燕草月 終二十二日
ビリー。
相手の気持ちをの全てを知れば、手に入ったような気になるなんて。
なんて傲慢で浅はかな考えなんでしょう。
それは自己満足であって、その人の心ではないのに。
もし得られるものがあるとすれば。
それは瞭然とした、相手と自分との差です。
露台は人がふたりもいれば、少し窮屈に感じる広さで、中庭に面した方向、大きな窓ごとにいくつもぽこぽこと飛び出している。
床も手すりも石造りで曲面と直線の調和が美しい。さらさらとした優しい丸みは手に馴染んで、少しひんやりと感じる。
ダンスの間にマリオンを引き合いに出され、ふたりで話がしたいと露台に誘い出された。
オリビアから聞かされたのは、なんとも身勝手な話だった。そしてその内容に、カイルは決して小さくはない衝撃を受ける。
中庭は遠くまで見渡せるように、背の低い植物が植え付けられている。
陽の落ちた今は、高い鉄柱の先に吊るされたランプに小さな火が灯り、濃紺の宙に黄色の粒々が浮かんで見えていた。
昼間の空気を拭い去ろうと、涼しい風が時折ゆるく通り過ぎていく。
何もない宙空を睨んで、カイルが見ていたのは別のものだった。
突然に居なくなった祭りの夜から、王宮の温室で再び会うまでの。
カイルは知り得ない、マリオンの五年間。
どれほど苛烈で残酷であっただろうか。
大魔女様の再来と言われようが、実力が桁違いだろうが、マリオンは十五だった。
白くて小さくて、握れば潰れそうな薄っぺらな手をした、守られるべき人だった。
そんな人を戦場に、最前線に送り出したのが自分なのかと考えると、心臓を掻き出して、首を斬り落としてやりたくなる。
吐き出しそうな体の中身や、思いや言葉を、歯を噛みしめて飲み込んだ。
もう立っていることすら辛い。
大きな窓が開き、誰かが露台に踏み出した。
吐き出されたため息と、どこかに寄り掛かったような様子で、それが誰なのか、長い付き合いがあるので振り返らなくてもすぐに知れる。
「あら〜……やっぱり落ち込んでる」
「…………しばらく放っといてくれ」
「マリオンも放置されてるけど?」
「…………何かあったか?」
「ん〜? 余計なこと考えて滅入ってんじゃないかって話したんだけど、案の定だな!」
「……全部、俺の所為だ……」
「あは……思った通りか、このお馬鹿!!」
「知ってたのか?」
「何を? 知ってたらその時に何かしら行動してたわ。お前だってそうだろうが、このお馬鹿の中のお馬鹿!!」
「…………本当に、なんて馬鹿なんだ」
「うわ! 認めた!! 弱ってる!!面倒くさ!! ……ねぇー、あのさー。何て言われたのさ、オリビア夫人に……お前が好きで、マリオンに意地悪しちゃったとか?」
「……そうだ」
「子どもの頃のことだから許してねってか」
「その通りのことを言われた」
「お前なんて返したの」
「マリオンに謝罪を、と」
「は! 自尊心の高いお方だからね、無理じゃない? てかマリオンには一歩も近寄らなかったし」
「……そうか」
「お前に懺悔して、もう無かったことにしたいんだろうよ……戦に出したのがオリビア夫人じゃないかって噂が流れて、最近ずいぶん風当たりも強いみたいだし」
「簡単に許されることじゃない」
「許す、許さないの話じゃないの。お前の方に話を持ち掛けたのが証拠だよ」
「どういう……」
「周囲に許しを乞うたと見せかけてるだけ。まだまだ嫌がらせは続行中だろ」
「そうなのか?」
「現に今、お前は自分を責めてるじゃないか」
「……当たり前だろう」
「なんで当たり前? お前が嫌がらせしたんでも、させたわけでもないのに」
「させたようなもんだ」
「うわーやだやだ、俺は悪い男だとか、浸ってんの? 気持ち悪ぅ〜」
面倒くさいと息と一緒に吐き出して、リックは露台から去ろうと体の向きを変えた。
行きかけて、思い出したようにそうそうと振り返る。
「マリオン、なんか声かけられてたぞ。近衛の〜、名前なんてったっけ……王妃付きの男前」
「……それを何よりも先に言え」
露台の出入りの辺りでリックを押し除け、先に会場に入る。
ちゃんと話をしろと後ろからかかった声に、カイルは何も言わず頷いて、真っ直ぐにマリオンの元に向かった。
マリオンは同じ場所、壁際から動かずにいた。真前に立ったが、どう声をかければいいのか、どう触れればいいのか分からない。
「とりあえず踊りますか」
「……話を」
「それは後にしましょう。まだ私と仲良しさんする気はありますか?」
「…………ああ」
手を出すと、その上にマリオンの手が重なった。柔らかく包むように握る。
中央に歩み出て、向かい合い姿勢を整える。
「私、踊れる気がしないんで、ちゃんと押したり引いたりして下さいね」
「任せろ」
「もういっそのこと、最初からカイルの足の上に乗ってても良いですか?」
「…………ならこうするか」
子どものように抱えて持ち上げると、マリオンは子どものように笑う。
笑ってくれたことで、安心して歪みそうになる顔に力を入れた。
泣いてしまわないように。
いつもとは逆に、マリオンの手がむにむにとカイルの頬を摘んだ。
「これじゃあ私は踊ったことになりませんよ。こういう場のダンスって、ふたりでするものじゃなかったですか?」
「…………そうだな」
ゆっくり丁寧に床に下ろして、しっかり手を握り、ぴたりと引っ付くように腰に腕を回す。
「足元なんか見えないから適当にしてろ」
「心配しなくても一歩目を引くくらいは覚えてますよ」
「なら充分だ」
一曲目が途中からだったので、続けてもう一曲踊る。
その後はまた壁際に行って、マリオンが好きそうなものを、ふたりで分け合ってゆっくりと食べた。
宴も中盤に差し掛かったところで、会場を後にして、マリオンの部屋に行くことになる。
魔術師側の方が会場から近いのが理由だった。
マリオンの部屋は、一箇所を除いてすっきりと、言葉を選ばなければ殺風景で彩りもない。
大きな作業台にはごちゃごちゃと、細かな何かが所狭しと乗っていたが、マリオンがそこには近付くなと言ったので、素直に従う。
カイルも騎士側に部屋を与えられているが、よく似た雰囲気だった。
机と椅子、寝台がひとつ。
腰高の窓と、扉がふたつずつ。
作業台と本棚がある分、マリオンの部屋の方が広いようにも感じる。
「花か? 薬草の匂いか?」
「……します? 私もう慣れちゃったんですかね」
「マリオンの匂いだ」
「うわ、気持ち悪いからやめて下さい」
「……そうか、すまない」
カイルに椅子を出して、マリオンは作業台の下に潜っていた踏み台のようなものに座る。
変えようと申し出ても、お客様ですからと屈託なく笑う。
背もたれのある布張りの椅子に、カイルは浅く腰掛けた。
「……いつから気付いていたんだ」
「何をですか?」
「その……クラウチ夫人のことについて」
「カイルを好きだってことですか?」
「その……ことだ」
「ずいぶん前です、最初の春には」
「な?!……そ……そうか……どうして言ってくれなかったんだ」
「まぁ、本人からは好きだとも近付くなとも、何も聞いてないですし、それに……」
「それに?」
「あの人、あの頃にはもうすでに婚約してたでしょう……叶わぬ恋だからかわいそうに……って、余計にカイルと仲良くしてやりました」
「マ……リオン」
「私だってやられっぱなしは嫌ですから」
「教えてくれれば、何か出来ることが」
「ありましたかねぇ?」
「あったかもしれない」
「告白もされてないのに振るとかですか?」
「それ……は、ただの痛い奴じゃないか」
「ほら」
「違う、他に……注告したり、止めさせたり」
「余計に酷くなりませんか、それ」
「う…………そ、うだな。でも、もしかしたらマリオンが戦場に行くことは無かったかもしれない」
「カイル……それはたまたまですよ」
「何がだ」
「遅かれ早かれ行かされましたって……あの人は単なるきっかけです」
「そんな事はない」
「私は相当な戦力ですよ? 自分でもそれは分かってます」
「そうだとしても!」
「戦はもっと前から始まってました。召集されたら行きますよ、私は。今から行けと言われても同じです」
「そんなこと許さない」
「カイルの許しなんて関係ないですよ」
「……だとしても。俺の所為で」
「ああ……カイル。やめて下さい。私の選んだ道にケチつける気ですか」
「選んだ?」
「命は受けましたけど、行くと決めたのは私です。そこに居ると選択したのも。だって嫌なら簡単に逃げられますもん、私なら。そう思いませんか?」
「いや、でも……」
「むしろ早い段階で名を上げられたんで、お礼を言いたいくらいです」
「マリオン?」
「学院にいて十七、八で卒業。そこから宮廷魔術師になったとしても、見せ場とか、結果が伴わないと。ここまでくるのに何年かかることやら……」
「そうなのか?」
「思いの外早く出世できたんで、私は大助かりですよ」
「い、いや、待ってくれ。戦場に行かなくても、マリオンの実力なら心配要らないはずだ」
「そうですね」
「なら、安全で穏やかな場所にいてほしい」
「確かに……あそこは真反対でしたけど」
「ああ……貴女は静かな場所で、したいことをするべき人なんだ」
「カイル…………やっぱり私のこと好き過ぎですね」
「そ! ……んな話をしてるんじゃない!」
「間違ってます?」
「まち……間違ってない!……じゃなくて!」
「カイルがどう思おうと、なんと言おうと、私が戦場に行ったのは自分の為です。あの人の所為でも、カイルの所為でもありません」
「……でも」
「しつこい男ですね。まだもにょもにょ言う気ですか」
「もにょもにょって……」
「……いいでしょう。責任感じるならきちんと責任を取ってもらいましょう」
立ち上がり、ローブを取って座っていた場所に置く。手袋も勿体ぶってゆっくり外した。
静かな部屋に、ぱさりぱさりと軽い布が落ちる音が響く気がする。
カイルの前に歩み寄って、マリオンはカイルの襟元に手をかける。
「マリオン?」
「責任、ちゃんと取って下さい?」
上衣のボタンを外されて、カイルはその手を止める。
「何する気だ」
「仲良しさんだと、もっともっと周りに売り込むんです」
上衣を脱がされて、シャツの襟元も広げられる。
髪も乱された。
その後は適切な距離を保ったまま、なんと言うことのない、お互いの故郷の話などをした。
そのうち朝になって、カイルは部屋から放り出される。
部屋に帰る前に稽古に出ていた部下たちに出くわして、午前は休んで下さいと、にやにやとした訳知り顔で頷かれた。
午後になって食事に誘おうとしたカイルは、マリオンがまた中央に呼び出されたことを聞く。