ベランダの柵を乗り越えて降り立った青年は、顔なじみに挨拶するようにヘラッと笑った。

 夜風に揺れる赤い髪は襟足が長い。
 着ているのは近衛騎士団の制服である。
 二階によじ登っても息ひとつ切らさない身体は猫のようにしなやかで、なにより、深夜に女性の部屋に侵入しようとするふらちさ――。

 青年の正体に思い当たったミゼルは、重たいまぶたをこじ開けて問いかけた。

「ヘンリー・トラデス子爵令息ですか?」
「大正解。オレってそんなに有名だったかな?」

 おどけるヘンリーを、ミゼルは半分しか開かない目で見つめた。

「ええ。とても悪い意味で、ですけれど」

 若くして近衛騎士に召し上げられたヘンリーは、貴族学園に通っていた頃から女性人気が高かった。
 垢ぬけた雰囲気や色気のある大人びた顔立ちが、同年代の幼稚さが抜けない男子たちにはない危険な魅力を放って、令嬢たちを惹きつけたのだ。

 ヘンリーは令嬢と火遊びをしては次々と相手を変えるので、泣かせた女性は数知れない。
 悪い噂が流れて校内で相手が見つからなくなると、街に出て酒場の女性と関係したりもしていたようだ。

「オレ、君に会いに来たんだ」

 こんな真夜中に? 何のために?

 尋ねる間もなく、ミゼルはヘンリーに抱きしめられていた。
 ぎゅっと肩を包まれて、顔が団服に押し付けられる。

(甘い、匂い)

 毒のある花ほど蜜は甘いというけれど、確かにヘンリーからはお菓子のような匂いがした。
 剣をふるってきたえた腕は力強くて、つい体を預けそうになる。

 必死に足に力を入れるミゼルに気づいて、ヘンリーはクスリと微笑んだ。

「品行方正なお嬢さんって感じで嫌いじゃないけど。オレさ、抵抗されると余計に燃えるんだよね」

 耳朶にチュッと口づけされて、ミゼルは何がなんだかわからなくなった。

 なぜヘンリー・トラデスは、自分に愛撫みたいなキスをしているのか、とか。
 こんなところを誰かに見られたら、伯爵家はじまって以来の大騒動になってしまう、とか。
 もしも一夜の過ちが起きて妊娠でもしようものなら、マリアを支える夢が絶たれる、とか。

 さまざまな事柄が頭をめぐって――いや、眠すぎてそれどころじゃない。

「ぐーーー」
「は?」

 やっと身を任せてきたと思ったら寝息が聞こえて、ヘンリーの余裕は吹っ飛んだ。

「いやいや、どう考えても今から良い雰囲気になる予定だったじゃん! ミゼルちゃん、起きてー! こんな色男の前で寝ちゃったらかえって危ないよー!」

 肩を掴んで揺さぶる。
 しかし、ミゼルは首を前後にぐらんぐらんさせながらも、ぴくりとも起きる様子がない。

「ぜんぜん起きやしねえ……マジかよ」

 すっかり眠りに落ちたミゼルを抱えてヘンリーは、大きなため息をついたのだった。