母は女手一人で私を育てた。
仕事に家事に、私の参観日にも来てくれたりと、休む暇もない生活が続いた。
でもこれは今に始まったことじゃない、離婚する前ずっとこのサイクルだった。
かねてから育児に関してもっぱらノータッチだった父だ。状況は以前とさして変わらない。
けれどもそれは表面上の話で、母は父を失ったことで何かが変わってしまった。
なにか、というと、父がいなくなったことは、それだけで母の精神を危うくしたということだった。
つまり、私だけで母を支えることが出来なかったのだ。
繊細で変化に過敏な母が限界に達していたのは火を見るよりも明らかだった。
お皿を割り、過呼吸を引き起こし、精神が、身体が、私を見る眼差しが、いとも簡単に、崩れ壊れていった。
気持ち的にも体力的にも………何もかもが限界だったのだろう。
その時の母は見るにたえない歪んだ表情で部屋の隅でうずくまり、私が声をかけてもまるで聞こえてないみたいだった。
母が私と口を聞いてくれたのは、キャスターのついた大きなカバンを引きずって玄関扉を開けた時だった。
ふと思い出したように振り返って「じゃあね庵歩」と微笑んだ。
『まってよ! もう、お母さんの嫌がることはしないから!!』
いくら叫んでも私の声は届かない。玄関が閉まり、私の声も断絶された。
────小学四年生の時、私はひとりぼっちになり、そしてシナモンケーキが大嫌いになった。
その頃からだった。人の嫌いなものは徹底的に避けようと意識しだしたのは。
いや、それはほとんど無意識でやっていた。
誰が、なにを嫌いか、一切の神経を研ぎ澄まして観察するようになっていた。
嫌われることが、人が離れていくことが、なによりも怖かったからだ。
身近な人が、こうも簡単に離れていってしまうのだと。
子供の生きる世界の全て、と言っても過言ではない母でさえ私の前から簡単に去っていく。
まるでポイ捨てするみたいに私を置いていくのだと。
それを理解すると同時に「優しくありなさい」という言葉を理解した。
私にとっての優しさは露骨なそれではなく、人に嫌な思いをさせないという点に、限りなくフォーカスした『偏った優しさ』だった。
私は、珠手に嫌われたくなかった。
いつの間にか隣にいて「なあ、庵歩」と嬉しげに話しかけてくる珠手が、知らず知らずのうちに、しかし確実に、私の大切な友人になっていた。嫌われたくないと思う存在だったのだ。