今より十七年ほど前のことだ。
 魔女狩りがようやく収束の兆しを見せ始めた頃、ある一家が皇宮に保護された。彼らはイーリル教会の異常な弾劾から逃れるべく国境を超えようとしたが、あと少しのところで捕えられてしまったという。
 そしてあわや一家揃って拷問に掛けられるところを、現皇帝シルヴェスターが救い出したのだ。
 しかし──教会の恐ろしい狂気に晒された家族は、しばし人間不信に陥っていた。恩人である皇帝に感謝こそすれど、どこにイーリル教会の者が潜んでいるか分からぬ状況下、一歩も部屋の外に出ないことも珍しくなかった。

「何してるの?」

 そんな折、件の一家が滞在している部屋から遠く離れた廊下で、当時まだ六歳だったサディアスは(うずくま)る少女を見付けた。
 人目を避けるようにして震えていた娘は、恐る恐るこちらを振り返る。
 亜麻色の髪に、冬空を彷彿とさせる薄氷色の瞳。
 保護されたクレーモラ家の一人娘だと、サディアスはすぐに悟った。

「迷子?」
「……あなたは……?」

 ぽろぽろと涙を溢れさせているのに、絞り出した声は自分よりも大人びていた。
 サディアスはじっと娘の泣き顔を見詰めた後、ようやく質問の意図を理解する。

「アスランだよ」

 皇宮内を自由に歩き回るために、彼は地味な茶色のウィッグを被っていたのだった。これなら貴族の子女に扮して、衛兵に見逃してもらえる確率が上がるから。
 誰彼構わず素性をばらすのは良くないと判断した上での偽名申告だったが、それが思いがけず良い結果を生むこととなる。

「アスラン……? ……お城に暮らしてるの?」
「うん、そんな感じ。迷子なら送ってあげよっか」

 声を掛けてきた少年の方が一つ二つ年下だったこともあり、途端に羞恥が込み上げてきたのだろう。少女はごしごしと涙を拭い、か細い声で「お願い」と呟いたのだった。
 その日はさっさと少女を部屋に送り届けて終わったのだが、サディアスは翌日もふらふらと彼女の部屋を訪ねていた。何となく、今日も泣いていないか気になって。
 そんなことを連日繰り返しているうちに、少女は段々と本来の性格を取り戻していったように思う。
 幼い訪問客を明るく迎え入れては、両親から淹れ方を教えてもらったという紅茶を振る舞ったり、サディアスの衣服の乱れを手際よく直したり、故郷のことを懇切丁寧に話したり。
 姉がいたらこんな感じだったのだろうかと、サディアスは身分を明かすこともすっかり忘れて少女との些細な会話を楽しんでいた。

 ──それからしばらく経ったある日のことだった。

 いつものように少女の元へ向かおうとしていたサディアスは、ほんのわずかな違和感に気付いて立ち止まる。
 衛兵の位置が違う。居住塔の入り口を守るのは、器用にも立ったまま居眠りをする青年だったはずだが、奇妙なことに彼の姿もない。
 知らぬ間に配置換えがあったのだろうか。サディアスが首を傾げながら、そっと衛兵の死角に入り込もうとしたとき。

「騒ぐなよ、サディアス皇子」

 予期せぬ方向から腕を引っ掴まれ、あっという間に組み敷かれる。喉元に鈍く光る刃を押し付けられたことを知り、サディアスは動揺を押し殺したまま背後を窺った。
 ──教会の手先か?
 皇帝が武力行使によって魔女狩りを鎮圧したおかげで、教会の皇室に対する反感が膨れ上がっているとは聞いた。だがまさか皇子であるサディアスを直接狙いに来るとは、これは自らの油断を呪うしかあるまい。
 さてどうしたものかと、衛兵が異変に気付くまでの時間稼ぎを考案しようとしたときのことだった。

「アスランから離れて!!」

 金切り声が上がる。
 辛うじて見えたのは、青褪めた少女がナイフを握り締める姿。情けないほどに震えた切っ先を刺客に突き付け、少女は不思議な呪文を口にした。

「な──凪にもゆる裁きの紅炎、つ、罪深きものを……」
「貴様……魔女の子どもか! ちょうどいい、貴様は聖下の前に引き摺り出してやろう」

 サディアスの腕を強く捻り上げたまま、刺客が少女へと左手を伸ばす。
 逃げろと叫ぶよりも先に、恐怖を極めた少女がナイフを振り乱す方が早かった。鋭い刃が男の手のひらを斬ったことにも気が付かず、少女は呪文の先を唱えてしまう。

「罪深きものを祓いたまえ!」

 涙声が響き渡った直後、サディアスの視界に現れたのは──無数の光だった。
 時が止まったかのような静寂の中、紅き光は少女を一瞥し、やがて床に滴った血の主を探して振り返る。
 そこから何が起こったのかは、あまり覚えていない。
 凶悪な笑みを浮かべていたはずの刺客が悲鳴を上げ、忽然と()()()左腕を求めてもがき苦しむ。そのときには既に光は立ち去っており、ただひたすら苦悶に満ちた声だけが木霊した。

「……イネス、いま何を……」

 我に返ったサディアスが呆然と尋ねると、少女は生気を失った顔でかぶりを振る。初めて出会った日よりも酷い顔色に、サディアスはそれ以上の言葉を紡げなかった。
 ──そこで助けてくれた礼を述べていれば、彼女も救われたのかもしれない。
 クレーモラ一家はサディアスの命を救った栄誉を讃えられたが、当の娘は塞ぎ込んでしまったという。ほどなくして魔女狩りが完全に鎮静化したことを機に、一家は皇宮を去った。
 その際、別れの代わりに届けられた美しい宝石が、精霊術師の創るお守りだということをサディアスが知ったのは、数年も後のことだった。