Side朔夜
電車から降りた時、冷えた空気で目が覚めた。
この料理を出している店はすでに調べた。
この時間なら、急げばギリギリ間に合うはず。
あとはそこに行って情報を聞き出す。
どんな手を使ってでも。
従業員を懐柔させるくらい、僕にはそう難しいことではない。
少なくとも以前は……今では言葉にするのも躊躇われるような、酷いことをしてきた。
目的のために、頭が軽そうな女に近寄り、仕事でもらう台本で身につけた「甘いセリフ」を囁き、ベッドで鳴かせる。
そうして女たちから情報を聞き出す。
そう言うことを平気でできた。
その時は「愛しい」という感情を知らなかったから。
あの時と同じことができるかと聞かれれば、できるはずがない。
愛する人という極上の肌の味を覚えてしまったから。
だからできるのはせいぜい声と演技で誘導するくらいになるだろうが……そこは、エチュードの応用と考えればいい。
そして、出口に通じる階段を探そうと周囲を見渡す。
すると……
「凪波……?」
反対側のホームのベンチに座っている女がいる。
俯いているから顔がはっきり見えるわけではない。
でも、僕には分かるんだ。
僕は駆け出した。
もしこうしている間に、また凪波が消えていたらどうしよう。
不安で心臓が張り裂けそうだ。
走れ!走れ!走れ!!
どうか間に合ってくれ……!
「見つけたよ……」
ねえ、凪波?
僕がどんな思いでそう言ったと思う?
ねえ、凪波?
「あ、あの……初めまして……ですよね……?」
そう言われて、僕がどう思ったと思う?
いっそ君を殺して僕も一緒に死んでしまえたらとさえ、思ったよ。
でも今、1番にしなくてはいけないのは……。
「てめえ!凪波に何しやがるんだ!」
凪波を奪おうとしている虫けらを、どうやって退治しようか……。
Side朝陽
こいつ……なんて言った?
「僕は一路朔夜」
「凪波のフィアンセだ」
だと?
その名前と声はアニメが好きな人間であれば1度は聞いたことはある。
どのアニメの出演キャストを見ても、必ず名前が載っているほどの超人気声優。
最近では朝のニュースのゲストに出ているのを見かけた。
なんでもない
「おはよう」
「おやすみ」
「犬も歩けば棒に当たる」
など普通のセリフやことわざを、次々と出演者である女性のお笑い芸人の耳元でささやいて
「さっ、朔夜様〜」
「あっ、ありがとうございますぅ……」
「跪きたいです〜!」
など、女性陣全員の腰をくだけさせていた。
その様子は。Twitterで爆笑と賞賛の嵐だったのは、俺も見た。
自分には、例え欲しかったとしても……死んでもできない芸当だな……と思ったのはつい最近。
なんでそんなやつが……。
ー私には、夢があるー
高校生の頃に聞いた、凪波の言葉。
あの時期の凪波は、アニメやラジオ、ゲームの話で藤岡とよく盛り上がっていた。
受け……とか攻め……とか?
リバ……とかカップリング……とか?
そう言う、意味不明な言葉を早口でよく話していたこともあった。
「何の話してるんだ?」
と割り込もうとしたら、
「男は入ってくるな!」
と、二人同時に拒否されたので、それ以上深く突っ込むことはなかったが……。
そういえば、あの時期、凪波は演劇部に入っていたな……。
もしかして……凪波の夢っていうのは……。
「凪波、お前の夢って……役者になることだったのか?」
凪波は、そのまま頷く。
やっぱりか……。
「……だから私は東京に行きたくて、ここに来たはず……だったんだけど……」
凪波が顔を上げる。
一路朔夜の顔を見ている。
どんな表情をして奴を見ているのか、俺からは見えない。
「あの……もしかして、声優さんですか?」
凪波が聞く。
一路朔夜の表情が酷く歪む。苦しそうに。
「どうして、そんな事を聞くの?」
「……声がとても綺麗で……滑舌もはっきりしてて……ちゃんと訓練受けてそう……」
凪波の回答は、一路朔夜にとって、想定外だったのだろう。
「……それだけ?ねえ、凪波?」
一路朔夜はまた一歩、静かに凪波と俺に近づいてくる。
俺は、凪波を抱えたまま、一歩後ずさる。
「こいつは、あんたのこと、知らねえんだよ。わかったら、とっとと帰れ」
俺が吠えるように言う。
「他の男に盗られるのを、僕が黙ってるはずないでしょう?」
と一路朔夜が言いながら、凪波の左手をつかむ。
「凪波。どうして君が僕のことを知らないと言うのかは、あとでじっくり聞く。でも……」
一路朔夜はそう言ったと思うと、凪波の指から、俺が贈った指輪を抜いた。
「こんな指輪、君には似合わないよ」
そう言うと、一路朔夜がホームに指輪を投げ捨てる。
「てめえ……!!黙って聞いてれば!!!!」
俺の我慢は限界を迎えた。
俺は、凪波の体を離した。
凪波はその場でしゃがみこんでしまった。
俺は、握り拳を作り、そして……
「ふざけんなよ!!!!」
あんたが凪波の子供の父親だなんて、許さねえ!!!
Side朔夜
僕が凪波の指輪を抜いて捨てる。
からんっという小さな音が、妙に響く。
その時の凪波の表情を、僕は一生忘れることはできないだろう。
ねえ、凪波。
僕の指輪はあっさり置いていったのに。
他の男が君に押し付けたような指輪が無くなるのはそんなに嫌なの?
どうして、そんな泣きそうな顔をするの?
凪波は、力が抜けたようにしゃがんでしまう。
こんな凪波は、1度だけ見たことがある。
声優のマネージャーとして働いていた時に、俺への恋人に関する誹謗中傷を対応していた時。
「大丈夫?」
そう言って手を差し伸べようとした時。
「ふざけんなよ!!!!」
海原朝陽が僕に殴りかかろうとしている。
そう、そっちがその気なら……。
ちらりと凪波にもう1度視線をやる。
やめて。
そう言いたげな唇。
ごめんね凪波。
今ここで引いてしまったら、君がもう2度と手に入らない気がするんだ。
だから、一発この男を黙らせてやりたい。
そんな時だった。
「あの〜……」
あまりに場の空気にそぐわない声。
振り返ると、駅員が立っていた。
「すみません〜もう、ホーム閉めちゃいますんで〜」
時計を見ると、確かに終電が終わっていた。
予定外の乱入者に空気をかき乱され、場の空気が微妙なものに変わった。
僕は、さっと笑顔に切り替えて
「すみません、すぐ出ますね」
と答える。
「お願いします〜」
と駅員は、ホームの見回りを再開した。
「くそっ!!!」
海原朝陽が大声をあげ、地面を1回強く踏む。
駅員が「何事か」ともう1度こちらを見たが、僕が「大丈夫です」と伝えるジェスチャーをすると、一瞬首をかしげたが足早に歩き出した。
海原朝陽は、大きく深呼吸をすると
「一路さん、もう少し、顔を貸してもらおうか」
そう言うと、海原朝陽はホームにいつの間にかホームに転がっていた凪波の荷物を拾い上げる。
「ついてこい」
その命令口調に、僕も苛立ちはしたが
「望むところだ」
何を言われても。
僕が凪波を連れて東京に帰るというシナリオは決して曲げない。
その事実を、この男に叩きつけなくては。
凪波の方を見る。
ちょうど、何かを拾い上げていて、大事に手の中にしまっていた。
……それは、今僕が君から排除したはずのもの。
ねえ凪波。
そんなに、その指輪を見つけて安心したの?
どうして、そんな顔をするの?
僕の指輪を外した薬指に、そんな指輪を嬉しそうにはめないで。
next memory....
Side朔夜
僕達は、そのまま駅に併設された駐車場まで連れて行かれた。
そこには、以前仕事でナレーション録りした、世界的有名がメーカーが出している高級車があった。
凪波は何も指示されずとも、自然と助手席に乗りこんでいた。
そして僕はというと、海原にドアを開けられて「乗れ」と後部座席に乱暴に押し込まれた。
車のシートは皮でできていて、人間工学が存分に使われていると言えるほど、座り心地は、よかった。
話の続きは、海原の家で……ということになった。
予約していたホテルはキャンセルした。
海原が運転席に座ると同時に凪波にスマホを渡す。
「もう、使い方覚えたか?」
「たぶん……」
……使い方を覚えた?
……どういうことだ。
凪波は、確かにスマホは使っていた。
何故なら僕が買い与えたから。
「あ、お母さん……私……うん……」
凪波が話し始めた。
「今日、帰れないかも……そう……朝陽と一緒……うん……え?だからそうじゃないって!なんでそう言う言い方するの!?
凪波の声のトーンに怒りが混じっている。
「わかった!わかったから!切るから!」
電話を切る凪波の表情は、とてもうんざりをした様子だった。
僕が知っている凪波は、こんな風に、負の感情を表に出すことはなかった。
実家と折り合いが悪いから家を出た……という話は聞いたことは、あったと思う。
でも、実際の親がいない僕には、その意味をきっと正確には理解できていなかった。
そういうものなのか……と思ったくらいだった。
ふう……と凪波が大きくため息をついた。
「おばさん、なんだって?」
海原が聞く。
「……あー……なんでもない。朝陽の家に泊まることはOKもらった」
凪波が答える。
「ん、わかった」
海原はそう言うと、アクセルを踏んだ。
凪波は、窓の外を眺め始める。
僕とは、1度も目を合わせはしなかった。
ラジオの音だけが、空間に広がっていく。
車に揺られながら、僕はさまざまな違和感について再び考える。
仮説は……できた。
この後、海原の家で問いただす。
こいつが何か関係しているのだと、僕の第六感が言う。
凪波の方をちらと見る。
凪波は、僕の方を見ようとしない。
窓の外を無感情に眺めている。
こんな目をした凪波は、たまに見たことがあった。
遠くに言ってしまうのではないか……と怖くなった僕は、そう言う時凪波を強く抱きしめた。
「どうしたの?」
凪波が訪ねて
「君が消えそうだと思ったよ」
そう僕が答える。
「消えないよ。おばけじゃないんだから」
と凪波が笑う。
そんなやり取りは何度となく繰り返された。
でも、結局君は僕の前から1度は消えた。
つまり、その時の僕の予感は、当たってしまっていたんだ……。
今は凪波を抱きしめられる位置に座れない。
じっと凪波を見つめるだけ。
この地に来て最初に探していた君に会うことができたんだ。
これはもう、僕と凪波が再会することが、神ですらも応援している……ということだよね。
ただ……思いもよらずに核心……海原朝陽とも接触してしまったのは少々想定外ではあったが……でも、好都合でもある。
さっさと話を終わらせて、凪波を連れて東京に帰らなければ……。
凪波の薬指の指輪を、早く交換してしまいたい。
車は、まだ走っている。
その時、僕が先日出した曲が、ラジオから流れた。
凪波はその声を聞いたとき、僕の方を初めて振り返る。
驚いた表情で。
ねえ凪波。知ってる?
この曲は、僕が自分で作詞をしたんだ。
君への想いをこめた、君へのプレゼントにするはずだった曲。
ランキングで、初めて1位を取ることができたんだよ。
でも、そのランキングが発表された時、君はもう、僕のそばにはいなかったんだ。
ねえ凪波。今、この曲を聞いてどう思った?
それとも、この曲を聞いても僕のことをわかってくれないほど……。
君は僕のことを忘れてしまったというの?
そんなの、許さない。
車は、まだ進んでいる。
Side凪波
今、後ろにいるイケメンは、私の世界にはいたことがないはずだ。
だから、名前を呼ばれても、探したと言われても……まして帰ろうと言われても、ちっともピンっとこない。
そういえば、実鳥とこの間……高校時代に一緒に書いたBL話の攻めキャラが、確かこの人のように、ツヤサラな髪に、透き通った……でも決して弱さを感じさせない肌、明らかに整った目鼻立ち。細身だけどバランスが良い身体、そして……1度聞けば忘れない程、脳内に届く「声」。
そんな人は、二次元にしか存在しない住人だ。決して同じ世界線にいてはならない……。
というより、一緒の世界線にいたくないくらいには、自分の容姿が明らかに劣っているくらいの自覚くらいは、ある。
彼の言う「凪波」は本当に私の事なんだろうか。
いっそ別人だった、と言われる方が、よっぽどリアルだ。
この車の助手席に乗るのは、ようやく両手で数え切れる程。
高校の教室で隣の席になるのとは、訳が違う。
この場所に座る時、私は朝陽を「大人の男性」であることを改めて知る。
それがとても不思議で、ほんの少し居心地が悪い。
運転席に乗り込んできた朝陽は、慣れた様子で座席を整え、ミラーを合わせる。
そのスマートな所作は、私の記憶の中にある「悪ガキ朝陽」とは被らない。
いたずらが好きで、何かあるたびに人にちょっかいを出す、声変わりも中途半端だった時期の朝陽。はにかんだ笑顔は弟みたいに思った事があるくらい、あどけなかった。
それが一瞬で「別物」に変わってしまった。
私は置いていかれてしまった。
「凪波」
朝陽がスマートフォンを渡してくる。
こんな高価そうなものを投げるように渡さないで欲しい。
液晶を割ってしまったらどうしようとか考えないのだろうか。
「もう、使い方覚えたか?」
「たぶん……」
実鳥にも使い方を教えてもらったので、電話をかけるくらいはどうにか覚えた。
液晶で文字を入力するのは、まだ感覚としては慣れない。
すでに私の家の番号は登録されていた。0番と、数字が振られている。
以前、実鳥にその話をすると「あのヘタレ……」と腹を抱えて笑っていた。
どう言う意味なのか聞こうとしたら「ヘタレに聞いて」と言われた。
なので、朝陽にも聞いてみたところ
「……特に意味なんてねえよ」
とぶっきらぼうに言われたので、この話は終わってしまった。
……結局まだ、0番の意味を理解できていない。
私は、1回小さく深呼吸をし、呼吸を整えてから通話ボタンを押す。
「あ、お母さん……私……」
「凪波?」
「うん……」
「あんた!一体どこをほっつき歩いてるの!」
「今日、帰れないかも……」
「あんた、実鳥ちゃんと一緒だったんじゃ……。もしかして、今朝陽くんと一緒?」
「うん……」
「あんた、子供つくるようなこと、すんじゃないよ」
「え?」
「朝陽くんとお泊まりって、そういうことでしょ?本当にやめてよね、結婚式の前に子供できましたなんて、ご近所さんにどう言い訳すればいいのよ」
「だからそうじゃないって!なんでそう言う言い方するの!」
「そういうことは、結婚初夜まで取っておきなさい!良いわね」
「わかった!わかったから!切るから!」
ぷつりと自分から会話を強制終了させた。
「おばさん、なんだって?」
朝陽が心配そうに聞いてきた。
「……あー……なんでもない。朝陽の家に泊まることはOKもらった」
「ん、わかった」
疲れた……。
理由はわからないけど、私が知っている母は、私が外泊をすることとセックスをするを繋げるような人では決してなかった。
まあ……家では一切そう言う様子を見せたことがなかった……というのもあり、むしろ「朝陽くんとお付き合いしてみるのもいいんじゃないの?」と薦めることすらあったほどだ。
この母の過干渉から逃れるために、黙って東京行きを決意したはずだ。
なのに、気がつけばまたここにいる。
記憶を無くす前の私は、何を考えていたんだろう?
自分であの牢獄のような人生に戻りたいと考えたの?
あんな、締め付けられる窮屈さに帰りたいと本当に思ったの?
窓を見ると、私の顔立ちは記憶にある自分の顔と確かに違う。
自分のようで自分ではない。
自分はもう少し頬がぷっくりしていて、それがコンプレックスだった。
それが、今はどうだろう。骨張っているようにすら見える。
これは誰?
母は、本当に私と話をしているの?
実は母も、私ではない誰かと私を重ねているのではないか?
窓越しに朝陽の横顔を見てみる。どうしてだろう、ひどく険しい顔。
かつて、こんな表情をした朝陽を見たことがあっただろうか。
「てめえ!」
あんな風に声を荒げる朝陽なんか、見たことあっただろうか。
子供の頃は、ただのいたずら好きなやんちゃ坊主くらいにしか思っていなかった。
高校のころは、変な風に絡んでくるので、正直鬱陶しいくらいにしか思っていなかった。
実鳥からは「あいつああ見えてモテるんだよ、幼なじみとして悔しくないの」と聞かれても「物好きもいるもんだ」くらいにしか思ってなかった。
でも、まるでタイムスリップしたかのような自分には……ずっと優しかった。
ああ、大人の男性なんだなと。
自分の心が、やはり高校時代に取り残されている。
だから……今後ろにいる人が「自分のことを探してきた」という話は、漫画の中の出来事……それこそファンタジーの一幕くらいにしか思えない。
正直いえば、この顔の登場人物をモデルに、BL小説でも書いたらコミケで売れるんじゃないか……なんてことを、今このタイミングで心の片隅で考えてしまっているのは、自分がこの物語の主人公だと思えないからなのだろう。
この二人は「凪波」という人物を奪うために争っている登場人物で
私はそれを客観的に見ているゲームのプレイヤーで、恋愛を疑似体験している。
そう考える方がよっぽど楽だ。
そう考える、恋愛要素が皆無の私の方が、リアルなのだ。
こんな人が自分を迎えに来るだなんて……別人じゃないのかと思った。
同じ名前の同じような顔の別の人を探しているのかもしれない。
でも……。
突然、ラジオから流れてくる曲が変わった。
聞いただけでわかる。
この声は……。
振り返り、後部座席を見る。
目が合う。
暗いので、どんな表情をしているか分からない。
「……どうしたの?」
そう囁く彼の声と、ラジオから聞こえてくる声は、間違いなく同じだ。
この人は、声の仕事をしている。
私が、憧れてやまない仕事の人。
それも……ラジオでリクエストされるような歌を歌っている人。
……そんな人が、どうしてこんなところにいるの……?
どうして、私なんかを探しにきたの……?
どうして、私なんかにキスをしたの?
私は、会釈だけして、また前を見る。
【海原りんご園】と書かれた看板が見えてきた。
それからすぐ、車は大きく左折する。
大きな道路から細い山道に入る。
砂利道のせいで、小刻みに車が揺れる。
間も無く、車が止まる。
ラジオは、すでに違う曲が流れていた。
私は、先ほどのキスを思い出して、体が熱くなるのが恥ずかしかった。
Side朝陽
よりによって自分の家に連れて行こうとしてしまったのか……。
公園とか……いっそのこと、山でもよかったではないか。
でも、この男には、聞きたいことが山ほどあった。
それを全て聞き出すには、多くの時間がかかる。
そんな長い間、凪波もいるのに外というのはさすがにいただけない。
百歩譲って、自分が、ちょっと一路朔夜という声優のファンだったから……とか、そういうことでは、断じてない。
先ほどの凪波の電話の様子は、気になった。
また、おばさんから嫌なことを言われたのだろう。
次会った時、多少の小言は覚悟する必要はあるだろう。
見慣れた看板が見えた。
もうすぐ左折したら、凸凹の一本道。運転を間違えると田んぼにタイヤが取られてしまう・
ここから先は、集中しなくてはいけない。
例え、今この車の中の空気が、自分にとって都合が悪いものだとしても、凪波を助手席に座らせている責任は全うしなくてはならない。
俺の車に乗る時、凪波はどこか緊張の面持ちをしていることが多かった。
もしかして臭いがだめだろうか。
それとも、車に乗るのがそもそも苦手だったろうか。
……そう言えば、車に乗る時は必ず酔い止めを飲んでいた……今度車に常備しておこう。
実は凪波が見つかった後、すぐに車を買い替えた。
前の車は父親から譲り受けたもので、シートはぼろぼろ。
思い入れがある車だし、操作慣れはしているから、買い物など簡単な用事の時はその車を使うが、凪波を乗せる時はこの、最新型のナビと最新型の安全設備が揃っている車を使っている。
前の車とは、操作性がまるで違う。
もし、凪波を乗せて事故に遭ったらどうする……。
そう思っていたので、俺は納車されてからすぐ、夜凪波を連れて行く可能性が高い場所を、いくつか巡る練習をしていた。駅前の設備や大型ショッピングモールは、一通り制覇して、自信がついてから、凪波を乗せ始めた。
練習の最後には藤岡や藤岡の息子の葉にも付き合ってもらった。
「これが自分のためじゃないのが寂しいけど」
と藤岡に言われた時は、さすがに悪いことをしたと思ったが
「あさひー!ブーブー!!ブーブー!」
と、目をキラキラさせて興奮気味に自分が知っている限りの語彙で喜びを伝えてくれた葉に救われた。
もし、凪波との子ができたら、この車でたくさんドライブをして、いろんなことを経験させてやりたい。
もしも男の子だったら、葉のようにこの車に乗ることを楽しんでくれるだろうか。
そして、凪波は俺と子供を見守りながら、笑ってくれるだろうか。
でも、凪波は、この車に乗る時はちっとも笑顔になってくれない。
前も、会話を振っても「うん……」と空返事をしたかと思うと窓の向こう側を見ている。
この車に興味がないのだろうか
それとも単に窓の外を見るのが好きなだけ?
空気が変わったのは、ある曲が流れてから。
ついこの間、ランキング入りした一路朔夜……後ろにいる男が出したシングル曲。
愛する女への一途な気持ちを歌詞にしていたとのことで、朝のニュースで取り上げられていた。
あるコメンテーターの女性が「こんな風に想われて、堕ちない女性なんていないですよね」と言うと「はい。僕にとって愛する女とは……みなさんですから」ということを言っていた。
その時は「絶対こういうやつは女の一人や二人はいるだろう」何都合のいいこと思ってるんだ、くらいにしか思っていなかったが、まさか、この歌詞の本当の相手が凪波だと言うのか?
バックミラーを見る。
一路朔夜が助手席……凪波を見ている。
助手席を見る。
凪波が、一路朔夜を見ていた。
見つめ合っている。この車にいる凪波が、初めて見せた興味かもしれない。
凪波が急いで会釈をして急いで窓を見る。
急いで会釈をする。
これは凪波が、照れた時に無意識にする行動。
俺は、アクセルを一気に踏み込んだが、安全装置のおかげで急にスピードは上がらずゆっくり上がる。
白線を踏むとハンドルにバイブレーション。
はっと気づき、アクセルからブレーキペダルに足を戻し、今度は丁寧に押す。
この二人の空気を「気のせい」だと無理矢理思い込むことにして、ハンドルを回す。
間も無く、車を止める。
この二人の間の空気を、断ち切ってみせる。
Side朝陽
「あらー!!!こんなイケメンさん、どうしたん!?」
駐車場に車を停めて早々に、玄関から母がひょっこり顔を出してきた。
いつもならもっと早く帰ってきたはずの俺が、連絡無しで夜中帰宅になったもんだから、心配して外に出てきた……ということなのだろう。
ただ、母の格好はと言えば、すでに風呂に入った後なのだろう、すっぴん、パジャマ姿、カーラーを巻いている状態だったので……。
「やーだー!もう朝陽ったら!こーんなイケメンさん連れてくんなら、連絡くらい寄越しなさい!もっとちゃんとおめかししたかったわぁ……」
と思いっきり殴られた後に
「あらーほんとイケメンさん……お名前は?朝陽のお友達なの?家に泊まっていくの!?やだどーしましょう!!お布団綺麗なのあったかしら!」
「母さん……」
凪波はともかく……初対面の一路朔夜に至っては明らかにドン引きしているのが分かる。
凪波も、軽く引いている。
「俺ら、オフィスのソファ使うから。とっとと母さんは寝なよ」
「あ、そうよね!お母さんこんな格好で失礼だったわよね!着替えなきゃ!」
そうじゃない。そこじゃない。
この周辺じゃ、年齢が若い人間ともなかなか会えず、じいさんばあさんとの接触率が多い。
そんな中での一路の顔だ。……同じ男として比べられたくはないが、自分の母が人生で1度も見たことがないような、少女のような顔をしているのは……息子としてはできれば見たくなかった。
「あの、お母様ですか?」
一路朔夜が、微笑む。母は、頬に手を当てて
「どうしましょう……どうしましょう……」
と狼狽えている。
「僕、朝陽さんと凪波さんのお友達の、一路、と申します。こんな夜分遅くに来てしまい申し訳ありませんでした」
「そんなそんな!こーんな辺鄙なとこに来ていただいて……朝陽も、こんな素敵なお友達いるなら、早く紹介しなさいよ!ほんと!気が利かない子ね!」
……俺ら知り合ったの数時間前だからな。
ばしん!と母の馬鹿力で背中を叩かれる。
「いってえ……!」
「ほらほら、こんな外に二人を立たせておかないで、早く中に入れなさい」
誰のせいで外に立ちっぱなしだと思ってるんだ。
母は舞い上がったかのように玄関の中に入ってしまう。
このテンションは……。
「凪波、お前、この時間、母さんのアップルパイ食える余裕あるか」
「え!?うーん……おばさんのアップルパイは好きだけど……」
「あの調子じゃ、アップルパイ焼きかねない。下手すると、ありとあらゆるりんごの菓子作り始める」
あのテンションなら、それくらいはやりかねない。
「だからさ、母さんが変なことしないか見張っててくれないか」
それも理由ではあるけれど。
「えっ、でも……」
凪波はちらりと一路を見る。
やはり一路が気になるのだろう。
一路は、凪波のその視線に気づき、微笑む。
凪波は、頬を染め、視線をそらせ、俺に耳打ちする。
「この人が本当に声優さんなのか、声優ならどの作品に出てるのか聞き出して、あとサインもらって」
と矢継ぎ早に、小声で話す。こういうところだけは、高校時代の凪波そのままだな……と、安心したような、少々虚しいような。俺と一緒の時は、いつも不安な様子を隠しきれていないというのに。
サインはともかく、他の2つはググればすぐ出てくるとは思うが、今の凪波はきっとwikipediaもうまく操作できないので
「わかった、わかったから」
「ほんとだよ!絶対だよ!」
そう言って、凪波も母に続いて玄関の中に入った。
「おばさーん!あのねー……」
と、母に呼びかけている凪波の声が消えるのを確認してから、俺は一路と向き合う。
一路は、凪波と母に向けていた表情を一変させ、するどい目つきで俺を見ている。
油断すると、すぐに射抜かれそうな眼光に、俺は一瞬怯みそうになる。
凪波の様子から、今の凪波の気持ちが見えない。
……凪波………さっきこいつに抱き締められてたのは……気にしてないのか……?
俺が触れようとすると、戸惑った様子を見せることが多いのに、こいつは平気だと言うのか?
だからこそ、今凪波と一路を同じ空間に居させたくない。
「こっちに来い」
俺は方向を指さしてから、その方向に向かって歩き始める。
一路は黙って俺についてくる。
オフィスは、ここから歩いて10秒くらいのところにある。
そこであれば、邪魔者はしばらくは入ってこないだろう。
まず、俺とこいつが話す。
Side朔夜
オフィスはプレハブで作られていたが、中はドラマで見たことがあるような空間になっていた。
デスクは4人分。パソコンは最新型で、ウォーターサーバーもある。
芸能人のサインも壁にいくつか貼ってあり、賞もいくつか受賞したのか、トロフィーも置かれている。
さすが、今話題の農園といったところか……。
業務エリアと応接間はパーテーションで仕切られている簡単なものだった。
ガラス製のローテーブルとL字タイプの黒いレザーソファは、一目見ただけで「特別良いもの」を使っているのが分かる。
これが、海原朝陽。
ネットで話題の若手社長。そして凪波の……。
これ以上は考えると唇を噛んでしまいそうだったので、思考を切り替える。
ちらと奥を見ると、カラフルなジョイントマットが敷かれ、電車や車のおもちゃ、絵本が入っているおもちゃ箱が隅の方にこじんまりと置かれていた。
なんとなく、車のおもちゃに触れようとしたその時、
「そこ、気になるのか?」
海原が聞いてきた。
「いや、別に」
僕はすぐに手を引っ込める。
「スタッフの中にシングルマザーがいてな、そいつが子供連れて仕事できるようにしたんだ」
特に聞いてもいないのに、よく、ぺらぺらとしゃべる。
自分がいかに有能なのか、見せつけようとしているのか?
「座れよ」
海原が、お湯に紅茶のティーバッグを入れた紙コップをローテーブルに置く。
僕と海原は対角線上になるように腰掛けた。
カップからは湯気が立っている。
「……」
「……」
さて、どう切り出そうか。
本題は「凪波」。
何故、凪波が僕以外の男のためにウエディングドレスを着る羽目になっているのか。
何故、凪波は僕を知らない人のように振る舞うのか。
その原因は、一体誰なのか。
もし、目の前にいるこの男が、凪波に何かをしたとしたら……。
そのせいで、凪波が僕にあんなことを言ったのだとしたら……。
ホームでの凪波の言葉を思い出すと、胸が張り裂けそうになる。
「私のこと、知っていらっしゃるんですか?」
「……もしかして、声優さんですか?」
……そんなの、君が誰よりもよく知っているじゃないか。
その理由を、目の前にいるこの男は間違いなく知っている。
手を膝の上に置いて、握り拳を作る。
そうしないと、僕はこの男掴みかかりそうになる。
僕は、ゆっくり腹式呼吸を1度した。
本番前にリラックスするには、腹式呼吸が良いと、凪波が言っていたから。
そして、海原を見た。
海原は俯き。腕を組んでいた。
「……」
「……」
無言が続く。
どちらから先に話すかの、探り合い状態になった。
それから海原は貧乏ゆすりを始めた。
苛立っているのがひしひしと伝わる。
そちらから聞かないなら、僕から聞くよ。
「凪波は、何故僕のことを知らないふりをしているんだ?」
核心をついた質問を、ストレートにぶつける。
海原は、頭をがしがしっと掻きむしりながら
「ふりじゃねえよ。本当に知らねえんだ」
「は?」
そんな馬鹿な……。
「そもそも、あんたが探している凪波は、本当にあいつなのか?……あんた、イケメンだし……もっと美人の彼女だったんじゃないか。ほら、あいつお世辞にも美人ってわけじゃ」
「愚弄するのはやめてくれないか」
「でも、やっぱり信じられねえよ!あんた……超有名人だし……凪波なんかに釣り合うわけ……」
「君は、仮にも……仮にも、だ……自分の女房だと言った凪波のことを、そんな風に言うのか」
「そうじゃねえよ!……ああっくそ……言いたいのはこれじゃねえ……」
海原の貧乏ゆすりがますますひどくなっている。
「……あんた……凪波と、いつ……どこで……知り合ったんだ」
「……は?」
「良いから答えろ!」
海原が声を荒げる。
僕は、しぶしぶ答える。
「……5年前に……」
「どこで!?」
海原の様子がおかしい。
「おい、答えろ!一路朔夜!!」
一体、こいつは、僕から何を聞きたいと言うのか。
海原は僕の肩を掴み揺さぶり続ける。
「おい!どこで会ったっていうんだ!」
「……東京……の……吉祥寺……」
欲しかった答えを聞き出せたのだろう、海原は視線を宙に浮かせながら
「そうか……あいつ……東京に……いたのか……やっぱり……そうか……」
力が抜けたように、ため息まじりの声でつぶやいた。
僕は、その間に肩に置かれた海原の手を払いながら
「それより、僕が聞きたいのは、凪波が僕のことを知らないふりをしているのか、だ。……君の指示か?」
いっそそうであって欲しい。
そうすれば、目の前にいるこの男を憎み、この男から凪波を奪い去るだけで済むのだから。
「……あれが、指示してできるように見えるのか?」
海原の声のトーンが、急に下がったのがわかった。
Side朔夜
「凪波なら……できる……」
僕に演技というものを教えてくれた凪波なら、それくらいの演技は容易い。
しかし、海原には皆目検討がついていないらしい。
困惑した表情を浮かべる。
「……あいつは東京で何をしていたんだ」
「君こそ、彼女から何も聞いてないのか」
海原が、大きく深呼吸をした。目線はローテーブルに置かれた紅茶を見ている。
「……凪波と、5年前に会った。……そう言ったな」
「……ああ……」
何故、そんなことを確かめるように聞くのだろう。
「もし、その話が本当だとしても……今の凪波は、あんたを知らねえよ」
「どういうことだ……!?」
「凪波は、半年前……あのホームで見つかったんだ……」
半年前……。
凪波が消えた時期とやはり一致している。
「ホームで……見つかった?」
海原の言い方が気になった。
「そうだ」
「……自分で帰ってきたんじゃなかったのか……?」
「……あいつの実家に病院から連絡があったんだ。……意識不明だってな」
「……!?」
意識不明……!?
凪波が消えた日の後で、何かがあったのか……!?
「どこか怪我をしていたのか!?」
「怪我は……してなかった……けど……」
海原が、言葉を飲み込んだ。
何かを……隠している……?
「一体、何があった!?」
「そんなもん、こっちが聞きてえよ!!」
海原が声を張り上げた!
目に涙を浮かべているかのようにも見えた。
海原は、手で目をこすりながら、落ち着きを取り戻したかのような声で話を続ける。
「……病院で目を覚ました時、あいつは、高校の卒業式の日以降の記憶は全部消えてんだよ」
「なんだっ……て?」
「……つまり、5年前に出会ったっていうあんたのことは……あいつの中には存在してねえってことだよ」
「……嘘言うなよ……僕と凪波を引き離したいからって、そんな嘘通じるわけ」
「逆に聞くがな……」
僕の疑いを遮るように、海原が話を続ける。
「あんたが知ってる凪波が、本当にあいつだったとして……だ。あいつは、あんたにわざわざ記憶がないフリをするようなやつなのか?」
「……違う……」
凪波は、教えてくれないことは多かったけど、僕を騙すようなことはしない。
「俺だって、病院で久しぶりに会ったときに……あんたは朝陽じゃないって言われたからな……。あいつの中には、まだ高校生の時の俺の方が、強いんだ……」
海原は、カップを手に取り紅茶を一口飲んだ。
僕も、カップに口をつけた。
少し、苦かった。