甲高い音を立て、叩き落としたのは一本の矢。
 声なき悲鳴を上げたイネスを抱き寄せ、すぐさま周囲へ瞳を巡らせる。矢が飛んで来た方向に目を凝らせば、黒い人影が木々の間をさっと通り抜けた。

「……ふん、舐められたもんだね。ゼルフォード卿がいなければ容易いとでも思われたかな」
「す……すぐに騎士団へ知らせます。もしかしたらユスティーナ様が仰っていた脱獄囚の手先かもしれません」

 脱獄囚──エルヴァスティから追放されたとかいう、物騒な男のことかとサディアスは小さく舌を打つ。オーレリアが白昼堂々襲われた日以降、ヨアキムを筆頭に捜索が続けられていたが行方は掴めていなかったはず。
 アイヤラ祭に乗じて姿を現す可能性は十分にあったが、何故オーレリアではなくこちらに刃を向けてくるのだろうか。イネスが精霊の愛し子であるという話は聞いていないし、サディアスを狙うのはもっぱら教会の過激派や対立派閥の貴族であって、さすがにこんなところまで追ってくるとは考えづらい。
 有り得ないと切り捨てることが難しいのも、また事実だが──。

「──大地を巡る導きの翠風よ、かの人を我が元へ導きたまえ」

 錫杖の鳴る音と、囁きかけるような声がサディアスの思考を中断させた。
 ちらりと腕の中を見れば、思ったよりも落ち着いた表情のイネスが精霊の光に包まれている。淡い緑色の光が広場の方へ飛んでいくと、再び緊張がこの場を支配した。

「イネス、なるべくここから動かないでね」

 サディアスが彼女から半歩離れた瞬間、どこかで引き絞られた弦が弾かれる。その音を正確に捉えつつ振り向けば、曲射された矢が上空から降ってきた。同時に左方向から迫る足音を知っては、即座に優先すべき敵を判じる。
 サディアスは茂みから飛び出してきた男を待ち伏せ、勢いよく振り下ろされた剣を横へ受け流した。僅かに生まれた隙を突いて脇腹を蹴り飛ばし、そこでちょうど頭上に降ってきた矢も弾き返す。
 直後、後方の木陰から雄叫びと共に剣が振られ、寸でのところでサディアスは攻撃を躱した。立て続けに繰り出される重い一撃を今度はしっかりと受け止めたものの、相手の持つ大きく反り曲がった刃はサディアスの剣からするりと脱け出してしまう。

「……っ何だ、やりにくいな」

 帝国で生産されている直剣とはどうにも勝手が違う。刃毀れを起こす覚悟で斬り合いに応じつつ、サディアスは初めて男の顔を間近に認めた。
 刺青(いれずみ)だ。
 その者の狩りの腕を示すという獣の毛皮、顔や腕に彫られる特徴的な紋身。記憶違いでなければ、これは──。

「殿下っ」

 錫杖の音と共にカッと背後から強い光が射し、直にそれを目にした男が呻く。相手が怯んだところですかさず剣を振れば、男の持つ武器が大きく弧を描いて飛ばされる。鋭い刃があだとなり、武器は樹木の幹に深々と突き刺さった。
 イネスの援護に感謝しつつ、サディアスが残る一人を相手にしようとしたときだ。

「サディアス殿下!!」

 聞き慣れた声が割って入る。見れば護衛騎士の三人と、エルヴァスティの王宮騎士団がこちらへ駆け寄る姿があった。
 あれ、と思ったときには既にサディアスの頬を冷たい風が掠め、藍白の髪が視界を横切る。
 今にも皇太子の首を飛ばさんとしていた男の間合いに踏み込み、銀色の騎士が目にも止まらぬ速さで剣を振り抜いた。
 双方の刃がかち合ったのも束の間、力負けした男の武器が弾き飛ばされ、積雪に突き刺さる。忌々しげに舌を打った男は、しかして即座に距離を取るべく後退した。
 かと思えば潔く皇太子の首を諦め、暗い森の奥へと姿を消してしまう。無論、他の刺客も忽然といなくなっていた。
 何とか事なきを得たサディアスは、ほっと胸を撫で下ろすイネスを視界の端に留めながら、銀騎士──エドウィンに声を掛ける。

「ゼルフォード卿、悪いね。助かったよ」
「いえ。それよりも殿下」

 予想通りというべきか、やはり彼の表情は険しかった。何せエドウィンは()()()()()()()()()()()のだから、当然の反応だろう。

「──キーシンの戦士が何故ここに……」

 ほんの数か月前に一区切りがついた、メイスフィールド大公国とキーシンの戦。王子の敗走によって互いに矛を収めたものの、かの民は未だに帝国や教会を打倒せんと動いていると聞く。
 残党がエルヴァスティ方面に逃げたという報告はあったものの、よもやこれほどまでに早く皇太子の命を狙ってくるとは誰も思わなかったことだろう。
 否、どう考えても時期尚早なのだ。戦で深手を負った王子の回復を待たずして、血気盛んな配下が勝手に動いたとでも見るべきか。
 ──それとも、別件で動いていたところに皇太子の姿を偶然見つけ、好機を逃さぬように……?

「皇太子殿下、イネス殿と共に寺院へお戻りください。道中、我々もお守りいたしますゆえ」
「……仕方ないか」

 王宮騎士の言葉に頷き、サディアスは広場の方を一瞥する。町の住人にこの騒ぎを悟られれば混乱が起きるのは必至。出来るだけ静かに事を進めねばならないだろう。
 騎士らが忙しなく周囲の哨戒を始める傍ら、戸惑い気味のイネスに手を差し出した。

「悪いね、また僕絡みだったようだ」
「あ……」

 彼女は逡巡の末にかぶりを振り、素直に手を重ねる。

「……今回はお力になれて良かったです」
「今回()だよ、イネス」

 すっかり冷え切ってしまった彼女の手を握り、サディアスは護衛騎士と共に寺院へ向かおうとしたのだが──雪道の向こうから一心不乱に駆けてきた人影が、更なる凶報を彼らにもたらしたのだった。

「イネス様!! こ、光華の塔に怪しげな者たちが現れて、た、大変なことに!」
「え……!?」