「叫ばないって約束するなら手を離すよ。いい?」

 コクコク頷くとやっと口を塞いでいた手が引いた。
 起き上がったミゼルに、ヘンリーは「破かないでね」と念を押して便箋を手渡した。

 まじまじと考察するまでもなく、便箋のメッセージは恋人に向けたものだった。
 タスティリヤ王国に現れた公女のせいで結婚式の準備が遅れていることに触れ、相手に謝罪している。

 ということは、この書き主は。

「レイノルド第二王子殿下ですね?」
「よくわかったね。レイノルド王子サマの文通相手、情報通なミゼルちゃんなら知ってるんじゃない? 教えてよ。もちろんただとは言わないよ。デートでもキスでも、オレの体で払えることなら何でも――って、聞いてる?」

 ミゼルがきょとんとしたので、ヘンリーが不信感をあらわにする。
 一方のミゼルの方は、何もただ放心していたわけではなく、猜疑心でいっぱいだった。

 レイノルド王子の文通相手を、その護衛騎士が知らないことがあるわけがない。
 相手は言わずもがな、王子の婚約者であるマリアヴェーラ・ジステッドだ。
 第一、彼女のもとへ手紙を届けていたのがヘンリーなのに、どうしてミゼルに相手を尋ねに来たのだろう。

「ヘンリー様、ひょっとしてお忘れなんですか? マリアヴェーラ様のことを」

 ざわざわした心の言葉を口に出す。
 ヘンリーは、なぜその名前を出されたのか皆目見当がつかない様子で、ぎゅっと眉間にしわを寄せた。

「マリアヴェーラは、ジステッド公爵令嬢の名前でしょ。そんなことはタスティリヤ王国の貴族なら誰だって知ってる」
「レイノルド王子殿下の婚約者の名前は?」
「そ、れは……」

 ぜんまい仕掛けの人形が止まるような不自然さで、ヘンリーはぴたりと唇を閉じた。
 ラベンダーの花が揺れるように紫の瞳が上に動く。脳に収めた記憶の中を隅々まで探っているようだ。
 ミゼルは自然と呼吸をひそめて彼が話し出すのを待っていたが、息苦しくなるその前に、長いまつ毛が下りた。

「思い出せないんですね?」