EP.2
短針が十二を回る少し前。
「ガラッーーッ。」
乱雑にドアが開いた。
ノックもなしに患者の病室に入る彼女は、きっと僕を患者とは思ってないんだろう。
「ねえ。相澤さんに先越されたんだけど。」
勝手に入って来て早々、彼女は愚痴をこぼした。
そして、僕と目を合わせ、思い出したように病室のドアを、
綺麗な青空のような笑みをして二回ノックした。
「もう、入ったよ!!」
特に悪びれる様子もなしに、僕の中の大きな存在は、
今日も僕の空間にすんなりと溶け込んだ。
僕は言葉を記し、彼女へ見せた。
「ほんとに他の患者さんにはやっちゃだめだよ?」
「そんなことわかってるよ!でも、なんか来輝ならいいかなって
思っちゃうんだよね。ほら、仕方ないことでしょ?」
なにが仕方ないのか。少し疑問が残る。
「一応、僕も患者の一人なんですけど。」
「え?知ってるけど?急にどうしたの?」
当然のことのような素振りをして、彼女は首を傾げた。
すると急に、彼女は上を見て、「あ!!」とわかりやすく何かを思い出した。
「来輝にお昼届けるために来たってこと忘れるとこだった!
持ってくるから待ってて!」
そう言って、彼女は距離にして十歩ほどの配膳カートから
僕のお昼ご飯を持ってきた。
「じゃ、またお昼過ぎぐらいに来るから。またあとでー。」
口をすぼませ、手の可動域を侮辱するほど小さな範囲で手を振り、
病室を後にした。
ご飯を届けるためだけに来てもらえることは、素直にうれしい。
それでも、なんだろう。不思議だ。
僕は目線をベッドテーブルに置かれた、お盆へうつした。
たったこの距離の配達の中で、
変に密閉されているはずの味噌汁が零れるという
不可解なことに頭を悩まされたのだ。
そんな天然とよべるかわからない優しさのある雑味は、
今思えばあの時から発揮していたのかもしれない。
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僕が彼女と出会ったのは、四年前の四月のこと。
僕が高校を普通に卒業して、大学に入学するはずだった頃。
あの頃の僕は、様々なことに嫌気がさして、誰に対しても、
自分を出すことができなくなっていた。
そんな時、彼女は相澤さんに連れられ、
暗くよどんだ空気がはびこるこの空間に入ってきた。
二人が一歩進むごとに僕は、眉を寄せ、目を細め、視線をそらした。
「来輝くん。今回は検査じゃなくて紹介だから、少し話聞いてくれる?」
相澤さんは横にいる見知らぬ看護師の肩に手を置き、一歩前に進ませた。
彼女は、指先までも大きく震わせ、落ち着かない呼吸の中、僕に一声かけた。
「は、はじめまして。弓野真乃と言います。
きょ、今日から看護師としてお世話になります。よ、よろしくお願いします。」
僕は、自己紹介する彼女を拒否するように、そらした視線を右下に向け、
その声を無視した。
誰もこんな態度の患者の元へ行きたいとは思わないだろう。
そんな最悪な歓迎を受けた彼女は、
看護師としてそれからも、仕方なくだろうけど、僕の空間へ向かってきた。
僕から褒められる部分があるとすれば、こんな空間に来る勇気だけ。
それ以外は何もかもが最悪だった。
彼女は、病室に入る時、何故だかノックをしない。
決まってノックをするのは、部屋に完全に入ってからのことだ。
それに加え、血圧はうまく締め付けて測れない。
採血の針は、何度も血管を退け、僕の腕には小さな穴がいくつも空いていた。
「ほんとにすいません。次は一回でーー。」
失敗したと思えば、慌てて、また失敗する。
毎度、謝罪を受け、次回の目標は何度も破られた。
「来輝くん。ごめんね。弓野さんまだ入りたてだしさ。
同い年だし仲良くしてあげてよ。色々辛い時期なのはわかるけど。」
相澤さんは、彼女をフォローしていた。
それでも、我慢はできなかった。
イライラなんて言葉では、言い表せられないほどに、
表情は厳しく、彼女を敬遠した。
そんな状態だった僕が、彼女を受け入れるきっかけは、
僕にとってとても大きく、彼女にとってはとても些細なことからだった。
あれは、雨天が続き、久しぶりに快晴となった日のことだった。
ドアが二回ノックされ、看護師が入ってきた。
僕はてっきり相澤さんだと思い、包まっていたベッドから起き上がった。
視線の先に相澤さんはいなく、代わりに彼女がいた。
彼女は、晴天にたたずむ真っ白な雲のように、とても綺麗に泣いていた。
涙をぬぐうことも、手で目元を隠すこともなく、
ただありのままの自分を僕の空間に証明させた。
自分を出せていなかった僕でも、彼女の涙姿から何故だか一瞬たりとも、
目を離せなくなった。
「おは、よ――ご――す。」
途中途中聞こえはしなかったが、きっと挨拶をしたんだと思う。
涙姿のままの状態で、まっすぐ前を向き、ゆっくりカートを押す。
そして、心の枯れたその抜け殻を僕の左側に置いた。
珍しく僕が彼女の方を見ていたからなのか、少し俯いた。
声をかけることができない僕は、彼女の表情から目を背け、
空間が静まることを願いって、窓の奥を眺めた。
一定の間隔、変動のない長針の響きが淡々とその歩みをとめることなく、
十二の数に触れた時、空間の淡い青がゆっくりと薄く、青白磁を思わせた。
その時、彼女は声を出し、晴れやかに笑った。
背中で感じたその状況に、僕は大きく息を呑んだ。
彼女の状況が気になり、体制を変え、視線を向ける。
驚いた。
涙を流したという事実さえもかき消すように、
心の底からの笑みを浮かべていたんだ。
すぐに頭の中は――弓野真乃――という存在で溢れた。
声が出ないこと、足が動かないことなんて、
まるで最初からなかったことのように。
ふと口を開けば、――弓野真乃――に届くと思わせるほど、存在感は強烈だった。
彼女は涙を手の甲で拭い、僕に一声掛ける。
「急に色々ごめんなさい。辛くてどうしようもない時ほど、
思いっきり笑えって、何かに書いてあったの思い出しちゃって。」
今までにはなかった表情、声色で話していた。
「あ、いえ、大丈夫です。」
僕は、はっきりと口を動かした。
悲しくも懐かしさを覚えてしまう。自分の声が聞こえない不思議を。
僕は咄嗟に自分の現状に目を向けた。
残酷なことではない。十年も前からの承知の事実。
僕は急に口を動かし話そうとする患者に困惑した表情の彼女を横目に、
メモ帳に手を伸ばした。
「大丈夫です。気にしていません。」
彼女は軽く頭を下げ、安心した表情をして採血の準備を始めた。
「失敗ばかりしてしまっていて、ほんとにすいません。」
彼女はなぜか笑顔で謝罪をしたる。
いつもなら無視をしていたであろう場面。
今日の僕は素直に首を横に振る。
「今日は一回で成功させます!」
一呼吸おいて、気合十分に意気込んだ彼女に僕は左腕をすんなりと預けた。
気が付けば、彼女に溜まっていたストレスは綺麗に消えて、
腕には一つの小さな穴から滲む血と絆創膏が目にうつった。
「今日は本当に一発でしたね。」
「いっぱい練習してきました。」
僕は久しぶりに笑った。
彼女ほどではないが、綺麗に笑った。
採血も無事に終え、立ち去ろうとする彼女を、机を二回小さく叩いて、僕は引き止めた。
「今度でもいいので、少し話してもらえませんか。」
「急にどうしたんですか?反抗期終わりですか?」
彼女はきょとんとした表情でストレートにぶつけてきた。
僕は急に恥ずかしさがこみ上げる。
「別に反抗期ではないです。」
「あ。ごめんなさい。冗談ですよ。反抗期でないことぐらい知ってます。
今まで話されてなかったので、心境の変化でもあったのかと思って。」
「いや、――。」
この先が思いつかなかった。
違う。心境の変化を正直に言えなかっただけだ。
「んー。他にも患者さんいるので、あまり長くは話せないですよ。
でも、私も色々話聞いてもらいたいかも。愚痴とか――。」
彼女は笑顔で言った。
「時間決めません?ここにきて検査とかしてから何分みたいな感じで。」
彼女に提案されたとき、一つの雲が窓枠にかかり、全体像をすぐに見せた。
それまで何気なく見ていた雲が僕に問いかけているように感じた。
「一つの雲を決めて、その雲がこの窓を横断するまで。とかはどうですか。」
彼女は手で口元を隠し笑った。
「いいですよ。結構メルヘンなんですね。」
僕らの未来はこの時この瞬間に生まれた。