「よぉ、知ってるか?リストカットって自殺の成功率めっちゃ低いんだぜぇ……」
榎本涼子は、思わず手首にあてていたカッターナイフを落としてしまった。ついさっきまで、自分以外誰もいなかった筈の部室に、いつの間にかいる見知らぬ少女から話し掛けられたのである。
「カッターナイフ程度で傷付けても、高々傷の深さは知れてるからよぉ、多少は血は出るけど、直ぐに止まっちまう。もっと切れ味の良い……そうだなぁ、手術で使うメスとかで切らにゃ痛てぇし、手元狂って上手く出来ないぜぇ……へっへっへっ」
涼子の手元を覗き込むようにして少女はそう言うと、落としたカッターナイフを拾い、涼子へと手渡した。
「どうした?死ぬんだろ?死にてぇんだろ?死ねよ?てめぇがなんで死にてぇのかは知らんし、こっちの知ったこっちゃねぇからよ」
その少女は、涼子の耳元で囁くようにそう言うと、どかりと目の前のベンチへと腰を下ろした。そして、腕を組んでじっと涼子を見詰めている。
「……あなたは誰?」
涼子が消え入りそうなか細い声で少女へと尋ねる。眼鏡の奥に見える瞳は泣き腫らしたのか真っ赤であり、黒くて長い髪は後ろで一つに結われているが、どことなくぼさぼさっとしていた。
「私か?私はさっちゃんと皆から呼ばれてるよ」
「……さっちゃん?」
「そうだ、さっちゃん。あのさっちゃんはね……って歌と同じ、さっちゃん」
そう言うと、その少女、さっちゃんはケラケラと楽しそうに笑う。さっちゃんの体の動きに合わせ、腰ほどまで伸びた濡鴉の様な漆黒の綺麗な髪がさらりさらりと揺れている。
「どうした、やらねぇの?私の事は気にすんなよ?きちんと遺書まで準備してんじゃん」
さっちゃんは涼子の側に置いてある『遺書』と書かれた封筒を拾い上げると、遠慮なしに中の便箋を取り出し読み始めた。
「ふぅん、 なんだてめぇ、虐められてんのかよ。相手の名前も書いてんじゃねぇか。これなら、てめぇの死体が見つかって遺書読まれたら大騒ぎだよなぁ……一瞬だけ」
読んだ遺書を丁寧に封筒に入れ、元の場所へと戻すさっちゃん。その顔には楽しくて仕方がないといった表情が浮かんでいる。
「……一瞬?」
その言葉に、俯いていた涼子がぴくりと反応し、さっちゃんの方へと顔を向けた。さっちゃんはそんな涼子をにたにたとした笑みを浮かべ見詰めている。
「そうさぁ、一瞬だけだよ。てめぇは命懸けの抗議のつもりなんだろうけどなぁ」
そう言うとさっちゃんはぐいっと涼子の胸ぐらを掴み、俯いている顔を無理やり引き起こした。そして、相変わらずにたにたと笑うその顔を近づけてきた。
涼子の鼻腔にふわりと線香の香りが広がっていく。どこから匂って来るのだろうか。線香の香りに懐かしささえ感じてしまう。
「……」
顔を上げさせられた涼子の顔はとても苦しそうで、今にも泣きだしそうな表情をしているが、そんな事はお構い無しに、さらにさっちゃんは話しを続けた。
「死ねよ? ほら、死ぬんだろ? 皆は忘れてくれるぜ? てめぇがいた事も、てめぇがされてきた酷ぇ事も。喉元過ぎればなんとやらってなぁ、直ぐに何事もなかったように、普段の生活に戻っちまう」
「……」
「遺書に書かれたてめぇを虐めた奴らも、どこかに転校されるか、下手したらこのまま在校して無事に卒業。上手く立証出来て事件になっても、まだまだ少年法に守られてるから保護観察処分程度だぜぇ」
「……」
「てめぇの自殺は……」
一つため息をついて、ぎろりと涼子を睨むさっちゃん。涼子もその目を黙って次の言葉を待つ様に見詰めている。
「無駄死にだ」
そう言うとさっちゃんは胸ぐらを掴んでいた手を離し、肩をぽんぽんと叩いた。涼子の目からは大粒の涙が流れ、頬を伝い顎の先から落ちていく。
「……なら、私は……どうすれば」
「知らねぇよ、んな事はよぉ。どっか遠くにでも行っちまいなよ。てめぇの婆さん、北海道にいんだろ? そこの高校でも行けよ?誰もてめぇの事を知らねぇしな。携帯も捨てちまえ。新しい番号に変えろ。ここで生活してきた事を、物を、人を全部捨てちまえ」
「……でも」
「でももへったくれもねぇだろうが。てめぇの母親この事知ってんのか?女手一つで育ててきた娘がてめぇでてめぇを殺そうとしてんのをよぉ?」
ふるふると首を振る涼子に、また大きなため息を一つついたさっちゃん。
「どうせ死ぬつもりだったんだろうが。きちんと母親と話せ。それで無理だったら死ねばいい、それでも遅くはねぇからな。良いか、遠くに行くのは逃げなんじゃねぇよ。人生をリスタートさせんだよ。虐めた奴らに構う時間が勿体ねぇだろが。そんな時間があんならよ、てめぇの為に使いやがれ」
「……」
「まぁ、てめぇの人生だ。好きにしな。死ぬも良し、死なねぇも良しってなぁ。てめぇの勝手だ」
あのにたりとした笑みを浮かべながらそう言うと、さっちゃんが椅子から立ち上がった。さっちゃんを見上げる涼子。涙と鼻水で顔がぐちゃぐちゃになっている。そんな涼子を見てまた楽しそうにへっへっへっと笑うさっちゃんが、涼子へとポケットティッシュを手渡した。
「……あなたは何者なの?なんで私なんかに……」
「言わなかったか? 私はさっちゃんだよ、死神さっちゃん」
「死神……?」
「そ、死神さ」
にたりと笑うさっちゃんの姿がゆらゆらと揺らめきながら消えていく。ぽろぽろと涙を零しながらその消えゆく姿を眺めていた涼子は、側に置いてある遺書をぎゅっと握りしめた。
それから数ヶ月が経った。涼子の事はどうなったかなんて分からない。ただ、この中学校で何らかの不祥事があったというニュースは流れなかった。
変わったことと言えば、一人の少女が受験を控えた忙しい時期の二学期途中で転校していっただけである。行く先を誰にも言わず、どこか遠くへ、誰もいない遠くへと。
彼女の去り空いた席に、腰ほどまで伸ばし、濡鴉の羽の様に漆黒で美しい長い髪をした少女が座っている。
にたりと笑いながら、かつて彼女が在籍していた教室で何事もなかったかのように過ごす生徒達を眺めている。
「さぁ、次に死にたがってるのは誰だ?忙しくて休む暇もありゃしねぇ……」
へっへっへっといやぁな笑い声を上げた少女は、椅子から立ち上がり教室を出ていった。
榎本涼子は、思わず手首にあてていたカッターナイフを落としてしまった。ついさっきまで、自分以外誰もいなかった筈の部室に、いつの間にかいる見知らぬ少女から話し掛けられたのである。
「カッターナイフ程度で傷付けても、高々傷の深さは知れてるからよぉ、多少は血は出るけど、直ぐに止まっちまう。もっと切れ味の良い……そうだなぁ、手術で使うメスとかで切らにゃ痛てぇし、手元狂って上手く出来ないぜぇ……へっへっへっ」
涼子の手元を覗き込むようにして少女はそう言うと、落としたカッターナイフを拾い、涼子へと手渡した。
「どうした?死ぬんだろ?死にてぇんだろ?死ねよ?てめぇがなんで死にてぇのかは知らんし、こっちの知ったこっちゃねぇからよ」
その少女は、涼子の耳元で囁くようにそう言うと、どかりと目の前のベンチへと腰を下ろした。そして、腕を組んでじっと涼子を見詰めている。
「……あなたは誰?」
涼子が消え入りそうなか細い声で少女へと尋ねる。眼鏡の奥に見える瞳は泣き腫らしたのか真っ赤であり、黒くて長い髪は後ろで一つに結われているが、どことなくぼさぼさっとしていた。
「私か?私はさっちゃんと皆から呼ばれてるよ」
「……さっちゃん?」
「そうだ、さっちゃん。あのさっちゃんはね……って歌と同じ、さっちゃん」
そう言うと、その少女、さっちゃんはケラケラと楽しそうに笑う。さっちゃんの体の動きに合わせ、腰ほどまで伸びた濡鴉の様な漆黒の綺麗な髪がさらりさらりと揺れている。
「どうした、やらねぇの?私の事は気にすんなよ?きちんと遺書まで準備してんじゃん」
さっちゃんは涼子の側に置いてある『遺書』と書かれた封筒を拾い上げると、遠慮なしに中の便箋を取り出し読み始めた。
「ふぅん、 なんだてめぇ、虐められてんのかよ。相手の名前も書いてんじゃねぇか。これなら、てめぇの死体が見つかって遺書読まれたら大騒ぎだよなぁ……一瞬だけ」
読んだ遺書を丁寧に封筒に入れ、元の場所へと戻すさっちゃん。その顔には楽しくて仕方がないといった表情が浮かんでいる。
「……一瞬?」
その言葉に、俯いていた涼子がぴくりと反応し、さっちゃんの方へと顔を向けた。さっちゃんはそんな涼子をにたにたとした笑みを浮かべ見詰めている。
「そうさぁ、一瞬だけだよ。てめぇは命懸けの抗議のつもりなんだろうけどなぁ」
そう言うとさっちゃんはぐいっと涼子の胸ぐらを掴み、俯いている顔を無理やり引き起こした。そして、相変わらずにたにたと笑うその顔を近づけてきた。
涼子の鼻腔にふわりと線香の香りが広がっていく。どこから匂って来るのだろうか。線香の香りに懐かしささえ感じてしまう。
「……」
顔を上げさせられた涼子の顔はとても苦しそうで、今にも泣きだしそうな表情をしているが、そんな事はお構い無しに、さらにさっちゃんは話しを続けた。
「死ねよ? ほら、死ぬんだろ? 皆は忘れてくれるぜ? てめぇがいた事も、てめぇがされてきた酷ぇ事も。喉元過ぎればなんとやらってなぁ、直ぐに何事もなかったように、普段の生活に戻っちまう」
「……」
「遺書に書かれたてめぇを虐めた奴らも、どこかに転校されるか、下手したらこのまま在校して無事に卒業。上手く立証出来て事件になっても、まだまだ少年法に守られてるから保護観察処分程度だぜぇ」
「……」
「てめぇの自殺は……」
一つため息をついて、ぎろりと涼子を睨むさっちゃん。涼子もその目を黙って次の言葉を待つ様に見詰めている。
「無駄死にだ」
そう言うとさっちゃんは胸ぐらを掴んでいた手を離し、肩をぽんぽんと叩いた。涼子の目からは大粒の涙が流れ、頬を伝い顎の先から落ちていく。
「……なら、私は……どうすれば」
「知らねぇよ、んな事はよぉ。どっか遠くにでも行っちまいなよ。てめぇの婆さん、北海道にいんだろ? そこの高校でも行けよ?誰もてめぇの事を知らねぇしな。携帯も捨てちまえ。新しい番号に変えろ。ここで生活してきた事を、物を、人を全部捨てちまえ」
「……でも」
「でももへったくれもねぇだろうが。てめぇの母親この事知ってんのか?女手一つで育ててきた娘がてめぇでてめぇを殺そうとしてんのをよぉ?」
ふるふると首を振る涼子に、また大きなため息を一つついたさっちゃん。
「どうせ死ぬつもりだったんだろうが。きちんと母親と話せ。それで無理だったら死ねばいい、それでも遅くはねぇからな。良いか、遠くに行くのは逃げなんじゃねぇよ。人生をリスタートさせんだよ。虐めた奴らに構う時間が勿体ねぇだろが。そんな時間があんならよ、てめぇの為に使いやがれ」
「……」
「まぁ、てめぇの人生だ。好きにしな。死ぬも良し、死なねぇも良しってなぁ。てめぇの勝手だ」
あのにたりとした笑みを浮かべながらそう言うと、さっちゃんが椅子から立ち上がった。さっちゃんを見上げる涼子。涙と鼻水で顔がぐちゃぐちゃになっている。そんな涼子を見てまた楽しそうにへっへっへっと笑うさっちゃんが、涼子へとポケットティッシュを手渡した。
「……あなたは何者なの?なんで私なんかに……」
「言わなかったか? 私はさっちゃんだよ、死神さっちゃん」
「死神……?」
「そ、死神さ」
にたりと笑うさっちゃんの姿がゆらゆらと揺らめきながら消えていく。ぽろぽろと涙を零しながらその消えゆく姿を眺めていた涼子は、側に置いてある遺書をぎゅっと握りしめた。
それから数ヶ月が経った。涼子の事はどうなったかなんて分からない。ただ、この中学校で何らかの不祥事があったというニュースは流れなかった。
変わったことと言えば、一人の少女が受験を控えた忙しい時期の二学期途中で転校していっただけである。行く先を誰にも言わず、どこか遠くへ、誰もいない遠くへと。
彼女の去り空いた席に、腰ほどまで伸ばし、濡鴉の羽の様に漆黒で美しい長い髪をした少女が座っている。
にたりと笑いながら、かつて彼女が在籍していた教室で何事もなかったかのように過ごす生徒達を眺めている。
「さぁ、次に死にたがってるのは誰だ?忙しくて休む暇もありゃしねぇ……」
へっへっへっといやぁな笑い声を上げた少女は、椅子から立ち上がり教室を出ていった。