「あのまま、自分を月子だと思い込んでおけばよかったのに。
過去を知ろうなんて、そんな事を思うから……」


決して、後ろは振り返ってはいけなかったのだ。

知らずに月子として過ごせば、敦とも幸せな未来が待っていたかもしれない。

振り返ってはいけない、過去だったのだ。


陽子は、知らず知らずのうちにガタガタと震えだした自分の肩を抱き竦めた。


「田畑は…いたの…?」

かすれる声が可笑しく思える。

月子の問いをあざ笑うように、敦は頷いた。

「あぁ、いたよ…
お前に『陽子を殺した』と思わせて言いなりにしてやろうと思ったんだけど、すべて思い出したんなら隠す事もないんだからな。

そうだよ。
田畑は、ここにいた。
アイツは、
田畑は、俺の親父だ……」

かわいた敦の笑い声が、音楽室に響く。

「でも、名字が…」

「小さい時に離婚した、アル中のグズ。
離婚しても金をせびりにくる、最悪な親父…」

そんな過去が敦にあったなんて、陽子はこれっぽっちも知らなかった。

母親が入院している為、祖母の元で過ごしているという事だけしか。


陽子がもたれかかる、背後の姿鏡。

そこに映り込んでいるのは、陽子の半身。

過去を知って、酷く歪んだ顔が映っている。


「俺、初めて会った時から優しい月子の事が好きだったんだ。
そばにいない母親の優しさに、月子を重ね合わせていたのかもしれない。

だけど、そんな月子のそばには、いつもお前がいた。
生意気でわがままで、自由奔放な陽子がね。
本当に疎ましかったよ。」

憎々しげに見下げる、敦の視線。

先程交わされた、キスに込められた深い憎悪は、陽子にあてたものだったのだ。

最初で最後の……


「田畑に追われて逃げるふたりを見て、俺チャンスだと思ったんだ。
陽子、お前を殺すチャンスがきたとね。」