天井にはシャンデリア、壁には明らかにわかるほどのアンティークの燭台。
薄暗い廊下にはいくつも豪華な扉が並んでいた。
一般人では見ることもできない様なその超高級ホテルの廊下を、瑠璃は歩いていた。
「良いか、この先のことは誰にも言うなよ」
「・・・わかってます」
瑠璃は子供っぽく頬を膨らませた。
まだ24歳とはいえ、その仕草はやや子供っぽすぎるだろうか。
「良いから早く連れて行ってくださいよ〜!」
たった今瑠璃に釘を刺した男の腕に絡みつく様になりながら瑠璃は甘えた声を出す。
男はサングラスの下でニヤリと嫌な笑顔を浮かべた。
「ったく。好き物な女だぜ」
「えーっ?いけないですかぁ?」
「くくっ、いーや。きっとみんな喜ぶぜ」
そう言いながら男がある一室を開けると、中から瑠璃が思わず顔をしかめてしまうほどの異臭がした。
青臭い上に軽いアンモニアの様なつんとくる匂い。
決して良い匂いとは思えなかった。
「おーっ!なんだまた追加かぁ?って、極上すぎる女じゃねえか!」
部屋の奥から歩いてきた上裸の男はニヤニヤと下卑た笑いを返すこともなくすきっ歯を見せつける様に笑った。
「ありがとうございまーす!」
「へへっ、ある程度のこと知ってきてるんだよな?」
笑いながら男は瑠璃に肩を回した。
瑠璃は少し肩に力を入れながらも抵抗することなく変わらない笑顔を浮かべる。
「はーい!なんかめっちゃ気持ち良くてー、最高な気分だって!」
「そうだぜ、良い薬があるんだよ、きっと今までの男じゃ経験できなかった気持ちよさがあるから楽しみにしてな!」
「えへへ、楽しみです!」
そう言って瑠璃はサングラスの男をチラッと潤んだ瞳で見上げた。
「お兄さんは、戻っちゃうんですか・・・?」
その甘い声と表情にニタリと笑った男は上裸の男に鋭い視線を飛ばす。
「おい、俺も良い加減混ぜろよ」
「わーったわーった。他のやつを釣りにだすよ。こんなおねだりされるなんて羨ましいぜ」
瑠璃をここまで案内してきたサングラスの男と上裸の男が取り合う様に瑠璃の肩を抱きながら部屋の奥へと進んでいく。
やけに物々しく見える扉を開けると、中からは先ほどまでの青臭い匂いがさらにキツくなって薫ってくる。
それに合わせて人間の体液の匂い。
汗や精液のむせ返る様な匂いも混ざっている様だった。
そして部屋の中では複数の男女があちらこちらで肌を重ねていた。
ある男は焦点の定まらない瞳で夢中に腰を動かし、ある女は部屋中に響きわあるほどの嬌声を上げている。
明らかに普通ではない光景を見て立ち止まった瑠璃を急かす様にサングラスの男が瑠璃の服に手をかけた。
「こっちはずっと我慢させられてんだよ、へへ、たまんねえぜ」
ニタニタと笑いながら瑠璃のコートを剥ぎ取ると、丁度瑠璃の前に連れてこられてだろう女性が悲鳴を上げながらサングラスの男に近づいてきた。
「こ、この・・・っ!だま、したわね」
肌を隠すものなど何もないのに、さらに犬歯もむき出しにして低い声を上げる。
その顔も体も何かわからない様ないろんなものが混じった体液で汚れていた。
「おいおい!人聞き悪いなぁ」
笑いながら上裸の男がその女の髪の毛を乱暴に捕まえて組み敷く。
「ひっ・・・!もう嫌ぁ!」
「何言ってんだよ、あんなによがったのは全部ビデオに収めてあるぜぇ?なんならあとでたっぷり観賞会と行こうか?配信してやるよ」
「・・・〜っ!」
そう言われると女は悔しそうに唇を噛みながら強く目を閉じて抵抗を止める。
その腕に男は乱暴に注射を突き立てた。
「ほら、あっちも始めるしよ、俺らもヤろうぜ。な?」
そう言って男は自分のスーツを脱いで裸になりながら慌てた様な手つきで懐から一本の注射器を取り出した。
「これが言ってたやつだよ、理性も全部飛ぶくらい気持ち良くなれるから楽しみにしてな!」
欲望を剥き出しにしながら男が瑠璃の腕を取ろうと手を伸ばすと、瑠璃はひらりと腕をかわした。
「・・・あん?」
「あ、触らないでもらえますか?虫唾が走る」
「・・・・」
さっきまでとは変わらない笑顔を浮かべながらもなぜかその口では全く聞かなかった辛辣な言葉が飛び出して、男は思わずぽかんと口を開けながらサングラスをずり落とした。
「あとみっともないので早くしまってください、その粗末な物」
「・・・んだとこのアマ!」
大きく腕を振りかぶると男の固く握り締められた拳が瑠璃の顔を撃ち抜こうと勢いよく振り下ろされる。
だが瑠璃はじっとその拳を見つめながらじっと動かなかった。
バチィ!と思い切り肌のぶつかる音が響き、次いですぐに何かが吹き飛んでテーブルにあたり、グラスなんかが割れた音が響いた。
そこまでいくと流石に周りも何かあったのかと思って行為を中断して視線を集める。
すると、その視線の先では全裸の男が粉々に砕かれたサングラスを顔中に突き刺しながら血塗れで倒れていた。
「・・・な!」
周りの男たちが慌てた様子で集まってくると、部屋の扉を一様に睨みつける。
そこには瑠璃と、瑠璃の肩を抱きながら拳を突き出す一人の男がいた。
「ああ。お楽しみのところ悪いな。人の女に手をあげようとしたクズがいたから、つい反射的にな。謝罪はしない」
「な、なんだお前ぇっ!」
裸の男たちが慌てた様にしながらも怒りも体も隠そうともせずに声を荒げる光景はあまりにもシュールで瑠璃は思わず笑ってしまった。
「全く。笑い事じゃないぞ。俺は自分の物が傷つくのが一番嫌いだと知っているだろうに」
瑠璃の肩を抱いている男、未蘭がそうため息混じりにそう言うと、瑠璃は素直に頭を下げた。
「すみません、これが一番手っ取り早いので。だって、1日でも長くこんな害虫が巣食っているのは未蘭さんも嫌でしょう?」
先ほどまでの男たちに見せる表情とは全く違う顔を見せながら笑う瑠璃に一度目をやると、未蘭はふっと鼻を鳴らした。
「それ以上にお前に何かされるのが嫌だとわかってくれればいい女なんだがな」
ため息まじりにそう言うと、未蘭に吹き飛ばされた男たちはイラついた様子で立ち上がり、彼を包囲するように広がり始めた。
「いきなり来て何甘い事言ってんのか知らねえがよ・・・!周りの状況をよく見た方がいいぜ」
「俺たちが何者か知っての事なのか?ああ?」
男たちはナイフを手にしながら未蘭を脅すように見せつけるが、未蘭は小さくまたため息を増やしただけであった。
「俺たち極道に手を出したんだ、後悔しても遅ぇぞ!」
「お前とその女を散々可愛がった後家族や友人も全員も弄んでやるから覚悟しとけ!」
下卑た笑いに瑠璃はしかめ面になるが、それよりも先に未蘭が彼女を庇うように立ち塞がった。
「・・・極道?」
「今更ビビったか⁉︎俺たち極道によ!」
そう叫ぶと男は未蘭に背中を向ける。
すると肩甲骨のあたりに掌大の刺青が掘られていることが目に入り、瑠璃は思わず息を飲んだ。
「はははっ!おら、お前らやっちまえ!」
甲高い笑い声を上げながら男がそう叫ぶと、周りの裸の男たちは一斉に飛びかかった。
いや、飛びかかろうとした。
だが、実際は未蘭の入ってきた扉から勢いよく男達が乱入してきて、裸の男達をあっという間に取り押さえてしまった。
ナイフは簡単に蹴飛ばされ、手も足もできないように簡単に投げ飛ばされて組み敷かれる。
ものの数秒で室内に立っているのは未蘭と瑠璃だけになってしまったのだった。
「・・・なあっ⁉︎」
「お前ら。最後に一つだけ教えてやろう」
未蘭が悠々とその中を歩いて行くと取り押さえられたリーダー格の男の前でしゃがんでその髪を乱暴に掴み上げた。
犬歯を剥き出しにして吠える男だったが、未蘭の目を見ると子犬のように震えて黙り込んでしまった。
それだけの眼力、迫力が細身の未蘭から溢れ出していたのだ。
「お前らは自分たちのことを極道と言ったが、それは違う」
「・・・・・ひっ」
眼光だけで殺されてしまいそうなほど冷たく真っ直ぐな瞳からは逃げられることもできず、男は引きつったような悲鳴をあげてしまった。
「本物の極道というのは、俠客。つまり弱いものを助けて強いものを挫く者のことを指すんだよ」
未蘭はゆっくりとポケットに手を突っ込むと小型の拳銃を突きつけて男の眉間に押し当てた。
モデルガンだと言い切るにはあまりにもその重厚は冷たく、押し当てられるだけで重厚感があった。
「お前らみたいな何の役にも立たない害虫をヤクザって言うんだ。ヤク漬けの脳みそが忘れるまで覚えておきな」
そう言うと未蘭は銃のグリップで男の頭を殴りつけ、一撃で相手の意識を刈り取った。
「連れて行け」
「お、おいっ!こんな騒ぎにしたらこのホテルの人間が怒ってないぞ!」
このままでは危険だと察したのか取り押さえられた男達が騒ぐが未蘭も周りの人間も気に留めることなく黙って男達を引きずり始めた。
裸のまま抵抗一つできずに部屋を出された男の前にホテルマンが立っており、一人が勝ち誇ったように大声をあげた。
「おいホテルマン!こいつら急に現れてこんなことされてんだよ!警察を呼べ!」
その騒ぎたてるような声を聞くホテルマンのネームプレートには支配人の文字が書いてあり、男は離せと勝気に叫び続けた。
そんな彼らに対して、支配人と書かれた初老の男性は恭しく頭を下げるのだった。
「未蘭様、お勤めご苦労様です。裏口に準備をしてありますのでどうぞ」
「お前もご苦労だな。・・・部屋が臭くて敵わんから綺麗にしておけ」
「はっ」
明らかにわかる上下関係を目の当たりにして男は驚きに目を見開きながら喚くのも忘れて黙って引きずられて行く。
その集団を見届けてから二人残った瑠璃と未蘭はどちらからともなくため息を吐いた。
「未蘭様、お疲れ様でした」
「・・・・瑠璃もな」
不満げに目を細めた未蘭の視線を感じてから、瑠璃はキョロキョロと周りを見渡した。
そしてクスッと優しく笑うと少しだけ内緒話をするように声を潜めた。
「お疲れ様です、あなた」
「・・・俺が不機嫌なのはそれが理由じゃあない」
そう言いつつも未蘭のまとっていた明らかな不機嫌な態度は小さくなっており、そっと瑠璃が腕を絡めるとさらにその雰囲気は小さくなっていったのだった。
●
瑠璃、旧姓水無瀬瑠璃はいわゆる一般人だった。
父は公務員、母は専業主婦で、今となっては旧時代的ではあるが普通と呼ばれる家庭で育ってきた。
生活に困るほど貧困ではなかったが、毎日のように豪勢な食事や物があったわけでもない。
二週間に一回の家族での外食が楽しみな良くも悪くも平均的な生い立ちだった。
勉強は苦手ではなかったから国立の大学に進むことができるまで、瑠璃の人生はグラフにすれば横一直線だったのだろう。
目立って友人と喧嘩をした記憶もないし、身を焦がすような大恋愛をした記憶もない。
山も谷もない人生で、程よく苦労して程よく幸せ。
そのまま人生が進む物だと思っていた。
夢であった保育士系の教育を受け、人とのコミュニケーションも努力も人並みにはできると自負していた瑠璃はこのまま何でもないところに就職して誰かと結婚して人生を無難に生きる物だと信じて疑わなかった。
主役になる、特殊な生き方をする人間は自分以外にいる物だと思っていた。
そう、大学に通って三年、あの梅雨の日が来るまでは。
その日、瑠璃はサークルの飲み会に顔を出してから一次会で帰ると言ういつも通りの1日を過ごしていた。
言い寄ってくる男はいたし、全てを断っていたわけでもない。
瑠璃の人生と同じように、普通に、過ごしていた。
今日は梅雨でそんな気分でもないからと先に一人家路についたのだが、コンビニを出たところで置いてあった傘が誰かに取られていた。
戻って買おうとも思ったのだが、今出てきたばかりのコンビニにすぐ戻るのはどこか気まずく実行できなかった。
幸い雨足はは強くなかったし、帰ってからお風呂に入ればいいか、と瑠璃は言い訳を作って傘を差さずにまた家に向かって歩き始めた。
繁華街から少し抜けたところで雨が強くなってきて、瑠璃は思わず立ち止まって天を仰いだ。
「はぁ、最悪・・・」
後10分も歩けば家だと言うのにもう髪も服も濡れる所は全て濡れてしまっていた。
街灯がなくて危ないし怖いからと普段は使わない裏道から早く帰ろうと右足を90度曲げて踏み出したのだが、それが瑠璃の人生の分岐点だったと、後々瑠璃は強く思うようになる。
裏道は何の会社かわからないような会社や雑居ビル、古いマンションに囲まれた道で明かりはない。
街灯どころか生活の光すらも届かないような道なのだ。
家賃が安いからと郊外に住んでいた自分を呪いながら諦めて進んでいると、ある民家の塀に背中を預けて蹲る人の姿が見えた。
雨の中傘も差さずにいるその姿は異様であり、たまに高架下などで見かける人間か、と瑠璃は顔を伏せながら歩き続けた。
何もされたことはないが何もありませんように、と願いながらただ濡れて暗い地面を見つめながら歩いて行くのだが、ふと瑠璃はその視界に色が入ってきて思わず足を止めてしまった。
水たまりが反射するのは月明かりだけで、黒とたまに黄色があるだけの世界だったのだが、それに紛れるように黒っぽい赤が目に入ったのだ。
「えっ?」
パシャ、とその赤い水溜りに足を踏み入れた瑠璃は慌てて足を上げるのだが、お気に入りの黒い靴の底から水と一緒にポタポタと赤い滴が垂れていた。
その色が濃い方をゆっくりと視線で追って行くとうずくまっている誰かのところから溢れてきているようで、瑠璃は次の瞬間にはその人物に駆け寄っていた。
「だ、大丈夫ですかっ⁉︎」
どう考えてもその赤の正体は血液であり、ただ事ではないと瑠璃は焦って蹲る人物のすぐそばで膝をついてその様子を確かめた。
うずくまっている人物はスーツ姿であり、肩まであるサラサラであろう髪の毛は雨に濡れてぐしゃぐしゃになっていた。
一体どれくらい雨に打たれていたのか。
ボロボロの姿のスーツ姿からは予測ができなかった。
そしてそんなことより、彼のワイシャツの中心が真っ赤に染まっており、もしかしたら死んでいるのかもしれないと思うほどに底からは止めどなく血液が流れ、もはや固まり出しているようでさえあった。
体温を確かめるために彼の首に手を当てながら声をかけると、うずくまっていた男はぼんやりと焦点の合わない瞳で瑠璃を見上げた。
「・・・・お前・・・・」
「意識はあるんですね!すぐ救急車呼びますから、もう少し頑張ってください!」
ポケットからスマホを取り出そうとする瑠璃の手をうずくまった彼は素早く握って制止した。
「っち、いってぇ・・・・あそこのカバン、とってくれ」
忌々しげに舌打ちをした彼は瑠璃にそう言って道の反対に落ちているカバンを弱々しく指さした。
救急車もいらぬと言う彼の意見に従えるはずもなかったのだが、瑠璃は何故だか有無を言わせぬ迫力を感じて言われた通りに彼の指さしたカバンを取って渡した。
カバンも彼と同じように雨に濡れており、ずっしりと重いのだが、彼はそんなことも気にしていないかのようにカバンの中に手を突っ込んだ。
「あいつ、世話焼きだからあるはず・・・」
声も弱々しいのだが、彼は手早くカバンを漁ると中から黒い包みを取り出して瑠璃に向けた。
「・・・これ、は?」
瑠璃は反射的に受け取るのだがあまりにも見覚えがなくて何かはすぐに理解ができなかった。
いや、正確に言えば見覚えはありすぎたのだ。だが、この場面、この状況で出てくる物ではなくて、理解が追いつかなかったのだ。
「折り畳み、傘?」
だよね、と確かめるように呟いた瑠璃の髪にそっと手を乗っけるようにうずくまった男は手を動かして弱った顔でもしっかりと笑顔を作った。
「女が、雨に濡れるもんじゃねぇ。お前みたいに、いい髪の女は、特にな」
それだけ言うと彼は手をだらりと下げて意識を失ってしまった。
瑠璃はなぜそんな心配をこの生と死の間にいるような男にされるのだろう、と困りながらも放っておくことができずにいるのだった。
●
「い、ってぇ!」
「ひゃぁっ!」
勢いよく起き上がって叫んだ男に、瑠璃は驚いて後ろに倒れながら大声を上げてしまった。
「す、すみません!包帯を変えようと思って・・・!寝てるから大丈夫かな、って」
「・・・包帯?ってか、あんた誰」
男は上半身裸に包帯姿のままで布団に座りながら腕を組んだ。
悩む彼に瑠璃はゆっくりと状況を説明した。
昨晩道に血塗れで倒れていた彼を連れて帰って看病したこと、救急車はなぜか止められたから呼んでいない事。
濡れた服だと体温も下がるし手当てもできないから脱がしたこと、それについてはとりあえず謝った。
すると男は自分の姿を確認するように見回してからなぜだか笑い始めて、少し笑うと傷ついた腹を痛そうに抑えながらも笑い続けた。
「・・・っくく、お前道に血塗れの男がいたからって家に連れ帰るのかよ。絶対トラブルに巻き込まれるって思わないわけ?」
「・・・・・・」
笑われていることに唇を尖らせながらも瑠璃は首を振った。
「そりゃ思いましたけど、悪い人じゃなさそうだったので」
「いや、だから道端で血塗れのやつにいいも悪いもないだろ。関わったらやばいって思うだろ普通」
そうは言われたが瑠璃は納得はできなかった。
普通と言うのは自分のためにあるような言葉であるし、彼の言っていることも間違いではないと理解できる。
でも、あの状況で傘を差し出してくれた人間を助けなくて誰を助けると言うのか、と言うのも瑠璃の素直な気持ちだった。
血塗れな人間を見るのなんて初めてであったし、トラブルに巻き込まれるというのは簡単に想像はできたが、そんなことよりも戸惑ってる暇さえないほどに体が勝手に動いてしまっていたんだ。
目の前の男を死なせてはいけない、と衝動的に。
「まぁ、助けられた俺が言うことじゃないな」
男はそう言うと布団から足を出すとあぐらをかいて深々と頭を下げた。
「すまない。助かった。ちょっと揉めた時に怪我しちまってな。あんたがいなければ死んでいたかもしれん」
ありがとう、と素直に頭を下げたままで言う男に、瑠璃は慌てたように両手をふった。
「いえ、そんな!人として、当然のことをしたまでですし・・・!」
「それでもだ。ありがとう。トラブルはあんたには来ないとは思うが、気を付けろよ。礼は必ずするし護衛もしばらくつける。あんたは気にせず日常を過ごしてくれればいい」
布団の横に丁寧にたたまれた服を手にとりながら話す男の肩をそっと瑠璃は抑えた。
「そんなことよりまだ怪我してるんですから動かないでください!その、帰るにしてもご家族の方とか、えっと」
歯切れが急に悪くなったのを感じて、男は少しだけ申し訳なさそうに笑った。
「あんた、見たんだろう?俺を脱がしたってことはさ」
男はそう言いながらそっと腕を回して自分の背中に手を回した。
それだけの行動で瑠璃は彼が何を言いたいのかがわかってしまう。
彼の看病をする際に脱がした時、背中一面に掘られていた和彫はいやでも目に入ってしまったのだ。
明らかに一般の人間ではないとわかるものであり、瑠璃ももちろん理解していた。
「それは・・・。まぁ。普通にある物じゃ、ないですし」
「だろ?だったら」
「でも、今は関係ないです!怪我の方が心配ですし・・・それに、その、まだ傘も乾いてないし」
瑠璃は何かを思い出したのか少しだけ恥ずかしそうにそう呟くと、男はぽかんと瑠璃を見つめた。
「・・・・あんたさ」
「未蘭様っ‼︎」
男が少し驚いたように何かを言いかけるが、それを遮るように瑠璃の部屋の扉が外から思い切り開かれた。
「・・・・・・・!!」
鍵もドアチェーンもしていたはずだ。
だが、無理やりこじ開けられ瑠璃はもはや驚きも悲鳴も出すのを忘れたように口と両眼を見開いて、入ってきた巨漢を見つめていた。
「ご無事で何よりです!」
「松島。ああ・・・心配かけてすまねぇな。でも、なんでここに?」
「昨晩、未蘭様に命令されたようにずっと車で待っていたのですがあまりにも遅いので様子を見に行ったのです。ちょうどそこの女性が声を掛けている様子でして」
見ていたならすぐさま声を掛けるべき状況だっただろ、と瑠璃は我が家で蚊帳の外になりながら心の中でそう呟いた。
傘をさしながら自分より二回りは大きい男の体を必死に持って帰ったのだから。
「未蘭様のことですから、ご無事ではいらっしゃるでしょうし、何より邪魔してはいけないと思いましたので」
「邪魔?」
「ええ、お怪我されてもなお女性に声を掛けて家に行くとは・・・さすがです、未蘭様!」
恋は盲目とは言うが尊敬するところなのだろうか。
鼻息荒くそう言った松島の頭を未蘭は思い切り叩いた。
「バカか!あんな状況でナンパするわけねえだろうが!」
いて、と腹を押さえながら未蘭は今度こそゆっくりと立ち上がってアイロンをかけたスーツに袖を通した。
「そ、そうでしたか・・・失礼しました。では」
松島が座ったままで瑠璃に向き直ると未蘭と同じようにあぐらをかきながら深く頭を下げた。
「未蘭様を助けていただいてありがとうございました。ですが、我々は貴女とは全く違う世界に生きるもの。どうか、これで記憶を消していただけるといいのですが」
そう言うと松島はサコッシュをそっと瑠璃に手渡した。
瑠璃は言葉の意味がわからずとりあえずサコッシュを受け取るとなかなかに重たく、恐る恐るそのファスナーを開いた。
するとそこには瑠璃が今まで見たこともないような枚数と重量の札束が詰め込まれており、一千万は降らないだろうと言う金額が入っていた。
「なっ!なんですか、これ。こんなの、いただけません!」
「ご安心ください。何か悪いお金ではありませんし、取り立てなどもしません。あくまで迷惑料とお礼だと思ってください」
「いや、そう言うことじゃなくて・・・!」
瑠璃は全く聞く耳の持たない松島に戸惑いながらもサコッシュを押し付ける。
だがまた松島も瑠璃に押し返す。
その攻防が何度か行われたところで、未蘭がそのサコッシュを奪い取った。
「これは渡さなくて良い」
「は、はっ・・・ですが、無関係の、それも女性を巻き込んでしまったのですから、いつも未蘭様が言うように・・・」
「良いんだ」
未蘭はそう言うと座ってパニック状態の瑠璃を見つめてふっと鼻を鳴らした。
「こいつは連れて帰る。面白い女だし、何より最高の女だ」
未蘭はそう言うと勝手に玄関に向かいながら瑠璃を振り返った。
「付いて来てくれ。お礼もそうだが、個人的にお前に興味が湧いた。ここで縁を切るのは嫌なんだ」
「・・・は、はぁ」
気の抜けた返事をしながらも、瑠璃には拐われる、口封じされる、などと言ったマイナスの感情はなかった。
ただあっという間に変わり進んでいく現実に頭がついていっていないだけであったのだ。
「お前、彼氏は?」
「はぁ・・・?いません、けど」
「それはよかった。まあいても奪うだけなんだが」
勝気にいって笑いながら、未蘭は怪我など感じさせない足取りで楽しそうに部屋を後にしていった。
●
「そこからあっという間でしたね」
「敬語」
「あ、ごめん・・・」
ホテルから事務所の屋敷に帰る車の中で二人きりになった瑠璃と未蘭はなんとなく二人の出会いを思い出していた。
「極道だって言うことも、一番上の人なんだなって言うのもわかってたけど。まさかいきなり嫁に来いなんて言われるとは思わなかったよ」
「そうか?」
未蘭は高級車の後部座席で瑠璃に肩を回しながら意外そうに声を高くした。
「人を思いやる優しい気持ちと、俺の刺青や状況を見てもびびらない度胸は珍しかったしな」
「・・・ふふ、それがもう二年前かぁ」
「その女が『組の縄張りで好き勝手している奴らを駆除しましょう』と言い出すとはな。しかもこんな囮になるような策を言ってきたときは流石に俺もびびったぞ」
屋敷のガレージに停まった車の中で、未蘭は運転手を先に下ろして二人きりになった瑠璃を見つめながら笑った。
「思った以上にいい女で俺も驚いてるよ」
「ふふ、そんな、恥ずかしいよ」
頭を撫でられると瑠璃は照れ臭そうに赤くなって顔を背けるのだが、未蘭は瑠璃の顎を捕まえて自分以外を見られない様に固定した。
「無事あいつらも処分できたし言うことなし。と言いたいところだが」
「・・・えっ?」
「囮につかったのは俺の大切な女だ。それを理解しているか?」
「・・・・ごめんなさい」
瑠璃も主人となった未蘭のために何かしたいと焦っていたことは否めない。
だから素直に謝ったのだが未蘭は顎を掴む力を緩めてはくれなかった。
「謝ってもあんな野郎に触られた事実は消えない」
「・・・・」
「軽々しく俺以外の男に触られてんじゃねぇ。これは、俺のものだろ?」
「・・・・あ、はい・・・っ」
ぎゅっと目を閉じた瑠璃は未蘭の顔が近づいている事実を認識するだけで抗うことの出来ない羞恥と鼓動の高鳴りに襲われてしまう。
「だったら、これからまたずっと教え込んでやるからな」
瑠璃は耳元で囁いてきた未蘭の声に浮かされながら、今が人生で一番幸福で、選択は間違っていなかったのだと、彼の腕の中で実感するのだった。