「うわぁあああ!!!」

突然部屋の主が叫び、部屋の隅へと逃げていく。その途中でいくつかのゴミ袋に穴が空き、部屋の主は足をゴミだらけにしながらも、必死になって壁を登ろうとしている。
部屋の主は爪を立てながら、壁をガリガリと削る。口からは薄汚れた涎が漏れ、その表情からは若干の笑みを見てとれる。だがその目は、完全に正気を失っていた。
焦点が定まっていない両目が、まるで掻き回されるようにグリグリと動く。主の視界には、部屋の天井と壁の境目しか映っていない。その横に伸びた線も、4重・5重に変化している。
ただひたすら、部屋の主は天井に手を掲げていた。爪まで茶色に変色しているその片手は、部屋を舞う埃を掴んでは離し、掴んでは離し・・・を繰り返していた。
それはまさに、彼の人生そのものだった。

『妻』と『子』を掴んで、離し
『仕事』と『夢』を掴んでは、離し

その繰り返しに行き着いた先にあったのは、虚無でしかなかった。彼が家庭を持っていた頃の写真だけが、机の片隅にひっそりと佇んでいる。
そして、愚かになった男を、哀れになった未来の自分を、静かに見続けていた。

「・・・許してくれ・・・許してくれ・・・」

部屋の主は、壁に向かって謝罪の言葉を投げつけている。だが壁は当然の事ながら、何も答えてくれない。ただ涙を浮かべる部屋の主を見合わせていた。
だが、それでも男は謝り続けた。もう呂律が回らず、発せられる言葉が意味不明な単語になっても、部屋の主はただ謝罪を続けるしかできなかった。
男の上下灰色のスウェットからは黒い染みが滲み、肥え続けたその体に纏わりつく。そう、男を逃がさんとばかりに。
そしてしばらくすると、部屋の主の言葉が『謝罪』から『拒否』へと変わる。だがその光景は、まさに『大きな子供』

そして、そんな彼の後ろ姿を見ながら、笑みを浮かべているのは・・・



「これでもう、一人じゃないよ。」

バァァァァァァァン!!!



短い針が、ようやく『9』に辿り着いたその瞬間、その時計は役目を終えた。そのまま飛び散ってしまったのだ。
部品や振り子等のパーツは宙を舞い、道路の佇む男の子の標識に降り注ぐガラスの雨。男の子はその光景を、ただ黙って見ている事しかできなかった。
男の子の目に映ったのは、煌々と照り輝く、マンションの一室。それと同時に、まるで蛍の様な無数の光が、天に向かって消えていった。