食堂を出て、2階に行くまで。
 蘭はとにかく速足だった。
 喋る暇なんて、ない。
 そうだった、この男はせっかちで、声の大きい男だったんだなと思い出す。
 私の部屋の前に着くと。
 くるりとこっちを振り返った。
「なあ、ちょっと話さないか?」
 と言って、隣にある蘭の部屋を指さした。
「えっ・・・」
 予想もしていないことを言われて、声が漏れる。
 その反応に、「何だよ、その表情は」と呆れたように蘭が大声で言った。
「いや…、別に」
 顔に熱を帯びるのがわかる。
 夫だというのに、何を今更意識しちゃっているのだろう。
 恥ずかしくなって、うつむくと。
 蘭はじっと私を見て急に、
「べ、別に変なことなんてしないからな。というか、俺がおまえに触れたくても触れられないことくらい、わかってんだろ?」
 その言葉を聞いて、ギャーと私は顔に血がのぼるのを感じた。
「…遠慮しておきます」
 恥ずかしさを隠すために、ツンとした声で言うと。
「…まあ、そうだな」
 とあっさりと蘭が頷いた。
「じゃあ、ここで少し話そう」
 と言って、蘭が壁に寄りかかった。

 薄暗い廊下では、蝋燭の灯りだけが頼りだけど。
 やっぱり蘭は変わった。
 身体つきだけじゃなくて、顔がシュッとしてカッコよくなった。
 上手くは言えないけど、一年前と比べると。
 近寄ってもいいんだという温かなオーラが出ている。

 じっと見ていると、蘭はこっちを見た。
 暗いとわからないけど。
 碧い瞳で私を見つめてくる。
「養護施設にいたんだろ?」
 蘭は私を見下ろす形で言った。
「…はい」
「どうだった? 児童養護施設は? ライト先生と一緒だったから大丈夫だとは思うけど」
「どうって、言われても…」
 一言で言い表すことが難しい。
 正直、最初は嫌な思い出しかなかったよと顔をしかめる。

「…まあ、大変だったのは目に見えてわかる」
「ねえ、蘭。どうして私はライト先生と一緒じゃなきゃいけなかったの?」
 ずっと訊きたかった質問だった。
 蘭に再会したら、色んな事を言いたかったはずなのに。
 本人を目の前にしたら、考えていた言葉が、すぽんっと頭から抜けてしまっている。

 じっと、蘭を見ると。
 蘭はむっと顔を歪めた。
「ライト先生と一緒だと問題だったのか?」
「いや、問題とかじゃなくて・・・どうしてかなって」
 急にイライラした態度を取られてしまったので思わず身構える。
「ライト先生とだったら、安全だと思ったからだ」
「・・・・・・」
 何を根拠に言い切ってるの?
 あの人、私を誘拐した人だけど?

 悪態をつこうと、喉まで声が出かかっていたが、
 手をぎゅっと握りしめて。
 言葉を飲み込んだ。
 蘭に文句を言ったところで、この一年が戻るわけではない。

「蘭はこの一年、元気だった?」
 これくらいの質問だったら、タブーではないだろうと。
 話題を変える。
 蘭には秘密が多い。
 現在はスペンサー伯爵としての地位がありながらも、実を言うと蘭は養子であって。
 本当の父親の跡継ぎ問題で、お兄さんと血みどろの争いを繰り広げている。
 それだけは、教えてもらっている。

「まあ…大変だったな」

 ふぅ…と大きなため息をつかれてしまったので。
 あ、この質問はヤバかったんだと慌てる。
 もう、何を話してもこのままじゃ蘭の怒りを買いそうに思えたので。
「そろそろ、明日の準備しなきゃー」
 と適当に言って部屋に戻りたいことをアピールする。
 蘭は、じっとこっちを見たかと思えば、ずんずんと近づいてきた。
 至近距離になって、心臓が急にバクバクと鳴りだす。

「おまえ、綺麗になったな」

 急に真顔(しかもいつも通りの大声)で蘭が言うので。
「はい!?」
 と驚くと、
「おやすみ」
 とだけ言って、蘭は部屋に引っ込んでしまった。

 残された自分は、バックバクと心臓の音が早くなって。
 恥ずかしくて、もうどうしていいのかわからなくなった。