爆発したセクシャルマイノリティより愛をこめて

思春期に、皆が当たり前のように出来るようになっていったことが、僕には出来なかった。

自分の変化について行けなくて、もちろん周りにもついていけなかった。

そりゃあ表面上は無難に生活することは出来るようになっていったが。

僕の心は酷く消耗していった。

思春期なんて皆、誰にも言えない悩みの一つや二つ、自力で乗り越えて行くものなんだろう。

心に傷の無い人間なんていないし、別に苦しいのは僕だけじゃない。

でもそれでも。

どうしても乗り越えていけない壁があった。

それが自分のセクシャリティだ。


僕は幼い頃のことをわりとよく覚えている。

小学生に上がるまで、自分の性別に疑問を持ったことは無かった。

性別関係なく友達と遊んだし、いわゆる男の子の遊びも女の子の遊びもした。

一番初めのきっかけは自分の一人称だ。
前々からどの一人称を使うか定まらなくて、小学二年生のときに異性の使う一人称を使うようになった。

そのときは
キャラに合わないだの、似合ってないだの言われたなー。

クラスメイトに散々からかわれて、しまいには就学前から一番仲良くしてた友達にまで、つまらない嫌がらせを受けるようになった。

それでも、僕が一人称を変えることはなかった。

あるときまでは。
 

それは朝の事だった。
起きてすぐに母と会話したとき、いきなり怒られた。その一人称は異性が使うものだからやめなさい。そんな内容でキツく言われた。

話がずれるので深くは触れないが、僕は統合失調症と言う病気を持っていて、長期の入院をしたことがある。

退院してから母に小学生のときに一人称で怒られた話をしたら、「そんなことはなかった。その一人称も使っていなかった。全部アンタの妄想だよ」と言われた。
朝に怒られた事は、もしかしたら夢だったのかもしれないが、

僕が学校で異性の使う一人称を使っていたことは事実だ。

例え母に怒られたのが夢だとしても、僕はそのことがとても悲しかった。

一番味方になって欲しかった一番仲の良かった友達に嫌がらせされて、母にまで拒絶されたからだ。

そこから自分の一人称を、同性の友達が使っているものに変えた。


小学四年生までは、異性の友達ともよく遊んだ。

しかし学年が上がっていき、冷やかされたり、仲良くしていた“異性”に告白されたりするのが嫌で、次第に同性としか関わらなくなっていった。

当たり前のように毎年誰か適当な異性に片思いして、クラスが変われば冷めて。

クラスが変わるのを待たずに、違う人を好きになったこともある。

中学に上がるまでは。
小学校を卒業し、中学生になった。

六年生のときに好きだった人とはクラスが離れて、例外なく冷めた。

僕が次に好きになったのは、
 

同性だった。


その人は小学生時代から仲良くしていた友人だ。

厳密には就学前から仲良くしていたが、記憶にない。

なぜ記憶にないのにそのことを知っているのか……それは母から聞いたからだ。

僕とその人は通っていた園は違ったが、公園で一緒に遊んでいたらしい。

それを知ったときは、とても嬉しかったなぁ。


初めて同性を好きになり、葛藤の連続だった。
 
友人として好きなのか、それとも恋愛として好きなのか。

思春期によくある一過性の感情なのか。

今までのように上手く友達として接することが難しくなって、距離を置いて。

しばらくしてまた近づいて。
 
その頃には開き直りのようなものがあり、まあこの気持ちはバレないだろうと思っていた。
それでも、相手は友達だと思って一緒に居てくれているのに、僕は恋慕の情を抱いていしまっていることに罪悪感があった。

なのに。

合唱で指揮なんてやるから、ずっと顔を見ていなくちゃいけない!

辛かった。

嬉しくて、苦しくて、
幸せで、切なかった。

当時は詳しく知らなかった話だが、中学三年生のころ、その人は告白されて、付き合っている人がいた。

相手は小学四年生か五年生のときに僕に告白してきた人だった。

やっと僕がハッキリ恋だと自覚したのは、中学卒業前ギリギリのころだった。


別々の高校に進学しても、気持ちは変わらない。

そんなに長く同じ人を好きでいることも、初めてだった。
ただ、高校に入学したころ、僕の心に変化があった。

それは自分の性別に対する明確な違和感だった。

僕は同性しかいない高校に入学したのだが、なかなかその空気感に馴染むことができなかった。

今まで感じたことのない疎外感を感じた。

それと共に自分の築いてきた人格が激しく揺らいだ。

起こっている変化に耐えられなくて、どうしようもない不安感が襲う。

これが一番初めに現れた統合失調症の症状だった。

妄想から夜中に家を飛び出した。


そのときはケータイを持って行ったので、しばらくしてから父から連絡があり、車で迎えに来てくれた。

家に帰る前、駐車場に車を停めて車内で泣きながら話したことは、今でもとても印象に残っている。

僕は世界が急に変わっていっていると、父に話すと、「それは世界じゃなくて自分が変わっていっているんだよ」と諭してくれた。