文久3年2月



将軍警護の名目で集められた隊士200名余りが『浪士組』として京に入った。





しかし、浪士組の発案者の清河八郎には裏の企みがあった。




その企みを阻止するため、浪士組は京に到着して間もなく江戸に戻ることとなった。




これに対し、本来の目的である将軍警護のために京都残留を決意する者たちがいた。