壁一面の本、本、本。
 隙間なく敷き詰められた書架の模様を、リアは間の抜けた顔で暫く見上げてしまっていた。
 国立図書館に足を踏み入れてすぐ、彼女を迎えたのは善神イーリルの彫像だった。女性とも男性とも区別のつかぬ細い右手が、美しいステンドグラスの天井を指差す。
 彩られた陽光が淡く照らすは、深く濃厚な栗皮(くりかわ)色の壁と、彫像から三方向に伸びる臙脂の絨毯。試しに奥の通路を覗き込んでみると、左右に規則正しく展開された書架がリアの視界に現れた。

「すっご……お洒落な図書館ね……」

 思いのほか声が大きかったようで、貴族とおぼしき人たちからチラリと見られてしまった。リアは誤魔化すように笑顔を浮かべつつ、絨毯に沿って歩き始める。
 先程、エドウィンから言われた通りに許可証を職員に見せてみると、建国記が置いてある場所をあっさりと答えてくれた。赤い絨毯をまっすぐ奥へ進んで、突き当たりの大部屋の二階へ上がり、その更に右手へ向かったところです、と。
 そこまで辿り着くだけで少し疲れてしまったリアだったが、しんと静まり返った空間に響く自身の足音と、埃っぽいインクの匂いは、彼女を不思議と懐かしい気持ちにさせる。

「……昔、迷子になってお師匠様に迎えに来てもらったっけ」

 エルヴァスティにも古い図書館があるのだが、ここよりもいっそう古めかしく雑然とした内装のおかげで、幼いリアは見事に迷子になったものだ。他の利用客も見当たらず、一人でしくしくと歩き続けるしかなかった彼女は、やがて通りがかった閲覧席で熟睡。
 捜しに来た師匠から盛大な溜息をつかれ、荷物のように抱えられて帰宅したのだったか。
 過去の恥ずかしい思い出に苦笑いをしつつ、リアは歴史書が収められている書架の前で立ち止まった。

「建国記、って言っても沢山あるのね。クルサード帝国のものまであるし……征服戦争の後ぐらいが良いんだけど」

 背表紙に刷られた年代を確認し、時折手に取って中身も見たりすること数十分。リアは何冊かの記録を抱えて閲覧席へ向かおうとしたのだが、その途中でふと一冊の本に目を惹かれた。
 それは建国記ではなく、宗教の変遷をまとめたもののようだった。

「……へー……イーリル教以外の宗教まで書かれてる」

 考察内容はイーリル教のことばかりかと思いきや、目録にはべドナーシュ共和国の多神教や、エルヴァスティの精霊信仰についても触れられている。征服戦争で潰えることになった国々の思想や文化までもが記されており、単に帝国の栄華を称えるだけの内容ではなさそうだった。
 リアはひょいとその本を抜き取り、閲覧席に広げた。


 ──イーリル教。
 クルサード帝国、メイスフィールド大公国で広く信仰されている。
 世界における、あらゆる全ての事象がイーリルによって導かれていると定義され、イーリルこそが世界の頂点に君臨する唯一神であるとされる。
 悪事を働く者はその決定に背いた逸脱者として断じられる。
 つまり「神の意思」は「善意」のみで構成されたもので、「悪意」は人間から生み出される罪そのものである。


 イーリル教の基本的な定義だ。深く頷けるかどうかは別として、リアもこれぐらいなら一般知識として知っている。
 この善意云々の話が、唯一神であるイーリルの導きに背き、自らの意思で精霊に関わった者を魔女として罰する原因となったのだろう。
 当時の人々に、そのような教義に則った理性があったのかと問われれば、答えは否だが。
 リアは更にページを捲り、故国の精霊信仰についての解説を読む。


 ──エルヴァスティの精霊信仰。
 イーリルや他の神々を包括する全ての神的存在は「精霊」であるとし、人間とは乖離した世界で暮らしているとする。
 彼らは決して人間に寄り添う存在ではなく、あくまで自らの意思に従って行動する。
 人間が精霊の力を借りる際は、己の髪や血を捧げることで服従の意を示す必要がある。
 エルヴァスティの精霊術は前時代的な巫術の色が濃いために、イーリル教会からしばしば忌避される対象である。


 意外にもしっかりと解釈が為されていることにリアは驚いた。
 精霊術師は世間から妖術を使う魔女として誤解されがちで、特にクルサード帝国やメイスフィールド大公国では偏見が酷いはず。この著者は国から罰せられたりしないのだろうかと心配しつつも、その後に記された内容には更に驚かされた。


 ──神的存在の表裏一体説。
 イーリルに限らず、他の地域で信仰されている無数の神的存在を含めて、彼らには全て負の側面があるとするもの。
 エルヴァスティの精霊信仰に基づいたこの説は、善神イーリルへの叛逆として非難されている。
 イーリルに「悪意」が存在するならば、人間の罪である悪事をもイーリルが導いていることになるために、教会は断固としてこの説を認めていない。
 初代メイスフィールド大公が提唱して以降、一部の学者の間で支持されている学説。


「初代メイスフィールド大公……!?」