EP.1
  
 突然の出来事から十年が過ぎた。

 

 突然起こった吐血や、声が出ないことは、
 何事もなかったように今を過ごしている。
 


 中学に上がり、将来を考え始め、高校受験。
 目標が明確になり、大学へ進学。
 気の合う友達に囲まれながら、人生を謳歌する。
 この年齢だから、この時期にしかできないことをして。
 
 「中学生の時とかはさ。全然意識してなかったけど、こう、なんていうかな。
  目指すものの為に大学に進学してみると、見えるもんもあんだな。」
 
 なんて、しっかりと年齢を感じざるを得ない会話で盛り上がる。

 男四人でシェアハウスをしたり、友達のバイト先に行き、茶化してみたり。


 そんなことをして、今を適当に過ごしてる。


 


 そのはずだった。




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 僕はこのベッドから動くことができない。

 あの日から終わりの見えない入院生活が始まり、僕の将来像を易々と壊していた。

 さらにあの時、原因不明の発生障害に加え、足の自由も失っていた。

 原因の追究、病状の回復の為に何度も検査を行い、その度、結果を聞いた。



 「体は健康そのもの。異常はない。」



 十年の入院生活の中で、大きな進展は何一つとしてない。

 変わり映えのない空間に、変わることのない検査結果。

 溜息すら出てこなくなっていた。

 

 きっとここで僕は、一生を終える。

 悲しくも僕はそう確信していた。



 

 2021年 2月4日

 目覚ましをかけずとも午前六時には目が覚める。

 手で足を持ち上げ、ベッドの外へ放り出す。

 ベッド左の車椅子に上手いこと乗り移り、トイレ、洗面の順序で体を運ぶ。

 朝食の時間は午前七時半。

 それまでは横になるか、携帯を眺めて過ごす。

 七時半が近づくと夜勤帯の看護師は、決まって僕の元へ朝食を届けてくれる。


 「来輝君。お待たせ。しっかり食べてね。」

 「ありがとうございます。お気をつけて。」


 届けられた朝食を見て、お腹は素直な感情を向けた。
 
 空腹を知らせる自己中心的な胃袋に、朝食を入れる。
 
 食器が空になるとともに満足げに静まり返る胃袋に、
 いつも少しの怒りを覚えていた。


 
 時刻は午前九時を回り、看護師は患者の元へ回診に出始める。
 それはもちろん僕の病室も例外ではない。

 検査のための器具を乗せたカートを手にした看護師は、僕の病室の前で足を止め、
 部屋のドアを二回ノックした。
 
 横開きのドアがゆっくりと開く。
 
 病室へと先行したカートと挨拶を交わし、続いた看護師とも同じく交わした。

 
 「来輝さんおはようねー。血圧測りに来ましたー。」

 
 朝の気だるさが少し残る表情の挨拶に、僕は軽い会釈で答えた。


 看護師の名は――相澤由美――。


 この大学病院で勤続二十年以上のベテランの看護師だ。

 ただ、男が病院に求めるような美人看護師とは違い、
 キリっとした顔立ちで大人の風格が漂う人だった。

 相澤さんは、カートをベッドの左側に止め、すぐに測定の準備を始めた。
 
 「来輝さん。お熱測りました?」
 
 僕は首を縦に振り、相澤さんから記録用紙をもらって、自分で体温を記録した。

 「36.5部ね。うん。OK。」

 「じゃあ、来輝さん。左腕出してください。」
 
 僕は左腕を預けた。
 
 血圧計を装着し、ポンプで圧を加える。

 ものの数秒で測定は完了し、データを紙に書き記す。
 
 「うん。いつもと変化なしだね。どう?体調に変化ある?」
 
 首を横に振り、変わらないとアピールをした。
 
 「そう。なら良かった。」
 
 一点を見つめ、低い声に真面目な顔つきで言う。
 

 僕は相澤さんに、少し苦手な印象を持っていた。
 
 
 真剣な表情や行動が、少し怖いと思っていたから。
 
 
 でも、もし、声を出して会話ができれば、
 相澤さんを怖がることはなかったのかもしれない。


 僕が誰かと会話をする方法は二つ。
 首を使って返事をするか、ベッドテーブルに備えられたメモ帳に言葉を記すこと。

 
 人は、相手の声色や表情といったものを判断材料として相手を知る。
 でも、僕は表情でしか相手に自分を見せることができない。

 文字にどれだけの感情を乗せたとしても、相手から見ればそれはただの文字でしかない。

 文字と言葉の訴え方はまるで違う。印象が違う。


 だからか、僕は人を知ることも僕を出すことも苦手になった。

 
 

「じゃあ、来輝さん。またお昼に来ますねー。」 

 相澤さんが部屋から立ち去るのをしっかりと確認してから、僕は布団に蹲った。

 先月、新調したタオルケットの柔らかさが僕を包み込んでくれる気がしたからだ。

 


 
 ベッド正面に取り付けられた時計の短針が十一をほんの少し回り、
 一定の間隔で薄く響く音が、昼時を少しずつ知らせようとしていた。
 

 

 眠りについてしまった僕は、時計を確認して、慌てて携帯を手にした。
 
 そして、雲めがけてカメラを向け、三十秒ほどの動画を撮る。
 
 次に、SNSで「今日の雲」というハッシュタグをつけて投稿する。
 
 今日は少し遅刻してしまったが、いつからか、僕にはこの日課ができていた。
 

 フォロワーは数名だったが、週に一度の間隔で同じ人から
 コメントが寄せられている。

 
 
 投稿してから数分が経ち、「ピロンッ」とSNSの通知音が鳴る。

 画面に目を配ると、今日も同じ人からのコメントが届いていた。
 


 「風が強いですね。」
 


 コメントを送ってくれているのは、――私――というユーザーネームの人。
 
 「今日の雲はほんとに早いですね。」
 
 布団に蹲りながら、文字を打ち、返事を待った。
 
 「翼があればどこへでも飛んでいけるのに。」
 
 話題の転換に少し戸惑いつつも、返信する。
 
 「鳥になりたいってことですか?」
 
 「いや、そういうことではないです。」
 
 「でも、僕も翼が欲しいです。雲に直接伝えたいことがあるから。」
 
 次は、僕が変なことを言ってしまった。
 
 「どういう意味です?」
 
 「説明しづらいけど、感謝してるんです。雲に。変な話だけど。」
 
 
 それから、五分が経ち。十分経ち。三十分が過ぎた。
 
 私さんからの返信は来なかった。

 きっと、変人だと思われたに違いない。
 
 でも、雲に感謝しているというのは、本当のことだ。

 
 

 十年という月日はとても長いもの。
 
 あの頃、一緒に通学し、気の合っていた弘樹でさえ、連絡先は知らない。
 
 連絡が来たことも、見舞いに来てくれたこともない。
 今何をしているかなんて、当時の弘樹を思い出し、将来像を想像することでしか、 僕にはわかりうることはできない。
 
 自動的に中学生に上がったところで友達ができるわけでもなく、千羽鶴を一度だけ、担任が届けに来たぐらい。

 中学時代の記憶は、それしかない。

 
 そして、高校、大学と進学はできずに、何もないまま僕はここにいた。

 SNSはやってる意味がないほど、僕の友達リストは僕に現実を知らせていた。
 


 


 そんな状況の中、僕の前に現れた一人の看護師。
 
 

 その人との接点は窓に現れた一つの雲からだった。