あー。その名前を聞いた瞬間、状況が把握できた。あれは、以前武宏が預けてくれたウェディングドレスの件だ。確かやつがドレスをクリーニング後保管までしてくれる業者があるとかなんとか言ってた気がする。しかし今現状…彼とはもう別れて、当然結婚もなかったことになった。久しぶりに聞く名前にちょっと機嫌が悪くなるのを感じたが、彩響はあえてなにもないふりをした。


「まあ、本人ではないですけど…。元々私のですので、お話してください」

「あ、はい。実は、弊社に原因不明の火事が発生して…」

「え?大丈夫ですか?」

「あ、はい。幸い誰も怪我はしていませんが、お客様の大事なドレスをお守りすることができませんでした。大変申し訳ございません」

「いいえ…本当に大変でしたね。今電話くださった方は無事なんですね?命に害がなくて本当に良かったです」


彩響の言葉に一瞬話が止まる。


「もしもし?大丈夫ですか?」

「え?あ、その…そんなことを言ってくださるお客様は初めてで…。びっくりしました。皆様お怒りの方ばかりでしたので…」

「どうしてですか?火事は事故だったんですよね?業者さんからこうして謝罪もしてくれているのに、理解できません」

「そんなことありません。その服の価値は本人でないと分からないものですので…正直、こちらからはいくら払っても足りないと思います。もちろん、お客様のドレスも弁償致します。ドレス購入なさったときのレシートとかお持ちですか?」

「いいえ、弁償なんて、要りません」

「え?ですが…」

「結構です。もう必要になりそうもないし。これくらいでは役に立たないかと思いますけど、頑張ってください」


向こうから又しばらく返事がなくなった。また声をかけようとした瞬間、彼が言った。


「本当に、本当にありがとうございます」

「ええ…」

「その言葉、絶対忘れません。本当にありがとうございます。本当に、本当に…」




「…そのときの人が、寛一さんだったんですか?」


寛一さんが頷く。彩響は驚いて何度も確かめた。


「本当に?本当に?じゃあ最初から私だと知っていたんですか?」

「家政夫になったのは本当の偶然です。しかし、あなたが元婚約者と写っていた写真を見た瞬間、気付きました」

「そのドレス、元彼の名前で預けてたんだね…。あいつとの記憶はすべて封印したいと思っていたから、ドレスのことも全く気にしていなかったんです」

「そうだったんですね」

「…なんで言ってくれなかったんですか?」


彩響の質問に寛一さんは照れるように笑った。

「俺には大事な記憶ですけど、彩響さんにとってはそうでもないと思って」

「寛一さんだと分かっていたらそう思いません」

「さあ、どうでしょう。なにより先に、そのドレスを早く返したいと思ってました。他にどう恩返しをすればいいのか、分からなくて」

「そんなこと考えるんだったら、余計なこと考えずに黙って消えたりしないでください」

「…申し訳ございません」

「まだ話は終わってないよ。どうして突然私から離れたのか、教えてください」


寛一さんはしばらくそのまま立っていた。なにかを言いたそうで、中々言えない。今回彩響は急かさず、じっと彼を待った。

彼の本当の気持ちを知りたい。もうあれこれ言い訳されてイライラするのはうんざりだから…。やがて、彼がなにかを決心したように口を開けた。


「事故の後、俺はすべての客に責められました。俺には何一つ残ってなかったし、もう絶望しかないと思いました。でも…」

「…」

「…あなただけは違った。あなたのその『頑張ってください』の一言を聞いた瞬間、涙が止まりませんでした。…その日、決心しました。いつかはこの人に出会い、恩返しをすると。その日までは絶対生き残ると」

「そんな……」

「そして、偶然に偶然が重なって、あなたに会えました。彩響さん、あなたは俺が想像していた以上に立派で、素敵で、とても美しい人でした。そんなあなたの隣で仕事ができて、とても幸せでした。できれば末永く、あなたの隣でいたいと思いました。でも…」


寛一さんが深く息を吸う。その後続く言葉は、想像もできなかったことだった。


「…でも、必死で否定しても、どれだけ努力しても、やはり…あなたを好きになる自分自身を止められませんでした」

「え?」


聞き間違いだろうか。彩響が目を大きく開ける。あまりにも突然すぎて、今の発言が理解できない。


「私が、好きなの?寛一さんが?」

「そうです。…彩響さん、あなたが好きです」