神秘の国エルヴァスティ。
 そこに住まう者は精霊と心を通わせることで、様々な奇蹟を起こすと言われている。かつては他の国々でも、特に医療法面において精霊術師が活躍し、一部では官職に召し上げられる者も少なくなかった。
 しかし二十五年前に起きた魔女狩り以降、精霊術師はことごとく姿を消すことになる。
 エルヴァスティの最高顧問である大巫女(おおみこ)ユスティーナが、大陸各地に散っていた精霊術師を即座に帰還させたのだ。

 ──善神の(ともがら)が聞いて呆れる。

 イーリル教会を真っ向から批難した大巫女は、それきり西方諸国の紛争に関心を示さなかった。
 魔女狩りが収束してもなお、当然のことながら精霊術師が表立って活躍する場面はなく。
 神秘の国のヴェールは以前にも増して、その不透明さを際立たせるようになった。


「その、何と言いますか……ユスティーナ様はどの国王よりも気が強い女傑だと」
「確かに大巫女様、昔はトガってたって聞いたことある」

 詳しくは知らないけど、とリアはあっけらかんと答える。そんな彼女にエドウィンは思わずといった具合に顔を覆い、神妙な面持ちで語り掛けた。

「あなたに協力をお願いしている立場で言うのも何ですが、一度エルヴァスティに帰られた方がよいのでは……」
「嫌よ、エドウィンのこと放っておけないわ。それに大巫女様は私のこと心配なんてしてないと思うし」
「え? ですがリアのお師匠殿がさっき」

 リアは無言で彼の言葉を否定した。
 師匠は昔から、リアに言うことを聞かせようとするときに大巫女を引き合いに出してくるのだ。
 嫌いな野菜を食べなければ大巫女が嘆く、泥遊びを止めないと大巫女から失望される、夜更かしすると大巫女が闇から這ってくる、などなど。
 それを真に受けた幼いリアが、大巫女の元に「許して」と泣き付いた経験は数え切れない。無論、そのたびにユスティーナは師匠を白い目で見ていたが。

「だから今回もお師匠様の策略ね。私が大巫女様にべったりだったから、よく使う手なの」
「はあ……それなら、良いのですが……」
「大丈夫! 本当なら大巫女様から直々に連絡が来るもの」

 未だ懸念を払いきれない様子のエドウィンを見上げ、リアは明るく付言する。きっと心配してくれているのだろうと菫色の瞳を覗き込めば、やわらかな笑みが返された。
 しかし。

「──エドウィン・アストリー!」

 突如として大きな声が廊下に響き渡り、エドウィンから次第に笑みが失せていく。その様の何と鮮やかなことか。あっという間に優しげな温顔から嫌そうな渋面になってしまったエドウィンは、密かな溜息と共に後ろを振り返る。
 リアが恐る恐る視線の先を追ってみると、そこには大股にこちらへ向かってくる青年の姿があった。整った身なりと付き人の多さを見るに、身分の高い人間なのだろう。
 そこでエドウィンから後ろへ下がるよう手で制されたので、リアは大人しく一歩下がっておく。

「ブレントン殿、お久しぶりです」
「は、相変わらず女のような顔だな。戦場から逃げ帰ったというのも頷ける」

 ブレントンと呼ばれた青年が開口一番に放った侮辱に、近くを通りがかった宮仕えの者たちがざわめいた。
 勿論リアも盛大に顔を顰めてしまったが、当のエドウィンが表情を一切変えていないので、ぐっと堪える。というよりも彼の纏う空気が完全に対不審者用になっているばかりに、ここは自分がしゃしゃり出る幕ではないと本能で感じ取ったまでだ。
 そしてそれは、ブレントンの後ろに控えていた付き人たちも同じだったらしい。エドウィンの冷たすぎる顔に慄き、「ブレントン様」と小さく呼び掛けていたが、青年はちっとも聞き入れない。

「何だ、離せお前たち。この男は異教徒に背を見せたのだぞ。善神イーリルの威信を掛けた戦を全うすることなく、一足先に公都へ戻り……」

 侮蔑を滲ませた笑みで、ブレントンが不意にリアへ視線を移した。

「怪しげな女と逢瀬を重ねているなど。騎士の風上にも置けんな」

 誰が怪しい女だと舌を出しそうになったが、エドウィンがより一層刺々しい雰囲気を強めたことで、リアはだらだらと冷や汗をかいて固まる。
 ──お、おかしいわ。エドウィンの機嫌が悪すぎる。
 彼がここまで鮮明な怒りを露わにしたことがあっただろうか。それとも下着泥棒や眼帯男と対峙したときの彼は警戒していただけで、別に怒ってなどいなかったのだろうか。
 とにかくこのブレントンという青年と、何か因縁があるのは間違いないが──これ以上刺激するなとリアは念を送ってみるも、彼女の願いは儚く散ることになった。


「──お前は()()の子どもだからな。キーシンの邪教徒に絆されたか?」