雨が好きだ。

誰の元にも平等に降る。

生者にも、死者にも。







傘を畳んでいると、隣に人が並んだ。雫のついたフードを脱ぎ、少し頭を振る。犬みたいだ。

その様子を見ていると、見返される。

「あ、おはよう、ございます」
「はよ」

面倒くさそうに返事をする。
私と会話するのがそんなに嫌ですか、そうですか。
というより、誰に対してもこんな感じで、業者さんからも反感を買ったりする。

業務に支障が出るから少しは愛想良くしてほしい。


ビルに入る背中についていく。

エレベーターの前で止まった。後ろから足音がして、振り向けば所長の姿。

「すごい降ってるねえ、おはよう。ノアとイヴ」
「おはようございます」
「はよーございます」

欠伸を噛み締めながら、ノアさんは挨拶を返した。

この人、今年からうちに異動になり、私の直属の上司となった。

なんでもこの愛想の無さで各所を盥回しにされたとか。
それが原因で更に上司と揉めたとか。

噂好きの受付、トリーの話なので鵜呑みにはできないけれど。

「雨だけど、二人は今日外回り?」
「はい。三件入ってます」
「気をつけてね」
「気をつけます」


エレベーターに乗り込み、5階で降りる。

入口でタイムカードを切る。
受付のトリーが雨の月曜の朝すら吹き飛ばすような笑顔で挨拶をしてくれた。

「おはようございます。今日も良いお仕事を」







ノアさんが車のキーを持ったのを見て、私も立ち上がる。仕事道具の入った鞄を持とうと手を伸ばせば、先にノアさんが持ち去った。

空に残った私の手が可哀想に思える。けれど取ってくれる人もいないので、引っ込める。


所長に「行ってきます」と言い置き、ノアさんは部署を出る。私もその背中を追った。

受付のトリーが顔を上げる。

「行ってきます」
「行ってらっしゃい。気をつけて」

ノアさんがエレベーターに乗っているのが見え、小走りで乗り込むと、ちょうど扉が閉まった。

地下の駐車場へ行き、社用車に乗る。
後部座席に鞄を放り込むノアさんが運転席へ乗るまでにナビをセットした。

「ノアさん、傘は」
「あ?」
「傘、持ってきてます? 屋外ですけど」
「持ってきてねえ」

その返事と共に車のエンジンがかかる。
いや、返答にはなっていない。


大人ならば、『だからどうする』まで答えるのが道理だ。

まあこの人に、普通とか道理を求めるほど、私も労力があるわけではない。

私たちの大抵の業務内容は水質・土壌調査だ。ありとあらゆる場所、下水から家の花壇まで調べる。

雨がフロントガラスに当たる。動き出したワイパーが煩わしそうにそれを捌き、また捌く。
何周かワイパーの動きを追って、窓の外を見た。

サイレンの音。
静かな車内にも聴こえる。

――本日 は、終戦から 三年が、経ちました

遠方に見える信号が青になるが、車が動く気配はない。
皆、役所からの放送に耳を傾けている。


隣のノアさんも静かにただ前を向いていた。

あれからもう三年経ったのか。

昨日のことのように思い出せるところと、そうでないところがある。
夢なのか、現実なのか。

私の手から夢はさらさらと溢れ落ちて、現実だけが掌に残った。

他の人はどうなのだろう。
失ったものが多い、お終いだった。

――1分間の、黙祷を捧げます

信号が黄色に変わり、赤になる。

戦争の影響で、というより戦闘機などで散った有害物質が飛び、人体には然程影響が出なかったが、土壌や水質には影響を齎した。

水の国と呼ばれたのも、かつてのこと。