あんたなんかの為に、泣きたくなんてないのに。
きっとあいつの彼女なんて私だけじゃない。そんなことくらい解ってる。
……そうよ、あんな男どうだっていいじゃない。優しくしてくれる男なんて、他に幾らでもいる。
そうやって必死に自分に言い聞かせるのに。
結局行き着くのはいつも彼のところ。
もう私には湊じゃなきゃ駄目になっていたんだ。
退屈な大学の授業を抜け出して、外のバルコニーへ出ると、吹き抜ける風に当たってただ呆然としていた。
「……美紗?」
「あおい」
「なにやってんの、こんなところで」
「気持ちいいね、此処」だなんて扉を開けて、私と同じ様に外の空気を吸いにきた蒼生に「うん」と適当に返事を交わした。
他の男の人と一緒に居たって。
目の前の蒼生と湊を無意識のうちに比べてしまう。
……なんで?どうして。いつからこんなにも彼に依存するようになってしまったんだろう。
悔しい。悔しい悔しい悔しい。
好きなのに、こんなにも大好きなのに。
好きだけじゃどうにもならなくて。
堪え切れずに溢れてくる涙を、気付かれない様に必死で拭った。
私の想いは所詮、一方通行。叶うはずのない恋。
ゆっくりと瞼を閉じると、優しい彼の顔が真っ先に浮かんでくる。
彼の匂い、声、体温。
なにもかもが恋しくて。
普段は煙草なんて吸わないくせに、先程近くのコンビニで彼がいつも吸っているのと同じ銘柄の煙草を購入した。
手に大事に持ったままだったそれを箱の中から一本取り出すと、カチッと火を付けた。
「おい、美紗?」
初めて、だった。ゆっくりと煙を吸い込む。今までにない感覚は、途中でむせそうになったけれど……湊と同じ匂い。
彼のことを思い浮かべながら、ゆっくりと煙を吐き出した。
「……やめろよ、こんなことするの」
なにか察したらしい蒼生は、直ぐに私の手から少しばかり強引に煙草を奪った。
「お前、煙草嫌いだったじゃん」
「………」
返す言葉も見つからなかった。
蒼生はまだ灯ったたままの煙草を、アスファルトに擦り付けて火を消した。
「美紗。なあ、どうしたんだよ」
蒼生は、真っ直ぐに目も逸らさずに私のことを見てくれる。
貴方に触れられた両肩が妙に熱かった。
嗚呼、蒼生のことが好きになれていたらよかったのに。なんて心が揺らいだ。
「ごめん、なんでもないから」
だけど、関係ない蒼生にまで迷惑を掛けたくない。勝手な事情に巻き込む訳になんていかない。
「なんでもない訳ねぇだろ。お前さあ、なんでもかんでも全部自分一人で抱え込むなよ」
「うん……」
いつもよりも、きつい口調で話す蒼生の言葉に、ただ小さく頷くことしか出来なかった。
「……湊、か」
「え?」
悟った様にポツリと呟いた彼の横顔は、何処か寂しそうだった。
「つーか、なに。また浮気でもされた?」
「え、なんで分かん」
「顔に書いてあるから分かるっつーの」
「は……!?」
「懲りないね、お前も」
呆れたような口調だった。
「それでも、好きなんだろ?」
蒼生には、すべて見透かされている気がする。
なにも言わずに頷くと、「だったら仕方ないよな」と溜め息混じりの返答が返ってきた。
「なんであんな男がいい訳?」
「なんでって言われても……」
言葉では上手く説明できなかった。
「まあ、人を好きになるって、そういうことか。説明なんてできないよな」
思い詰めたような表情で蒼生は言った。
「美紗ほどいい女、他にはいないんだからさ。
お前から振ってやればいいじゃん。そんで後悔させてやれよ」
「な?」と付け足す蒼生に「ありがとう」とだけ伝えると、急いで外へと出た。足は自然と彼の家へと向かっていた。
湊に会いに行くのもこれで最後にさせる。
今日こそサヨナラするんだ。
そう、心に誓ったはずなのに。
だけどやっぱりこれで最後になんてさせたくないなんて心の何処かでは矛盾が生じている。
……嫌だよ。
本当は離れたくなんかない。
ずっとずっと一緒にいたいだけなのに。
それなのにどうしてこの想いは届かないの?
わがままな奴を想って、勝手に涙が溢れ出した。
それでも、そんなわがままな奴に一刻も早く逢いたかった。
嘘でもいいから、ぎゅってあの大きな身体で優しく抱き締めて欲しかった。
たとえ湊に抱きしめられる女の子が私一人じゃなかったとしても、あの温かい腕の中なら安心出来るから。
いつもの通い馴れた道を歩く足が無意識のうちに速くなっていた。
マンションの部屋の前までやって来ると、震える指でインターホンを押した。
……湊、いるかな。もしかすると他の女と会っているのかもしれない。
本当はそんなの随分前から知っているのに。
ゆっくりと開いた扉。そこからはずっと逢いたかった彼が顔を覗かせた。
「……美紗?」
連絡もしないで突然押しかけたせいか湊は驚いた様子だった。
私はなんて声を掛けようかと頭の中で言葉を選びながら立ち尽くしていた。
「あの……」
「とりあえず、上がれよ」
扉を大きく開けて、湊の後に続いて私も部屋の中へと入った。
いつもと変わらない殺風景な部屋、煙草の匂い。
虚しい。
何度も此処に足を運んでいるはずなのに、私の存在はまるでなかった。
「なーに突っ立ってんの」
背後から私の肩に顎を乗せて耳元で声を掛けられてハッとした。
「美紗?座れば」
いつもと変わらない笑顔で湊は両手に持ったマグカップをテーブルの上にコトンと置くと、先にソファに腰掛けた。
「うん」
ゆっくりとソファに寄り掛かった。
湊から「ん」と先程のマグカップを受け取ると、それを両手で包み込んだ。温かい。
彼が淹れてくれたのは私の大好きなフレーバーの紅茶だった。甘い香りが鼻を掠めた。
「ありがとう」
その時、湊の携帯が鳴った。
電話を取ると彼はソファから離れてキッチンへと向かった。
またか、なんて思いながら私はゆっくりと先程のカップに口を付けた。
「……美味しい」
◇ ◇ ◇
「わり。俊からだった」
話終えた湊がソファへと戻って来た。
「仲良いね」
なんだか条件反射の様に湊に対してつくり笑顔で返すことが多くなった気がする。
受話器の向こう側から微かに女の声が聞こえたことなんて、本当は知らない。
「つか、どうした?」
肩に回された腕が、湊との距離を一気に縮めさせる。
……近い。顔と顔が触れ合いそうなくらいに。
「湊に話したいことが……んっ」
吸い付くように、深く重なり合う唇。
後頭部を強く引き寄せられ、角度を変えて幾度も幾度も。
湊のキスはいつも激しい。
その度に貴方しか映らなくなる。
ダメ……湊が好き。
もう他の誰かじゃダメなくらいに私は堕ちていく。
「は……っ」
唇を離したけれど、やっぱりサヨナラなんて言えない。
私が一言「別れよう」と告げれば、湊は承諾してくれる。
彼はきっと私を引き留めてはくれない。
これからだって彼は幾つも嘘を塗り重ねて行くだろう。
その度に傷付くことなんて目に見えているのに。
だけど私はそれ以上に湊から離れたくなんてないんだ。
離れたくないというよりも、私はもう湊からは離れられないのかもしれない。
言えないサヨナラ