(うう…お腹痛い…。)

現在の時間、夜中の2時。そしてここは自分の家のトイレ。彩響は数時間前の自分の行動を後悔しながら、またトイレの水を流した。事の発端は会社にいた夜8時、佐藤くんが給湯室でなにかを食べているのを見たことだった。



「なんかすごい刺激的な匂いする。何食べてるの?」

「主任、これ見たことありません?これ、最近ユーチューブでめっちゃ流行っているカップ麺ですけど、すげー辛いんすよ!その名も『ファイアーラーメン』!」

「『ファイアーラーメン』…?」

「なんかの罰ゲームでこれを水飲まずに完食するとかやってるらしいです。食べてみます?もう一個ありますよ!」

佐藤くんが早速自分のカバンから黒いパッケージのカップ麺を出す。普段そこそこ辛いものを食べてきた彩響も、それは初めてみるものだった。丁度ストレス溜まってきたし、辛いもの食べて発散したら良いかも…。彩響はそのままカップ麺を受け取った。

「ありがとう、佐藤くん。いただきます。」

「どうぞどうぞ!」




…そして、峯野彩響は現状トイレから逃れられず、ずっとケツ穴から火を吹く地獄を味わっていた。そろそろもう出るものもないだろう…と思う頃には、体に力が入らず、フラフラしながらやっとトイレから出た。なんとかリビングのソファーに辿り着いたとき、部屋のドアノブが回る音がした。


「…彩響さん?どうかされましたか?」

「ひ、寛一さん…?!」

今は本当に誰とも会いたくないのに…!彩響は心の中で悲鳴を上げた。暗闇の中、寛一さんが心配そうにこっちを見ている。普段見ることのない彼のジャージ姿がとても新鮮に見える…が、今はそんなことを言っている場合じゃない。彩響はあえて平気そうな声を出した。

「だ、大丈夫です…。ちょっとトイレに行ってきただけ…。」

「もしかして、お腹が痛いですか?」

「え、なんで分かっちゃうの?!」

「何回もトイレに出入りするような音が聞こえたので。下痢とかではないかと。」


スラスラと「下痢」と言う言葉を口にする彼の無頓着さに彩響はどんどん恥ずかしくなった。「熱とか出ました?」でもなく下痢なんて、下痢なんて…!こんな原初的な話題をしたくなかった乙女心に気づかないまま、寛一さんがこっちへ近づいてきた。

「下痢は止まりましたか?」

「げ、下痢だと決めつけないで!」

「…?では、違うんですか?」

「そ、それが…ちょ、ちょっと目が覚めただけです…。」

「はあ…そうですか。」


中々素直になれず、彩響は言葉を誤魔化した。しかしすぐ、トイレに入ろうとする寛一さんを見てぱっとソファーから立ち上がった。

「どうしました?」

「い、今トイレ使おうとしてます?」

「はい、そうですけど…。」

「お願い、ちょっとだけ待って!今は入らないで!」

「あの…本当にどうしたんですか?大丈夫ですか?」


心配そうに聞く質問に、彩響は更に必死になる。ついさっきまで臭い下痢でテロを起こしていたトイレに、すぐ入らせるわけにはいかない。公衆トイレなら誤魔化せても今は無理、じっちゃんの名にかけて真実は一つしかないのだ…!彩響は結局素直に認めてしまった。


「そうよ、すごい下痢でトイレに化学テロ起こしてるの、だから今は絶対入っちゃダメです!」

「化学テロ…とは…。」

「臭いってことです!ああーもう恥ずかしいからこれ以上何も聞かないでください!!」


なるほど、と寛一さんが頷く。なにが「なるほど」だー!と叫びたいけど、これ以上暴走するのはさすがにやめたいと思い彩響は必死で自分自身を抑えた。寛一さんはしばらくぽかんとして、そしてやっと理解したようにあ、と声を出した。


「承知しました。…お腹の調子は?開いている病院探しましょうか?」

「大丈夫です…。もう治ったので。」

「取り敢えず、横になってください。」


言われた通り、彩響はリビングのソファーに座った。そのままキッチンの方へ消えた寛一さんはなにか物音をさせて、こっちへ戻ってきた。

「これをどうぞ。」

「これは…ホッカイロ?」

「お腹を暖かくした方がいいと思いますので。あと、温かいお茶も持ってきました。体に水分が足りないと思いますので、ゆっくり飲んでください。」


差し出された湯呑を取り、温かいお茶を少しずつ飲む。いい香りのお茶が喉を通ると、少しお腹の調子も安定したような気がした。寛一さんがソファーの下に座り、じっとこっちを眺めた。その視線になんだか恥ずかしくなる。

「あの…ごめんなさい。夜中騒がしくして。」

「いいえ、むしろこういう場合は早く言ってくださった方が良いです。次からは早く言ってください。」

いつも白いシャツに暗い色のジーンズを履いていて、まるでゲームキャラクターのようにそのイメージが彩響の中で固定されていたけど…。今日改めて見る黒い半袖のVネックTシャツが結構似合う。そうか、寝るときはこんな格好で寝ているのか…。黙っているのが気になったのか、寛一さんが自分の手を彩響のおでこに当てた。

「え…。」

「熱は無さそうですね。会社は行けますか?」

「行きますよ、これくらいで休むわけにもいかないので。」

「そうですか…なら、朝お粥を用意しますので。」

「ありがとうございます…。なんか、すごい慣れてますよね。」

「まあ…俺も幼い頃、よくお腹を壊していたので、父がこうしてくれました。」

(お母さんではなく?)


一瞬気になったけど、あえて触れないようにした。むしろ、こんな変態(?)息子を育てたお父さんはどんな人なのか、そっちの方が気になった。

「お父さん、優しいですね。」

「そうですね。いい人です。なにもかもが不器用な人だったんですけど、今思えばそれも全部父なりの優しさだったんだと思います。」

「寛一さんはお父さんに似てますか?」

「どうでしょう…そういうのは本人はよく分からないものなので。」

中々こういう他愛もない話をする機会も無かったし、今まで特にしようとも思っていなかったが、いざしてみると意外と悪くない。むしろ結構楽しいとも思える。そして、なんだかこの風景、妙に見覚えがあると思えば…。

(そういえば、こういうことがあった…)

大昔、まだ両親が離婚する前。薄暗いなか、自分のベッドの隣で二人がなにか話をしていて、その声を聞きながら眠りに落ちる。幼かったけど、その温かい感覚が未だに残っている。とても安心できて、とても幸せだと感じた、あのとき…。

「彩響さん?大丈夫ですか?」

「え?あ、はい。大丈夫です。お陰様でだいぶ落ち着きました。」

「そうですか。なら、俺はお粥の準備をしておきます。」

「あ…あの…!」

思わず寛一の指先を握る。寛一さんが驚いてこっちを振り向く。彩響も自分の行動に驚きながらも、手を離したりはしなかった。

「あの…お粥は結構です。それより…。」

「それより?」

「なんか、こう…お話をしてくれませんか?」

「お話?なんのですか?」

「なんでも良いです。おとぎ話でも、どっかで聞いたネタでも、なんでも。」


寛一さんは理解できないような顔で、でも結局は彩響の隣へ座った。しばらくして、寛一さんが口を開けた。


「えーと。少し油断すると、すぐ押入れの中にカビができてしまうので、彩響さんが家にいないときはクローゼットをなるべく開けておこうと思います。そして、下駄箱の靴も週一回くらいは風に当てたほうが良くて…。それと…えーと、駅前のたい焼きが美味しいです。」


あえて何も聞いてこないその気遣いがとても優しいと思う。そして、相変わらず洗濯に執着しているのも改めて分かった。なんだか笑えるけど、彩響は何も言わずそのまま彼の声に耳をすました。

あ、たまには、お腹壊すのもありかも。たまには。


そう思える、ある夜の出来事だった。




そして、数時間後ー


「ーそろそろトイレ使ってもいいですか?」

「…ダメです。」

「はあ…。」


いや、やっぱりお腹は壊さないのが良い。彩響は改めて思った。