「エドウィン!?」

 血の気の引いた顔でリアが振り返っても、やはりエドウィンの姿はない。まさかこの扉を開いた瞬間、影の精霊に勾引(かどわか)されてしまったのか。何故火の精霊をすぐに放り込まなかったのだ、もっと注意すべきだっただろうと自責の念が次々にリアを襲う。

「そ、そんな、エドウィ──ふべぇっ」

 しかして混乱する彼女の顔面に、まるで思考を中断させるかのように何かが飛びついた。
 続いてちんまりとした感触に頬や鼻をぷにぷにと押され、場違いな癒しにリアは異なる焦りを抱く。慌てて顔に張り付いている真っ黒な物体を引き剥がせば、きらりと見覚えのある石──四大精霊のアミュレットが影獣(えいじゅう)の首に輝いていた。

「あ!? エドウィン!? 獣になっちゃったのね!?」

 こくこくと頭を上下させたエドウィンは、幸い今回も意識がはっきりしているようだ。驚いたことにアミュレットだけはそのまま形を残しており、獣の周りに浮いている靄と反発するように輝く。
 影の精霊の領域内でエドウィンが自我を保っていられるのは、ひとえにアミュレットの加護が発揮されているからだろう。死に物狂いで作った甲斐があったと、リアは大きく胸を撫で下ろす。
 何せ今、エドウィンは予兆すら無しに一瞬で獣になってしまった。これで四大精霊の加護がなかったら、今頃彼は──。

「って今はそれどころじゃないわ、さっき扉の奥に何か……!」

 エドウィンを影の精霊に奪われぬようしっかり抱き締めつつ、リアは中途半端に開いた大扉を注視する。奥の部屋からはみ出した黒い靄は、火の精霊が放つ眩しい光に触れると、すっと暗闇に戻っていく。そしてまたリアの方へ寄ろうとしては諦め、何度も同じ動きを繰り返していた。
 ──獣の唸り声は聞こえてこない。
 あれは空耳だったのだろうか。いや、確かに生温かい熱を伴った呼吸を感じたはず。大扉の向こうにその主がいるに違いない。
 とは言え、正体を確かめようにも扉をこれ以上開けるのは危険だ。こちらへ侵蝕する明確な意志を孕んだ靄に、火の精霊が対抗しきれない可能性もある。ただでさえ遺跡内は暗く湿っており、火の精霊が苦手な水もあるために力が弱まっている──。

「……一旦、サディアス様の元に戻った方がいいかしら?」

 そっと後ろを振り返る。階段を下りた先には、エドウィンの手を借りて飛び越えた奈落があった。……こちらの方が高所だ、助走をつけて跳べば向こう岸まで届くだろう。
 そう信じてリアは、ひとまずエドウィンを肩に掴まらせて、階段を駆け下りようとした。

 ──そのとき。

「う、わ!?」

 突然、リアの頭上から大量の水が降り注ぐ。
 ずぶ濡れになったリアが呆然としていれば、何処からか精霊の笑い声が聞こえてきた。状況が理解できずに周囲を見渡してみると、淡い青色の光──水の精霊がそこかしこに集まっている。

「な、何……!? 何でこんなに水の精霊がいるの!?」

 不味い、と青褪めたときには既に、リアの周りにいた火の精霊がみるみる勢いを失くしていた。火と水、相反する属性が勝るか劣るかは、単純にその数で決まるのだ。これだけ多くの水の精霊が集まっている以上、火の精霊はあっという間に消滅してしまうだろう。
 そして──光が弱まることすなわち、抑え込まれていた影の精霊が抵抗力を得るというわけだ。
 ぞくりと全身が粟立ち、リアは咄嗟に大扉を見遣る。
 しかして既に視界は黒く塗り潰されていた。
 自分が瞼を閉じているのか開いているのかも分からない。靴裏に感じていた石畳の硬さも失われ、リアは声もなく闇の奔流に押し流されていく。

「うっ……エドウィン!」

 最中、辛うじて見えた輝き。四大精霊のアミュレットだ。七彩を放つ光石(こうせき)に手を伸ばし、宙を掻きながらようやく指先が届く。

「──お前など要らない」

 不意に耳元で聞こえた、誰かの低い囁き。
 深い憎しみを宿した言葉に戒められ、リアの体が硬直する。
 あと少しのところで逃がしたアミュレットの光は、やがて消えてしまった。


 □□□


 静寂に包まれた石室。
 仄かな光に照らされ、寂然(じゃくねん)とした空間に黒い染みが落とされる。
 ぽと、と床に放り捨てられた黒い獣は、少ししてから身を起こした。
 ──一体何が起きたのか。
 暴れ馬に振り回されたときよりも激しい衝撃に晒されたおかげで、頭がくらくらとする。その場でじっと固まっていれば、やがて首にある美しい石が彼の眩暈と酔いを穏やかに癒してくれた。

「誰かいるのか」

 そこへ、どこか聞き覚えのある声が掛けられる。
 自身も同じ疑問を抱きつつ周りを見てみると、正面には巨大な祭壇があった。蛇の彫刻が特徴的な石柱と、所々が崩落した長い階段。
 獣の小さな脚でその階段を駆け上り、やがて頂上に辿り着く。

「……!」

 そこで彼を待ち受けていたのは、この上なく大きな体躯を持つ影の獣だった。
 それは決して自分の体が小さいがゆえの錯覚ではなく、巨馬や熊などの全長より数倍はあることが窺える。例えるなら──それらを優に上回る、黒き獅子だろうか。
 あまりの迫力に圧倒されていると、やがて獅子の影獣がこちらを見下ろした。

「その石……まさかヨアキムを連れて来たのか? だからここまで……ああ、口が利けぬのか。困ったな」

 獅子は暫しの黙考を経て、ゆっくりと体を起こす。併せて大量の靄が舞い、壇上に収まりきらなくなった影が階段を転がり落ちていく。
 緩慢な動きで獅子が体を避けると、そこには一本の剣が打ち捨てられていた。

「これに触れてみろ。私はとうに手遅れだが、お前ならまだ戻れるやもしれん」