大して遠くもない記憶を思い出していれば、ふと、彼は傘を広げた。そこまで大きくはないひとつの傘に、濡れないように親切にわたしまでその傘に入れてくれている。というか、彼はわたしのほうに傘を傾けていて、自分はほとんど傘に入っていない。



おかげで雨から解放された。ありがとうと感謝の気持ちを伝えなければいけないのに、今のわたしには到底無理。そんな余裕はない。




どくどくと心臓がものすごい速さで動いているのを身体中で感じる。この傘が彼ではなくまた別の誰かのものだったら。それだったら無事届けられてよかったと、安心して家に帰れたはずなのに。




「傘、持ってんの?」


さようなら、お気をつけて、では。



ありとあらゆる他人行儀な別れの言葉を頭に浮かべて、どれもしっくりこないと悩ませていたときだった。その声が頭上から降ってきたのは。



「えっ、わたし……?」


話しかけられたことに驚いてそう零すと、目の前の彼は「他に誰がいんの」と小さく笑う。


ご尤もな話だ。周りは足早にわたしたちの横を過ぎ去っていくだけで、こんなところで立ち止まっているのはわたしたちふたりしかいない。




「わたしなら、」


いつ雨が降ってきてもいいようにリュックのサイドポケットに入れている折りたたみ傘。それを取り出そうと片側だけリュックを肩から降ろす。


「あれ、」