苛立ちまぎれにどしどしと床を踏みつけて歩く。
向かいから、通路の端をよたよたと歩く人物に目が向いた。
窓から差し込む朝日に照らされたその人の顔は青白い。
「ビクター……」
「ぉぅ……なに、朝帰り? やるじゃん」
徹夜で薬品の状態を見守っていたビクターは、これから寝るのだとカイルにひらひらと手を振った。
おやすみとすれ違い通り過ぎようとする。
「……出て行ったぞ」
「なに?」
「マリオンだ。城を出て行った」
ビクターはすと息を吸い込んで、カイルを見上げる。
口を開きかけ、顔を顰めて下を向いた。
「驚かないな」
「まぁね」
「知ってたのか?」
「……いや。でも……だったらそうかって」
「何の話だ」
「温室だよ……完成が見えた頃からは急いで作ってた感じだし、新しいことは何も始めてないみたいだったし」
「いつか出て行くと?」
「俺が? だから、知るかよ。あいつ元々なんかよく分かんない奴だから不思議じゃないって話……今思えばってやつだよ」
「……そうか……師長はこのことをご存知だろうか」
「さあねぇ……でも知ってれば止めてるよ」
「追われることになるのか?」
「そんな無駄なことしないでしょ。あいつに本気で逃げられたら、誰にも捕まえられないって」
「……そうだな」
「……追う気なの?」
「ああ……何か、心当たりはあるか? 行きそうな場所とか」
「あんたよりあると思うか?」
「……どうだろうな」
「ま、頑張りなよ」
「そのつもりだ……師長にこのことは?」
「…………うーん……あのおっさんが気付いたら、『そういえば最近見ない』って言っとく」
「はは…………そうか」
「じゃあね、ご武運を」
「ありがとう、じゃあな」
廊下を再びよたよたと歩き出したビクターは、そうだと立ち止まって振り返る。
「なあ、本、取ってきてくれない?」
「本? どこから」
「貸してんだよね……あんた、あいつの部屋入れるんだよね」
「ああ……それが?」
「任意の人間しか扉が開かないようになってんの。同僚なんて絶対に立ち入り禁止。部屋に入った途端、何が起こるやら。俺まだ死にたくないもん」
自分がとんでもない危険を犯していたことに、カイルは今さらながら背筋が寒くなる。
と同時に何も起こらなかったことが堪らなく嬉しかった。
にやけた顔が気持ち悪いとビクターは顔を歪める。
貸したという表題の本を数冊、それから残して行ったのなら貰い受けると言った本を数冊、棚から探し出してビクターに渡した。
ほくほくとした嬉しそうな顔で、ビクターは本を抱えて自室に戻っていく。
それを見送ってカイルはマリオンの部屋を振り返った。
マリオンと自分にしか開けられない扉。
任意の人間しか入れない部屋。
何も持ち出さなかったのは、何も要らなかったからなのか、全てをこのまま残しておきたかったからなのか。
そう考えながら見た窓辺にある小箱は、さっきとは違い、特別に感じる。
騎士舎に戻って荷を担ぐ。
オーガスタスを叩き起こして、休暇を取ったこと、後は任せたと書類の束を押し付けた。
夜中の内に、今現在で出来ることだけは済ませておいた。
呆気に取られている間に手短に別れを告げると、気を取り直してオーガスタスは追いかけてくる。
「いやいやいやいや……何言っちゃってるんですか、いきなりそんな、無茶苦茶な」
「俺の役職が空いたぞ、良かったな」
「わぁい! やったー! 次は俺だー!……ってなりますかっての!!」
「他の奴に譲るのか?」
「嫌ですよ!」
「ならやってやれ、だ」
「……休暇、なんですよね?」
「今のところな」
「帰ってくるんですよね?」
「まだ分からん」
「あんたね!」
「みんなを頼んだぞ、オーガスタス」
「…………ズルい言い方しないで下さいよ」
「お前に任せた」
「くそ…………了解」
馬を駆って大きな街道を、マリオンの故郷に向かった。
滅多に詠唱しないマリオンが、転移門を開くときにそれを使っていたのを思い出す。
相応に魔力を消費したはずだ。
使えるだけ魔力を使い、転移先でしばらく休んで回復を待ち、また転移することを繰り返したのではないかと推測した。
行く先で尋ねながら進んでいくと、やはりマリオンらしき人物を見たという人に出会う。
自分の行く先にマリオンが居るのだと確信を持って、マーレイ領に向かう。
季節は移り変わり、雪の中を走る日も多くなった。
王城を出てからふた月が過ぎ、マーレイ領に踏み入った時には、固く締まった雪に足を緩められる。
さらに端、領主邸へ向かうほど積雪は深くなっていった。
最終的には馬で走るのは難しくなり、手綱を引いて、雪をかき分けながら歩くしかない。
深い雪を踏みしめて、白い息を荒く吐き出しながら、これまでのことを振り返る。
ひとりの時間が長いので、必然として自分の心と向き合うしか無かった。
失望と腹立たしさ、それと一緒にある、ほんの少しばかりの期待との間を、感情は激しく行き来した。
自分がマリオンの足を止められる存在、もしくは、これから先を同じく生きる存在たり得なかったことが、悔しくて堪らない。
簡単に切り捨てられる存在だったことに深く傷ついた。
近くに居ると思っていた。
マリオンに一番近いと疑っていなかった。
彼女がただひとつの目的しか見ていなかったとしても。
温もりや吐息を感じるほど近くに居たのは、この自分だと。
同じ時を長く過ごしたのは、自分だけだと。
小さな炎に舐められてじりじり焦げ付くような、胸の奥が痛くてどうしようもない。
みんなと過ごした二年間も、ぽかんと空いた五年間も、全部そうだった。
何度思い返してみても。
全部マリオンだった。
邪魔だと後ろ襟を引き倒されて、首を掻き切られるのを庇われたあの時から、ずっと。
マリオンしか見ていなかった。
背後に大きな森を背負った館、それがマーレイ領主の邸宅。
左右対称の石造り、赤銅色の屋根が積もった雪の隙間から見えていた。
高い塀も門扉も無い、庭はあるのかも知れないが、今は腿の高さまである雪の下になっているのだろう。
カイルは正面玄関に続く、辛うじて雪がよけられた程度の細い道を行く。
冬ごとの積雪のためだろう、少し高い場所に玄関があった。その階段を上がり、上着や足元の雪を叩いて落とす。
備え付けの金具を叩く前、手を持ち上げた時に内側から静かに扉は開かれた。
「ご用でしょうか」
「……こちらはマーレイ領主邸で間違いないだろうか」
「……左様でございます」
現れたのは壮年の女性、落ち着いた色の衣装に白い前掛けをしていた。
後ろに流してひとつにまとめた髪には白いものが混ざっている。顔は何の感情も映してはいない。
「マリオン嬢はこちらにおられるだろうか」
「……貴方様は?」
「……失礼、私はカイル・グラハム・マクスウィニィ……王城で騎士をしている者です」
「お嬢様はその王城に出仕中のはずですが……お嬢様に何事かございましたでしょうか」
「いや……こちらにおられるのでは?」
「いいえ」
「そうか……しばらくここで待たせていただく」
使用人の言葉をはいそうですかと聞く訳にもいかないので、カイルは上衣を掻き抱くようにしてから扉の前の石段に座ろうと体の向きを変えた。
追うように外に出た使用人は、少し眉をしかめてカイルに声をかける。
「あ……の、そこで待たれてもお嬢様は」
「こちらに向かったことは分かっている。私が彼女を追い越すとは思えないが、無いとも言えない。悪いが待たせてもらう」
「困ります」
「誰が? 貴女か、それともマリオンか?」
そう言って初めて使用人はカイルに目を合わせた。
真っ直ぐ見つめるその顔から、わずかに力が抜けたように見えた。
「もう一度お名前をお伺いしてもよろしいですか」
「カイル・グラハム・マクスウィニィ」
「……『王の庭』で上級生だった?」
「そうだ」
「銀の髪飾りを贈ってくれた?」
「そ……うだ、何故それを」
ふと短く息を吐き出すと、困ったように笑って力が抜けたように肩の位置が下がった。
使用人は半身を引いて、後ろの手を扉の方に向ける。
「ここは寒うございます、どうぞ中へ」
「やはり、マリオンはここに?」
「はい……お嬢様はただ今出かけておりますが、じき戻って参りますので、中でお待ち下さい」
カイルは力が抜けてふらりと後ろに下がった。ちょうど良く屋根の石柱が立っていたので、そこに背中を支えられる。
ここまで来てもしマリオンが居なかったら。
もうどこを探していいか、カイルは文字通り路頭に迷うしかなかった。
安心して大きく息を吐き出したカイルに、使用人はふと笑いを漏らす。
「王城からの追手では無いんですね?」
「追手は追手だが……誰の命でもない、マリオンにただ会いたくて」
「ただ会いたいだけでこのような辺境まで?」
「我ながらどうかしているとは思っています」
「さぁ、中へ。外で待つには寒過ぎます」
「ありがたい……厩はあるだろうか、相棒を休ませてやりたい」
使用人は扉を開くと大きな声で人を呼ぶ。
すぐにぴしりとした格好の男性が現れた。
当家の家令ですと短く紹介されて、男は頷くように頭を下げた。
こちらも髪に白いものが混ざっている。
怜悧そうな顔付きが如何にも、といった雰囲気だった。
すぐに上衣を羽織ると、カイルを屋敷の裏手に案内する。
「申し訳ありませんが、生憎、馬の世話ができる者が外しておりまして」
「ああ、いや。お気遣いありがとう、世話は私が」
通された厩舎も屋敷と同じ様な石造り、寒さを凌ぐ為か、置き暖炉が設えられて、内側はほのかに暖かい。
冬の間は滅多に外に出ることが無いからか、元からいた二頭の馬は、床に伏せて脚を折り曲げ、落ち着いた様子だった。
頑張ってくれた相棒の首元を力を込めて叩く。
荷物や馬具を全て外して、冷えないように雪を落とし、体を拭いてやる。
ゆっくり休めと声をかけると、真っ黒な目を瞬かせて鼻息で返事をした。
「待たせて申し訳ない」
「いえ……こちらへ」
正面玄関から一番近い部屋へ通される。
荷物と上衣を預け、促された場所へ座ると、目の前の卓へ湯気が上がるお茶が出された。
「ありがとう……しかし、もてなしを受ける前に、領主殿にご挨拶したいのだが」
「……まずはお嬢様のお帰りをお待ちいただきますよう」
「構わないのか?」
「ごゆっくり」
家令が部屋から出て行くのを見送って、使用人の女性はお茶の横に焼き菓子をそっと添えた。
「ありがとう」
「いえ……少し……お話をさせていただいてもよろしいですか」
「ええ、どうぞ」
向かい側の長椅子をすすめると、それではと端の方に座った。
「私は当家の使用人をしております、ビリー・パルヴァと申します。今出て行きました家令は私の夫、アーノルドです」
「はい」
「私も夫も、貴方様のことは以前から存じておりました」
「……そ……うか。どのように?」
「お嬢様が日記を書いておられたのは?」
「いいや、知らない」
「『王の庭』へ招来された日から毎日、その日の出来事をその日の夜に書かれていたようです」
「……それで?」
「貴方様のお名前は、何度もその中で」
「…………そう」
「仲良しさんだと」
言葉が喉に詰まったようになって、返事ひとつすら出てくる気がしない。
頭に血が昇ったようになって顔が熱いので、赤くなっている自覚はあるが、どうしようもない。
ごまかしにもならないと思いながらも、器を手に取って、口の中に茶をちびりちびりと入れた。
「女性ではリディア様というお名前、男性では貴方様とリック様のお名前が何度も」
「そう……四人で一緒にいることが多かった」
「あの子にも友達が出来たのかと、驚きました」
「……あの子?」
ビリーと名乗った使用人は口の端を片方だけ持ち上げた。
あの子、と、カイルは口の中で繰り返す。
そして使用人に対して、マリオンが日記を見せていたことに、カイルはやっと違和感を感じる。