燕草月 終三日
ビリー。
そう遠からずとは考えていましたが。
何年も経ったからと気楽に構えていたのは甘かったです。
自分がそれなりに目立つと失念していました。
濃い緑の中に黒い影が見えて、喉の奥がぐっと締まる。
温室の扉を開けようと出した手が震えているのに気が付いて、一度強く握ってなんとか抑えた。
それでも、胸の内を破って外に飛び出しそうな、心臓の鼓動は早まる一方。
その場所をどんどんと拳で叩いて、意識して呼吸をゆっくりにした。
落ち着けと心中で叫びながら扉を引く。
地面に届きそうな真っ黒なローブ。
それよりも深い色の髪は、肩の下辺りよりも伸びて、今は手元に近い。
留め具は宮廷魔術師を示す金色。
少しほっそりと変わった面立ちは、それでも色濃くあの頃を残していた。
深い青の瞳も覚えているままだった。
「…………マリオン」
「カイル……どうしたんですか、こんなところに来るなんて」
まるで昨日も会ったような口ぶりに、目の周りが熱を持つ。
言葉を返す以前に、形振り関係無く溢れて出てしまいそうなものを堪える。
マリオンは持っていた鋏を作業台に置いて、カイルに歩み寄った。
手を伸ばして顔に触れる前でぴたりと止まる。
「カイル背が縮みました?」
「…………マリオンが伸びたんだ」
「久しぶりに会った人への常套句ですよ……痛むでしょう?」
マリオンの右手が、カイルの左のこめかみに当てられる。そっと撫でるようにされただけで、楽になり、そうなってこれまで常に鈍痛がしていたことを思い出した。
「古傷ですね……悔やまれます」
「……やめてくれ」
そっとマリオンの腰に腕を回し、肩口に顔を埋めて、力いっぱい抱きしめた。
それでも離れないマリオンの手に、自分の手を重ねる。
「見えてます?」
「いや……何も」
小さく息を吐き出すと、もう一度悔やまれますとこぼして、大きな傷痕を慰る手つきでそっと撫でた。
三年前に負った太刀傷は、左眼と、最前線に行く機会をカイルから奪っていった。
「……貴女の近くにすら行けなかった」
「当たり前ですよ。誰が王宮の騎士を最前線に送りますか」
「違う……騎士団に入ってすぐ、前戦に志願した……なのにあの地を踏むことすら出来なかった」
後方でもたもたと、敵国の捕虜の相手や、自国の民の暴動を抑えるだけの日々。
西の海岸線は熾烈な戦場だったが、それを有する領の外は、死に直面した緊張感とは程遠い。
逃れた領民と戦で稼ぎにきた傭兵とが溢れ、粗雑な町が形成されていた。そこでは絶えずいざこざが起きる。
前線への補給すら、交代要員として送りこまれる下級の騎士か雇われた傭兵が担っていた。
カイルはその中で年端もいかぬ少年兵から太刀傷を受ける。
戦場に出たことにより心を病んでいた少年兵は、騎士に傷を負わせたと、カイルが手当てを受けている間に制裁を加えられ、話を聞き及んだ時にはすでに死んでいた。
誰を恨むことも出来ず、何も成すこともないまま、カイルに帰還命令が下った。
「……だから……立派な名家の騎士様を戦地になんか行かせますかって」
「貴女は行った!」
「私は騎士ではありませんから」
これまでの頑張りは間違っていたのかと何度も考えた。
どうしても戦場には行けない。なら騎士である必要はどこにあるというのか。
でも騎士で無くなればマリオンの側にすら立てなくなる。
そうリックから説かれては、なんとか不条理を飲み下して、騎士としてやっていくしかない。
ましてや己の甘さから負傷してしまった。
王城に戻されて回復を待ち、今度こそ最前線にと何度も志願したが、その許可はついに下りないまま、マリオン帰還の報を受ける。
頭部を負傷、しかも左眼を失う。
そんな見目では王族方の影がちらつく付近を歩くことすら許されない。
カイルは輝かしい表舞台から離れ、裏方に回り、後進の騎士を育てること、そこに心血を注いでこれまでを過ごしてきた。
マリオンが帰還したと聞いても、大手を振って会いに行ける自分では無いと、鬱々とした想いを抱えたまま、時間だけが過ぎていく。
それでもひと目、無事な姿だけでもと魔術師が多くいる辺りを、王城に出仕して初めてうろついた。
広い裏庭、建物の向こうに温室の屋根の端を見つけ、その後はもう何も考えられない。
「マリオン」
「……はい?」
「マリオン」
「なんですか?」
くすくすと笑っている細かく震える身体を、もう一度ぎゅうと抱きしめる。
「貴女が生きて帰ってきてくれて、こんなに嬉しいことはない」
「私は大魔女様の再来ですよ?……当然です」
「……そうだったな」
「私もカイルに会えて嬉しいです」
「……うん」
昼を告げる鐘の音がうっすらと聞こえる。
マリオンは顔を上げると、またくすくすと笑い出した。
「もしかして昼の食事に誘いにきたんですか?」
「はは……そんなつもりは無かったが……そうだな、行こうか?」
「……まぁこの後も予定は特に無いので。構いませんよ。……ビクターは?」
濃い緑の茂みの向こうからおいコラと声がする。
「邪魔だと思って気配消してたんだろが」
「黙って行くのもどうかと思ったんだけど?」
「お前、それくらいの場の流れは読めよ」
「は? 私に言った?」
「他にお前が居るのかよ」
「で? どうするの?」
「……俺いい……てか、行くか馬鹿……」
いってらっしゃいとふらふらと振った手が茂みの向こうに見えて、すぐにがさがさ音を立てて今度こそ本当に気配を消した。
見えていた手は真っ白で、陶器のようにつるりと光沢があった。
「……彼も帰ったか」
「そうですね、優秀なので。私には及びませんが」
「腕を?」
「手首から先ですね。利き手じゃなくて幸運でした」
「そうか……」
「行きますか」
「……うん」
マリオンの右手を取って握り込むと、そのまま出入り口に向かって歩き出す。
「えぇぇぇ? さすがにこの歳ではぐれたりしませんよ?」
「……急に居なくなる。心当たりがあるだろう?」
「はぐれた訳じゃありません」
「……そうだな」
「これは恥ずかし過ぎますよ」
「そうか? 良いだろう、仲良しさんなんだから」
「今さら突っ掛かられるとか面倒なんですけど」
「……何の話だ」
「わあ! 気付いてない!!」
「何がだ」
「……何でもないです。教えてあげてもいいですけど、今じゃないです……ていうか、だから離して下さい」
「断る……だからって何だ」
「そこらのお嬢さんたちから恨まれたく無いんですよ」
「何言ってんだマリオン?」
「うわぁ!素だ!!……怖い!!」
学院にいた月日よりも、離れていた月日の方が長い。
それなのに時の隔たりを感じさせない会話に、マリオンの様子に、カイルは思わず口の端が持ち上がる。
長い間こんな顔の形を作らなかったので、引きつった感じはするが、忘れていなかったのかと自分自身を鼻で笑う。
大きくため息を吐き出したマリオンの手を引いて、カイルはどこの食堂にしようかと思案する。
魔術師が多くいる辺りも、騎士が多くいる辺りも、どちらもどちらかが目立ってしまう。
ならば美味しいものがある方にしようと、前向きに考えた。
「何が食べたい? マリオン」
「うーん……外行きましょう、外!」
「外?」
「町に出ますよ! 面倒ですから」
同じようなことを考えていたのかとカイルは嬉しくなったが、マリオンが心配していたのはもっぱら、カイルを慕う少なくはないだろう誰かさんたちのことだ。
首元の留め具を外すと、マリオンはローブを脱いで、頓着なくその辺りに放り投げた。
地面に落ちる前にその場から消える。
服装は町にいそうな、簡素な女性の格好だった。
「いいのか、ローブは」
「邪魔くさいので良いです。カイルは……まぁいいか、このままで」
「今から町についた頃には昼時を過ぎるぞ?」
「こっそり私が連れて行ってあげます……内緒ですよ?」
目を閉じてと言われ、素直に従うと手を引かれてそのまま足を踏み出した。
ゆらりと空気が一変する感覚、耳の中できーんと高い音がする。
内臓が持ち上がる感じがして、驚いて目を開けた。
そこは小さな部屋の中だった。
「ここは?」
「あ! 目、開けてる!」
「いけなかったのか」
「ここは見なかったことにして下さいよ」
「なんだこの部屋」
扉がひとつ、向かい側に腰高の窓。
床や壁、天井も木製で、家具は何も無い。普通に歩いても五歩ほどで端まで行けそうだ。
「城都に出る時用の門を作ってあるんです」
「転移門?」
「そうです。町なかに急に転移したら、人とか馬車なんかにぶつかりますし、じゃあひと気の無いところ、ってなると中心まで行くのに時間がかかるでしょう?」
「……なるほど」
「みんなでこっそり使ってるんで、ここの事は内緒にして下さいよ」
「城の魔術師たちでか」
「はい、便利なんで。だから誰にも喋らないこと!」
「……分かった」
「絶対ですからね!」
「……約束する」
細く長い廊下を歩き、いくつも扉を通り過ぎる。窓の外は隣の建物の屋根の部分。廊下の突き当たりを折れ曲がって、すぐに階段があった。
寮のような雰囲気だから、広さから見ても単身用の安価な集合住宅だろうとあたりを付ける。
あえて言葉にはしなかったが、借りている部屋なら確かに都合が良いだろう。
もし知れたとしてもすぐに場所を変えられる。城都ならこのような部屋はいくらでもある。
「……賢いな」
「そりゃそうですよ」
「どこに連れて行ってくれるんだ?」
「そうですねぇ……カイルは何が食べたいですか?」
「特に無いな……マリオンが食べたいもので良い」
「うーん。私も特にこれってのが無いんですよね」
「あちこち見て良さそうな所にするか」
「そうですねぇ」
やはり手を繋いだまま町の通りを歩く。
表通りの小綺麗で高そうな店は、何となく暗黙の了解で避けた。
奥にある少し細い通りの、こじんまりとした、良い匂いが漂っている店の前で、顔を見合わせる。
どちらともなくその店に向かって、久しぶりに小さな卓を挟んで食べた食事は。
味なんてカイルにはちっとも分からなかった。