ばれた。洞窟に私と数日分の食料と水を残して、一同はそこを立ち去った」
「そんな……幾らなんでも酷いわ」
「まあな。だが当時は一人の人間の価値より、国の存亡の方が大事だったのだ。王族ならなおの事
な」
「それでどうなったの?」
「二日間は何事も無く過ぎた。三日目の夜、洞窟の中から外を眺めていると、暗闇の中に二つの緑色の光がこちらへ近付いて来るのが見えた。私は恐怖でじっとしていた。やがてその光は巨大な狼の目であることが分かった。狼は真っ黒な毛皮をしていて、牛程の大きさだった。『ああ、僕はこいつに食われて死ぬのだ』私はそう思って覚悟を決めた。だが、狼は私の前で立ち止まると、低い声で話し始めた――」
「狼が人間の言葉をしゃべった訳?」
「そうだ。『お前は誰だ? 何故ここにいる?』狼はそう質問した。私は『僕はこの王国の王、ハロルドの息子、オーガストです。王国を勝利に導くための生け贄として、ここに連れてこられたのです。僕が生け贄になれば、王国は勝利し、国は繁栄すると聞きました』そう答えた。狼は少し驚いた顔をして、『そういう事か。まあ確かに俺は永いことこの地の繁栄を見守って来たし、加勢してやらん事も無いがね。だが生け贄というのは誤解だな』と言って笑った。『どういう事ですか?』私は訊ねた。『お前の魂の半分をもらい、俺の魂の半分をお前にやる。それで契約成立だ。お前は狼の力を得て、通常の人間では出来ない事が出来る様になる。嵐を喚んで敵を撃退させる事も出来るし、狼の群れを呼び集めて戦力とする事も、空を飛ぶ事も可能になる。それに、お前は不死身の身体を得て、どんな攻撃を受けても死ななくなるのだ。ある一定の年齢までは普通に歳をとるが、その後は歳は止まるだろう。だがその代わり、生きるために人間の生き血を飲まなくてはならない呪いを背負う事になる。それと、この地を護ってゆく義務もな。どうするね? 少年よ』狼はそう答えた。『生き血を飲むだなんて、そんな事……』私は震え上がった。『まあ、飲まなくても済む道もあるがな』狼は笑った。『どんな道ですか?』私は藁にもすがる思いで聞いた。『お前が心の底から愛する者を見つけ、その者に愛情を注いでいる間は呪いから自由で居られるだろう』狼の話を聞いて、私の心は揺れた。その様な恐ろしい運命から逃げたい思いと、王国を救いたい気持ちがせめぎ合った。結局、私は狼と契約する事にしたのだ。『良かろう』私の決意を聞いた狼はそう言うと、私の腕を軽く噛んだ。滲んだ血を舐め取ると、今度は自分の前足を噛んで、私に言った。『さあ、俺の血を飲むが良い。それで契約は成立する』私は言われた通りにした。血を飲んだ瞬間、体に電撃の様なショックが走り、私はその場に気絶した。目が覚めた時は、既に昼間になっていて、狼の姿は無かった。私は洞窟の外へ出て、空を飛ぶ事に精神を集中させた。あっという間に体が浮き、凄まじい勢いで空を飛んで城へと帰ったのだよ。それ以来、私は一族と共に、ずっとこの地を護って来たのだ」
「……」
ローラは絶句した。まるで古代のお伽噺話の様であるが、実際先程伯爵は彼女を抱えて空を飛んで来たのだ。信じるしか無かった。
「では、私があのビルに居るのが分かったのも、その不思議な力のせいなのね?」
「そうだ。そういう訳だから、どうか私の愛を受け入れて欲しい。難しい事では無い。ただ私が君に愛情を注ぐのを認めてくれさえすれば良いのだ」
伯爵はそう言って笑うと、グラスをテーブルの上へ置いた。
「さて、一通り私の立場を理解してもらった事だし、そろそろ食事にしないか?」
「……ええ。そうね」
「では、着替えだな」
「着替え?」
「もちろんだ。ディナーにはディナーに相応しい格好という物がある」
「でも私……そんな服など持っていないわ」
「隣の部屋に君の服を用意してある」
ローラは伯爵に案内されて隣の部屋に入ってみた。可憐な小花模様の壁に覆われた広い部屋の奥に、天蓋付きの大きなベッドが置いてあり、その上に深紅のドレスが置いてあった。ベッドの脇には、同じ深紅のハイヒールが揃えてある。
「着替えたら呼んでくれ」
伯爵はそう告げると自分の部屋へ戻って行った。
ローラはドレスを手に取って眺めてみた。厚手のシルクのローブ・デコルテだった。ふとベッド脇のサイドテーブルに目を遣ると、やはり深紅のルビーのイヤリングが置いてある。
「至れり尽くせり、という訳ね」
ローラは軽く微笑むと、服を脱いだ。
突如、携帯電話のメールの着信音が鳴り響いた。マックスからだ。
『密売屋の連中が死んでいるのを確認した。お前がやったのか? 今何処に居るんだ? 無事なら連絡してくれ』
ローラはしばらく考え込んだ。連絡すれば、伯爵の事を話さなければならなくなるだろう。伯爵は警察権も無いのに四人殺している。殺したのは犯罪者であるし、裁判でも事は有利に運ぶだろうが――
『無事よ。何処に居るかは秘密にしたいの。探さないでくれる? それと、しばらく有給を使うと課長に言っておいて』
返信メールを送るとローラはドレスを着た。
ドレスに着替えたローラは、クローゼットの脇にある姿見に全身を映してみた。大きく開いた胸元から引き締まったウエストにかけて、ドレスは美しいラインを描き、そこから緩やかに裾までスカートが広がっている。トレーニングで鍛えた筋肉質の脚が隠れた事で、ローラは見違えるように女性らしくなった。艶やかなシルクの深い赤が、白い肌をより一層艶かしく引き立てている。突然自分も一流のレディになった様な気がして、ローラは鏡に向かって微笑んだ。これなら、この荘厳な屋敷にもひけを取らないというものだ。
ローラは満足して、隣の伯爵の部屋のドアをノックした。すぐにドアが開いて、ディナージャケットに身を包んだ伯爵が現れた。
「素晴らしい。思った通りだ。似合うじゃないか」
「ありがとう。でも着慣れてないから、粗相をするんじゃないかと不安だわ」
「フフフ。大丈夫さ。よし、行こうか」
伯爵はローラの腕を取ると歩き出した。
二人は階段を下りると、食堂へ入った。中央に二十人程が座れる長テーブルが置いてあり、上座とその斜め脇の席にディナー様の食器が並べられている。暖炉の火が、既に部屋を暖めていた。
「では姫、席へどうぞ」
伯爵が椅子を引く。
「ありがとう」
ローラはゆっくり席に着席した。伯爵が席に着くとすぐに執事が現れた。まずはシェリー酒を小さなグラスに注ぐ。
「よろしい。では私達の再会を祝して乾杯しよう」
二人はグラスを持つと、小さく乾杯した。クリスタルの澄んだ高い音が食堂に響く。
「伯爵、貴方のその……特殊な過去については、召し使い達は知っているのかしら?」
「ドナルドだけが知っている。他の者は知らんよ。知る必要も無いしな。どうしてかね?」
「ええ。その話題を出すのに、誰も居ない方が良いのかと思っただけなの」
ローラはチラリと執事を見た。
「そういう事か。まあ、彼以外の者が居る所では控えてもらいたいな」
伯爵はそう言うと、シェリー酒を一気に飲み干した。ドナルドがコーン・ポタージュスープの入った樽を運んでくる。ローラの脇に立つと、丁寧な手付きでスープを皿に注いだ。
「ありがとう」
ドナルドは軽く一礼すると、伯爵の皿にも同じ様にスープを注いだ。
「ところで、何故私なんです?」
「どういう意味かね?」
「貴方は貴族で、財力もあるわ。女性なら他に釣り合う人も沢山居るでしょうに、何故平民の私なんです?」
「人を好きになるのに理由が必要かね?」
伯爵は片方の眉毛を上げると、お茶目な顔で笑ってみせた。ローラはプッと吹き出す。確かに伯爵の言う通りだ。恋は理屈では無いのだ。伯爵の愛を全て受け入れられるかはまだ分からないが、今の所自分は伯爵から厚待遇を受けている。今は素直にその好意を受け取ろう――ローラは決心してスープを口に運んだ。
夕食を済ませると、伯爵は部屋までローラをエスコートした。途中、ローラはこのままベッドまで連れ込まれたらどうしよう? まだ心と体の準備が出来ていないわ……とドキドキする。だが、部屋の前まで来ると、
「今日は色々あって疲れただろうから、早めに休むと良い。バスルームは廊下の突き当たりにあるから、先に使いなさい。それでは、お休み」
そう言って伯爵は自分の部屋へ入っていった。
バスルームにはローラ用のバスローブとナイトドレスが用意されていた。獅子脚付きのレトロなバスタブが豪華だ。既にお湯が張られ、バスタブ一面に薔薇の香りのバスソープの泡が立っている。ローラはドレスを脱ぎながら、伯爵から肉体関係を迫られなくて良かったわ、と思った。伯爵の事は嫌いでは無いが、まだ早すぎる。自分が伯爵へ寄せている思いに何か特別な物があるのは認めるが、それが恋愛感情なのか、はっきりしないでいた。そんな気持ちのままでは、ベッドイン出来ない。
「多分、彼もそれを分かっているのだわ」
ローラは呟くと、体をバスタブへ横たえた。薔薇の香りのお湯がローラの体を優しく包む。自分の気持ちが定まらないとは言え、こんな風に男から優雅に扱ってもらうというのは中々気分の良いものである。伯爵の正体が化け物――いわゆる吸血鬼だったとしても、その事に違いは無かった。
伯爵は暖炉の前のソファーに座り、独り物思いに耽っていた。前の妻を失って以来とうとう愛する女性を見つけたのだ。向こうにとっては突然の事だろうから、真の意味で結ばれるにはまだまだ時間がかかるだろうが、それは問題ではない。少なくとも、彼女が居てくれれば、あのおぞましくも魅惑的な吸血行為から離れて居られるのだ。伯爵は今まで自分の牙の餌食となった女を思い出していた。皆魅力的でそそる女達だったが、愛するとまではいかなかった。美しい女の白い首筋に残酷にも牙を突き立て、命を吸いとる快楽――伯爵はローラのドレス姿を思い出した。突如暗い欲望とそれに対抗する嫌悪の念が吹き出す。
「駄目だ」
彼女の柔らかな首筋に噛みつきたい衝動を伯爵は必死に抑えた。もしそんな事をすれば、永遠にローラは伯爵を嫌悪する事だろう。吸血する事によって、彼女の自由意思を奪い、傀儡の様にする事は可能だが、心の片隅で、彼女は伯爵を憎み続けるに違いない。それでは伯爵に救いはやって来ないのだ。
伯爵は溜め息をつくと、窓に目を遣った。金色の満月が明るく夜空を照らしている。とにかく、ゆっくりやる事だ。
「馬に乗ってみるかね?」
朝食を済ませたローラに伯爵が訊ねた。
「馬?」
飲んでいたコーヒーカップをテーブルに置いて、ローラは驚いた声を上げる。
「乗馬はしたことないだろう」
「ええ、無いわ」
「家には乗馬用の馬が居る。せっかくだから挑戦してみたらどうだ?」
ローラは少し考え込んだ。乗馬など初めてだが、せっかくの機会である、覚えておいて損はないかも知れない。
「そうね。やってみようかしら?」
「休んだら、馬小屋の前まで来てくれ。準備させておく」
「分かったわ」
「クローゼットの中に君の乗馬服とブーツが入っているから、それを着てな」
乗馬服にブーツまで? 全く、昨晩のドレスと言い、用意周到な事である。一週間前に出会った時から、こんな日を予想して準備していたのだろうか? ローラは正直恐れ入った。
クローゼットを開けると、水色のストレッチシャツに、白いキュロット、黒のジャケットが掛けてあった。他にも幾つか、ローラ用と思われるワンピースや、婦人服が収まっている。下に目を遣ると、茶色の乗馬ブーツが揃えてあった。ローラは早速服を取り出すと、着替え始めた。
着替え終わったローラは屋敷を出て、裏庭から少し離れた脇にある馬小屋へ向かった。今日は薄曇りで肌寒く、心なしか辺りの景色も沈んで見える。だが、良い香りのする落ち葉を踏みながら馬小屋までの小道を歩くのは悪くなかった。木の立ち並ぶ小道をしばらく歩くと、馬小屋と柵で囲われた馬場が見えてきた。
馬小屋に入ると伯爵が待っていた。馬子が鞍を着けている。
「早かったな。もっと休んでいても良かったんだぞ」
「ありがとう。でも、今日の天気の様子だと、いつ崩れるか分からなそうだから、晴れているうちにやった方が良いかと思って」
「そうだな。先ずは馬に挨拶したまえ。これが私の乗るナイトメアだ」
「悪夢? 何故そんな名前を?」
「全身真っ黒だろう。それに、こいつは今でこそ大人しいが、昔は負けん気の強いお転婆でね」
「フフ。そうなのね。今日は、ナイトメア。私はローラよ」
ローラは優しくナイトメアの頸を撫でた。黒光りする程の艶やかな漆黒の毛並みが美しい。引き締まった筋肉が、より一層黒い彫刻の様な体を際立たせている。ナイトメアはブルル、と鼻から息を吹き出して首を軽く振ったが、暴れるという事は無かった。
「マイ・ロード、馬具の装着完了しました」
馬子が灰色の馬の脇から出てきて告げた。
「ありがとう。こっちが君の乗るシルバースノウだ。大人しい奴だから、安心して良い」
「よろしくね、シルバースノウ」
ローラはシルバースノウの頬を撫でる。シルバースノウは大人しく頭をローラに擦り寄せた。シルバースノウは名前の通り、全身美しい灰色の毛皮に被われている。白い小さな斑が散らばっている様は、まるで雪が降っているかの様だった。
「よし、では馬を出すぞ」
伯爵はそう言うと、ナイトメアの手綱を持ってゆっくり小屋を出た。ローラも同じ様にシルバースノウの手綱を取る。馬場に出ると伯爵は馬を止めた。
「常歩から始めよう。鞍に乗って」
ローラは左足を鐙に掛けた。右足で地面を蹴って鞍の上へ立ち上がり、右足を反対側の鐙に置くと、馬を驚かさないように、ゆっくり鞍に座った。
「上出来だ。本当に初めてか?」
「ええ。脚力には自信があるのよ」
「そうか」
伯爵は笑いながら馬に跨がった。
「進めの合図は踵で軽く馬の腹を蹴るんだ。止まるときは手綱を後ろに引けば良い。それと、乗馬は姿勢が重要だ。常に背筋を伸ばして、尻ではなく、座骨でバランスを取りながら鞍に乗るんだ」
「分かったわ」
ローラはシルバースノウの腹を軽く蹴って合図を送る。シルバースノウはゆっくり歩き始めた。馬が脚を前に出す度に振動が鞍に伝わる。ローラは言われた通りに背筋を伸ばしてバランスを取った。
「中々上手いじゃないか」
伯爵は後ろからそう声をかけると、ナイトメアの腹を蹴る。ナイトメアはローラ達の後ろを歩き始めた。
「良し良し、良い子ね」
ローラは手を伸ばしてシルバースノウの頸を撫でた。
一時間程歩いた頃である。馬場の脇の森から、兎が走り込んでシルバースノウの前を横切った。すぐ後から、猛烈な勢いでセッターが兎を追い掛けて馬場に侵入する。突然現れた犬に驚いたシルバースノウは、いなないて、猛スピードで馬場を駈け始めた。ローラは鞍に乗っているのが精一杯だった。少しでも油断したら、振り落とされそうである。
「手綱を引け!」
ナイトメアを走らせる伯爵の声が後ろから聞こえた。ローラは下から突き上げる振動に揺られて生きた心地がしなかったが、馬場を二周した所で何とか強く手綱を引いた。シルバースノウはその場に後脚で立ち上がり、前脚を中で掻く。鐙から足が浮き、ローラの体は後ろに放り出された。
「ローラ!」
ローラは思い切り中へ浮かんだ。地面へ激突する恐怖で体を丸める。次の瞬間、ローラは空中で伯爵に抱き止められた。伯爵はローラを抱いたまま、地面へ着地する。ローラには何が起こったのか分からなかった。
次の瞬間、ローラを抱いた伯爵は軽やかに地面へ着地した。ローラが宙に放り出されてから、一瞬の出来事だった。
「大丈夫か?」
伯爵が優しく訊ねる。ローラは思わず伯爵の顔を見上げた。二人の間に気まずい沈黙が横たわる。ローラは何か言おうとしたが、伯爵の顔を見つめたまま、押し黙った。不意に目の前が暗くなる。伯爵の顔がローラの上に覆い被さった。伯爵の暖かな唇がローラの唇に重なる。ローラは一瞬驚いたものの、抵抗する気にはなれなかった。伯爵の舌がローラの体に火を着けた。突如として燃え上がった二人の欲望は、もう止まらなかった。伯爵はローラを抱き上げると、そのまま館へ向かう。館の前の噴水が見えた時、
「やはり、駄目よ。下ろして下さい」
ローラは伯爵に訴えた。
「急にどうしたのかね?」
伯爵はゆっくりとローラを地面に立たせると、少し残念そうな顔で訊いた。
「あの……例の狼が居るという洞窟だけど」
「それがどうかしたのか?」
「私、そこへ行ってみたいわ」
ローラは咄嗟にそう答えた。本音を言えば、洞窟の事など特に興味は無かったのだが、この場を取り繕うためにそう言ってみたのだった。それに、彼女は既に伯爵を愛し始めていたが、ただ一つだけ、彼が普通の人間ではないという事実が、彼女の気持ちを押し留めたのだった。もし、伯爵を再び人間に戻すことが出来れば……。例の狼なら出来るかも知れない、そう思ったのである。
「ふん……彼処へ行くとなると、馬だと三日はかかるからな。つかまりたまえ」
伯爵はそう言うと、以前の様にローラを抱いて一気に空へと舞い上がった。
森を抜け、広い麦畑を横切って、伯爵は猛スピードで空を飛んでいく。目を開けたままでは冷たい風で凍りそうで、ローラは目を閉じたまま、伯爵にしがみついていた。伯爵の胸の鼓動がローラの体に伝わるのを感じる。
――吸血鬼とは言っても、生きているのだわ――
その事実はローラを安心させた。心臓の鼓動というのはこんなにも人を落ち着かせるものか。きっと、相手が魔物でも、心臓の脈動が有るなら心で繋がはれるはずだ――そう思えるからだろう。
丸一日空を飛んで、二人は岩山の洞窟へと到着した。既に辺りは真っ暗で、月明かりだけが頼りだった。しんと静まり返った夜の闇の中から、フクロウの鳴く声が聞こえ、ローラは思わず声のする方を見た。その時、伯爵の瞳が真っ赤に光っているのに気付いた。
「これか? 闇を見るにはこれが良いんだ。気にするな」
ローラの視線を感じた伯爵が素っ気なく答える。
「猫の目みたいなものかしら?」
ローラは敢えて可愛らしい猫を引き合いに出した。
「フフフ……そうだな」
二人はゆっくりと岩を上り、大きな洞窟へと入っていった。
洞窟の中は文字通り真っ暗闇だった。外の闇より一段と暗い、漆黒の闇の中を伯爵はローラの手を引いて歩いていく。やがて奥に大きな緑色の二つの光が浮かび上がった。
「これはこれは……久しぶりだな」
洞窟内に低い獣の唸り声の様な太い音が響く。おそらくあれが例の狼の声なのだろうが、暗くて姿は見えなかった。
「彼女がお前に会いたがったのでね」
伯爵はローラに目をやった。
「お前の愛しい人という訳だな」
「ローラだ」
「ローラか。いい名前だ……いや、しかしこの人は……?」
狼はそう言ったきり黙ってローラを観察している様だった。
「フフフ……成る程な。確かに、お前の好きそうな女だな」
「どういう意味かしら?」
ローラが怪訝そうな声を出した。
「それは……」
狼が話すのを伯爵が遮った。
「それはどうでも良いだろう? 彼女には関係の無い話だ。止めてくれないか?」
普段は落ち着いている伯爵の焦りと興奮の入り交じった声を聞いて、ローラは驚いた。
「まあそうだな。それでお嬢さん、私に会ってどうしたかったのかね?」
「え……それは……あの、貴方が伯爵を吸血鬼にしたのよね? 他に方法は無かったのかしら?」
「ふん……彼女に話したのかね? まあ、無かったな。王国は危機に瀕していたし、それに対して私が出来る事は彼に力を与える事だけだからな。オーガストに与えた魔力と、私の助成で敵は撃滅した。良い取引ではなかったかね? オーガスト?」
「……まあな」
「でも、忌まわしい呪いがかかったわ」
「仕方がない。力には犠牲が付き物だ。それに、お前さんが居る間は彼の呪いも無効になるのではないかね?」
「愛の力という訳ね?」
「そうだとも。愛という物は不可能を可能にするのさ。あらゆる魔力の中でも最高度の力だよ」
「それは……そうでしょうけど。伯爵を再び人間に戻すことは出来ないの?」
「無理だな……それに、今のままで何か問題かね?」
「それは……」
「フフフ……良し、せっかく来たんだ、歓迎の印と二人の幸せを祈って、一つ歌を捧げよう」
狼はそう言って立ち上がると、洞窟の外へと向かった。入り口に差し掛かり、差し込む月明かりに照らされて浮かび上がった姿は、銀白色の毛皮に包まれていた。狼は洞窟の前の岩山に登ると、座り込んで遠吠えを始めた。腹の底に響き渡る、強烈な、しかし美しい歌声だった。夜に詩を読むなら、まさしくこの遠吠えが相応しい。闇夜の荒野に人間の言葉は無粋である。ローラはうっとりと遠吠えに聞き入った。まるでおとぎ話の一枚の絵の様である。伯爵が静かにローラの肩を抱いた。ローラは伯爵に身を預けて、いつまでも狼の歌声を聞いていた。それは最高にロマンチックな夜だった。そうしているうちに、ローラは段々と伯爵が吸血鬼でも構わない、という思いに心が傾いていった。