──征服戦争の立役者ハーヴェイ・オルブライトは実に聡明な男だったと、クルサード皇帝シルヴェスターはしわがれた声で語った。
祖父が実弟の話を自ら語ったのは、それが初めての機会だった。
メイスフィールド大公国へ発つ前日の夜、魔女狩りを経てすっかり老いてしまった皇帝の話に、サディアスは静かに耳を傾ける。
「……もう四十年も前か……みなが各々の神を掲げていた時代、今とは比にならぬほど大陸は混沌としておったよ。儂が弟と共に周辺地域の統一に踏み切ったのも、善神を礎とした秩序ある世を築くためだった」
シルヴェスターはそのためにイーリル教会を擁し、バラバラだった異民族を善神の元へ導いた。異教徒同士の小競り合いで疲弊していた人々に、善神の優しく暖かな教えは非常に相性が良かったのだ。
無論、一柱の神のみを崇めることがどれだけ危険かは、シルヴェスターもハーヴェイも承知していた。後々教会が力を肥大化させぬよう監視をしながら、兄弟は帝国に迎え入れた新たな人々のために尽くしたという。
その傍ら、ハーヴェイは征服戦争を一日でも早く終わらせるために、休むことなく剣を振り続けた。キーシン、ライコフ、その他にも多くの国や地域を制圧していく中で、彼は滅びゆく神と人々が築いた文化を、手記に逐一まとめていたそうだ。
「儂も弟も、イーリル教以外はてんで知識がなかったが……各地に根付いた神々を知れば知るほど、消すには惜しいと思うたよ」
「……大叔父上が教会と対立なさったのは、そういったお考えがあったのですか」
サディアスの問いに、皇帝はただ頷いた。
二十九年ほど前、ハーヴェイは制圧した地域の文化や価値観の保存と再興を掲げると同時に、善神イーリルを真っ向から否定する学説を提唱している。
それが神的存在の表裏一体説──東方の精霊信仰によく似た思想を提示したことで、大公国と教会の間に初めて亀裂が生じたのだった。
「戦で各地を巡り、その身で神々の痕跡に触れた弟が……イーリルの箱庭から逸してしまうのも無理はない」
ハーヴェイは異教徒たちが信奉した神をそこに投影できるよう、イーリルの在り方そのものを変えようとしたのだろう。その動きは宗教の変遷として何ら珍しいことでもなかったが、過激なイーリル教信者からは相当な批判を浴びることとなる。
戦なき世で多様な思想を認め、分かち合う。ハーヴェイの理想はごく単純で、難しいものだった。
「そんな折だ。あの遺跡を見付けたのは」
「……遺跡?」
「バザロフ……キーシンの民が大切にしていた、太古の遺産だ。あそこに踏み入ったが最期、弟は」
──沼の如き影に飲み込まれ、二度と戻ってこなかった。
◇◇◇
「それが二十七年前。初代大公ハーヴェイ・オルブライトが没した日だよ。……表向きはね」
サディアスの語りが終わる頃、リアは手帳から顔を上げた。彼女の隣には、少々強張った表情で視線を落とすエドウィンがいる。
向かい合って座る三人の横、騒ぎを聞きつけてやって来た公子セシルも、同様にして言葉を失っていた。
「……サディアス兄様」
「何かな、僕の可愛いセシル」
「まずあなたがここにいらっしゃる理由を問い詰めたいが、まぁ良いです。おじい様がバザロフに向かわれたとは真ですか」
「陛下はそう仰っていたよ」
皇太子が神出鬼没であることは既知の事実、セシルは諦めを滲ませながらも話の本題に戻り、小さく唸る。その愛らしい面をきゅっと顰めた公子は、勢いよくリアの方を振り向いた。
「オーレリア!」
「わっ、はい、何でしょう!」
「おじい様も、やはり影の精霊とやらに誘拐されたと見るべきなのかっ?」
リアはつい仰け反ってしまったが、濁すことなく首肯する。
皆の視線が寄越されたことを知りながら、彼女はメモだらけの手帳を見つつ語った。
「寧ろ今のお話で確定したかと……ハーヴェイ様が影に飲まれた、っていうのが比喩とかじゃなければ。エドウィンもまさに、影に飲み込まれて獣になっちゃいますし」
「ゼルフォード卿が獣になる……一度見てみたい気もするな」
「目を輝かせないでくださいサディアス殿下」
穏やかな笑みで皇太子の好奇心を即座に抑え込んだエドウィンは、咳払いをしつつ視線を寄越す。菫色の双眸には、心なしか不安が見て取れた。
「リアが以前話していた精霊の誘惑、その起点がハーヴェイ様だったということでしょうか」
「ええ、多分ね。そこから大公家の人たちが影の精霊のお気に入りになったのよ。……問題はどうやって彼らを宥めるか、よね」
バザロフの遺跡に影の精霊が確実にいることは分かった。クルサード皇帝は弟が消える光景を目の当たりにしたがゆえに、断腸の思いで遺跡を閉ざしたに違いない。普通に考えれば遺跡内部に踏み込み、ハーヴェイの行方を捜すところだが──皇帝にはそれが出来なかった。
──もしも自分まで影に飲まれてしまったら、クルサード帝国とメイスフィールド大公国を治める者がいなくなるから。
兄弟は征服戦争で多くの血を浴びながら、ようやく周辺地域の統一を成し遂げたばかりだったのだ。無責任かつ無謀な行動は絶対にしてはならない。既に大公が消えていた状況なら尚更。
だからこそ今の今までバザロフの遺跡は人の目から避けられ、ハーヴェイの死の真相をも遠ざけていたわけだが……。
「……皇帝陛下は、精霊術師に相談したりしなかったんですか? ハーヴェイ様のこととか、大公家の失踪事件とかについて──あ」
言った直後に思い出す、儘ならなかった理由。リアが眉を曇らせれば、ご明察と言わんばかりにサディアスは鷹揚に頷いた。
「残念だけど、その後すぐに魔女狩りが始まった。だからこの問題に着手する精霊術師は、お前が初めてかもね」
「うっ……とてつもない重圧……」
見習い風情にどれだけ抗えるかは定かではないが、やれるだけやってみるしかあるまい。
──何か忘れてるような気がするけど。
リアは首を傾げつつも、バザロフの遺跡へ挑む準備をすべく、再び手帳を開いたのだった。
祖父が実弟の話を自ら語ったのは、それが初めての機会だった。
メイスフィールド大公国へ発つ前日の夜、魔女狩りを経てすっかり老いてしまった皇帝の話に、サディアスは静かに耳を傾ける。
「……もう四十年も前か……みなが各々の神を掲げていた時代、今とは比にならぬほど大陸は混沌としておったよ。儂が弟と共に周辺地域の統一に踏み切ったのも、善神を礎とした秩序ある世を築くためだった」
シルヴェスターはそのためにイーリル教会を擁し、バラバラだった異民族を善神の元へ導いた。異教徒同士の小競り合いで疲弊していた人々に、善神の優しく暖かな教えは非常に相性が良かったのだ。
無論、一柱の神のみを崇めることがどれだけ危険かは、シルヴェスターもハーヴェイも承知していた。後々教会が力を肥大化させぬよう監視をしながら、兄弟は帝国に迎え入れた新たな人々のために尽くしたという。
その傍ら、ハーヴェイは征服戦争を一日でも早く終わらせるために、休むことなく剣を振り続けた。キーシン、ライコフ、その他にも多くの国や地域を制圧していく中で、彼は滅びゆく神と人々が築いた文化を、手記に逐一まとめていたそうだ。
「儂も弟も、イーリル教以外はてんで知識がなかったが……各地に根付いた神々を知れば知るほど、消すには惜しいと思うたよ」
「……大叔父上が教会と対立なさったのは、そういったお考えがあったのですか」
サディアスの問いに、皇帝はただ頷いた。
二十九年ほど前、ハーヴェイは制圧した地域の文化や価値観の保存と再興を掲げると同時に、善神イーリルを真っ向から否定する学説を提唱している。
それが神的存在の表裏一体説──東方の精霊信仰によく似た思想を提示したことで、大公国と教会の間に初めて亀裂が生じたのだった。
「戦で各地を巡り、その身で神々の痕跡に触れた弟が……イーリルの箱庭から逸してしまうのも無理はない」
ハーヴェイは異教徒たちが信奉した神をそこに投影できるよう、イーリルの在り方そのものを変えようとしたのだろう。その動きは宗教の変遷として何ら珍しいことでもなかったが、過激なイーリル教信者からは相当な批判を浴びることとなる。
戦なき世で多様な思想を認め、分かち合う。ハーヴェイの理想はごく単純で、難しいものだった。
「そんな折だ。あの遺跡を見付けたのは」
「……遺跡?」
「バザロフ……キーシンの民が大切にしていた、太古の遺産だ。あそこに踏み入ったが最期、弟は」
──沼の如き影に飲み込まれ、二度と戻ってこなかった。
◇◇◇
「それが二十七年前。初代大公ハーヴェイ・オルブライトが没した日だよ。……表向きはね」
サディアスの語りが終わる頃、リアは手帳から顔を上げた。彼女の隣には、少々強張った表情で視線を落とすエドウィンがいる。
向かい合って座る三人の横、騒ぎを聞きつけてやって来た公子セシルも、同様にして言葉を失っていた。
「……サディアス兄様」
「何かな、僕の可愛いセシル」
「まずあなたがここにいらっしゃる理由を問い詰めたいが、まぁ良いです。おじい様がバザロフに向かわれたとは真ですか」
「陛下はそう仰っていたよ」
皇太子が神出鬼没であることは既知の事実、セシルは諦めを滲ませながらも話の本題に戻り、小さく唸る。その愛らしい面をきゅっと顰めた公子は、勢いよくリアの方を振り向いた。
「オーレリア!」
「わっ、はい、何でしょう!」
「おじい様も、やはり影の精霊とやらに誘拐されたと見るべきなのかっ?」
リアはつい仰け反ってしまったが、濁すことなく首肯する。
皆の視線が寄越されたことを知りながら、彼女はメモだらけの手帳を見つつ語った。
「寧ろ今のお話で確定したかと……ハーヴェイ様が影に飲まれた、っていうのが比喩とかじゃなければ。エドウィンもまさに、影に飲み込まれて獣になっちゃいますし」
「ゼルフォード卿が獣になる……一度見てみたい気もするな」
「目を輝かせないでくださいサディアス殿下」
穏やかな笑みで皇太子の好奇心を即座に抑え込んだエドウィンは、咳払いをしつつ視線を寄越す。菫色の双眸には、心なしか不安が見て取れた。
「リアが以前話していた精霊の誘惑、その起点がハーヴェイ様だったということでしょうか」
「ええ、多分ね。そこから大公家の人たちが影の精霊のお気に入りになったのよ。……問題はどうやって彼らを宥めるか、よね」
バザロフの遺跡に影の精霊が確実にいることは分かった。クルサード皇帝は弟が消える光景を目の当たりにしたがゆえに、断腸の思いで遺跡を閉ざしたに違いない。普通に考えれば遺跡内部に踏み込み、ハーヴェイの行方を捜すところだが──皇帝にはそれが出来なかった。
──もしも自分まで影に飲まれてしまったら、クルサード帝国とメイスフィールド大公国を治める者がいなくなるから。
兄弟は征服戦争で多くの血を浴びながら、ようやく周辺地域の統一を成し遂げたばかりだったのだ。無責任かつ無謀な行動は絶対にしてはならない。既に大公が消えていた状況なら尚更。
だからこそ今の今までバザロフの遺跡は人の目から避けられ、ハーヴェイの死の真相をも遠ざけていたわけだが……。
「……皇帝陛下は、精霊術師に相談したりしなかったんですか? ハーヴェイ様のこととか、大公家の失踪事件とかについて──あ」
言った直後に思い出す、儘ならなかった理由。リアが眉を曇らせれば、ご明察と言わんばかりにサディアスは鷹揚に頷いた。
「残念だけど、その後すぐに魔女狩りが始まった。だからこの問題に着手する精霊術師は、お前が初めてかもね」
「うっ……とてつもない重圧……」
見習い風情にどれだけ抗えるかは定かではないが、やれるだけやってみるしかあるまい。
──何か忘れてるような気がするけど。
リアは首を傾げつつも、バザロフの遺跡へ挑む準備をすべく、再び手帳を開いたのだった。