どうにもうまく働かない頭。それでも、彼の言葉を理解することはできた。



どうやら、傘の持ち主は合っていたらしい。目の前に立つ彼だったらしい。でも、わたしは合っていようが間違っていようが、もうどっちでもでもいいとさえ思ってしまう。





傷みを知らない黒い髪が、雨に濡れている。


振り向いた拍子に辺りを纏った少しあまいにおい。それは彼が手に提げている袋の中のパンの香ばしい甘さじゃなくて、彼自身から放たれるもの。この香りが、心の引き出しの奥に閉まっておいた、淡い記憶を連れ出してくる。




吸い込まれそうな瞳。クールな声。その、あまい香りに。






────どうしようもなく、懐かしいと思ってしまった。






「どうかした?」


彼の唇が動いて、無意識のうちに見つめてしまっていたことに気づく。


「え、あっ、なんでもないです。傘、届けられてよかったな、って」



一瞬の静寂ののち、途切れ途切れに言葉を紡げば、ふ、と口元を緩めて「うん、助かった」と笑みを浮かべる目の前の人。






もう、忘れていた。

その声も、その香りも、思い出さえ、ぜんぶ忘れていたはずだったのに。



一瞬にして蘇るその記憶は、決して甘いものばかりではなかった。むしろ、頭に残っていて離れないのは苦い思い出のほうばかりだ。