「──どうしたの? リア」

 完成した香水の瓶を手にしたまま硬直するリアに、イネスが不思議そうに声を掛けた。
 丸い瓶底から仄かに煌めく、琥珀色の水。手首にひとしずく落として馴染ませてみたが最期、嗅ぎ覚えのありすぎる香りにリアは赤面してしまった。
 ──エドウィンの匂いだわ、これ!
 ベルガモットをベースにした、少し苦味を含んだ柑橘の爽やかな香り。紳士用よりも甘やかな香気が付加されているものの、それほど鼻が利くわけでもないリアにとってみれば殆ど同じである。
 深く考えていなかったとはいえ、恋人でもないのに同じ香水を買ってしまったリアは凄まじい混乱と羞恥に苛まれ、店から出るや否やイネスに抱きつく。

「イネス、ど、どうしよう、私、私の知り合いと同じ匂いがしてる」
「ん……? 嫌なの?」
「え!? ううん、断じて嫌とかじゃなくて、ちょっとあの、ムズムズする……」

 ただでさえリアは紫水晶の耳飾りを見るたびに、頬を掠めた指先やら間近に迫った菫色の瞳やら、いろいろと思い出して動揺しているというのに。香りまで傍にあると、今度は抱き締められたときの感触が蘇ってしまいそうだった。
 寒さで赤く染まり始めた鼻先に、イネスの手袋がそっと押し付けられる。一人で慌てていたリアがおろおろと視線を持ち上げれば、薄氷の瞳が快晴を背に微笑んだ。

「リアが好きな香りなんでしょう? なら気にすることないわ」
「そう……?」
「ええ。さっ、お腹が空いたわね。どこかでお昼にしましょ」

 よしよしと頭を撫でられながら、リアは小さく唸る。とりあえず手紙には書かないでおこう、と香水を懐に納めたとき、ふと彼女らの耳に騒々しい音が舞い込んだ。
 広場から伸びる街路を覗いてみると、その奥で何やら人集りが出来ていることを知った二人は、つい顔を見合わせた。

「何かしら」
「あそこって確か酒場よね? イネス、行ってみよ!」
「野次馬は良くな……あっ」

 乗り気でないイネスの手を引いて、リアは人混みの中へと突入する。
 傭兵の溜まり場になりやすい酒場周辺だと言うのに、集まっているのはどちらかというと女性が多いようだ。何か見世物でもやっているのだろうかと、リアは爪先立ちになって観衆の視線を追う。
 すると見えたのは、別に見世物でもなければ誰かが演説をしているわけでもなく。武装した数人の騎士が、暴れる男を取り押さえている場面だった。

「喧嘩でもあったのかな?」
「物騒ね……あら? あそこにいるのアハトじゃない?」

 イネスが指差した先には、確かにアハトの姿があった。真剣な表情で同僚と話していると、いつもリアに嫌味を言ってくる男と同一人物には見えない。
 幼馴染の真面目な勤務態度にリアが感心したのも束の間、爪先立ちをしていた足がふと揺らぐ。踵を下ろせば今度は凍った石畳で靴裏が滑り、慌てて転ばぬよう後退したならば、イネスとの間にずいと人が割り込んでしまった。

「あっ、イネス──」

 咄嗟に呼び掛けようとしたリアの手首が、誰かに強く掴まれる。
 骨が軋むような痛みに驚き、彼女が振り返った先にいたのは──。