横たえた巨木を椅子代わりに、長い黒髪を束ねた少年はじっと焚火の赤を見詰めていた。
 くべた薪が弾けるたび、揺らめく焔が形を変えるたび、少年の視界が暗く陰る。

 ──精霊が近い。術を使い過ぎたか。

 忌々しげに舌を打った少年は、齢十四にしては皺の多い眉間を揉みほぐし、足元の鞄を拾い上げた。中には調合用の薬草と乳鉢、携帯用の食料と水筒、それから彼にとって手放せない薬が入っている。
 赤黒い丸薬を一粒手に取り、思い切って口に放り込む。噛み砕いてそのまま飲んでしまえば、次第に周囲の精霊が遠のいていく。肉体を縛り付けるような威圧感が消え、少年は大きく溜息をついた。

「ヨアキム」

 すると、ちょうどそこへ聞き慣れた声が掛けられる。
 木々に遮られた月明かりをくぐって現れたのは、精悍な顔立ちによく似合う金髪と、穏やかな翠玉の瞳を持つ偉丈夫──クルサード帝国の若き大公ハーヴェイであった。
 彼は大振りな仕草で巨木に腰を下ろすと、誰もいない焚火の周囲を鋭く睨み付ける。ヨアキムはその険悪な、ともすれば白々しい行動を横目に見て、ぼそりと尋ねた。

「……何やってるんです? ハーヴェイ殿」
「お前を狙う精霊に威嚇してみた」

 返ってきた子どもっぽい回答に、子どもらしからぬ素振りでヨアキムは肩を竦める。

「あんまり意味ないですよ。そもそも何も見えてないでしょうあんた」
「しかしお前がそのクソほど不味そうな薬を飲む姿は、いつ見ても不健康に思えてな」
「言葉遣いが荒くなりましたね大公殿下」
「おっと、誰かの口調が移ったかな」

 ハーヴェイが指したのは言わずもがな、ヨアキムが今しがた飲んだ丸薬だ。
 これは故郷エルヴァスティに生えている弑神の霊木から採取した葉をすり潰して作ったものだが──彼の指摘通り、人間には少々毒となる。服薬し続ければ男女ともに生殖機能を殺すほか、体に合わなければ命を落とすことも最近の研究で解明され、愛し子の救済策としては下策と言われていた。
 しかし将来、家族を持つ予定のないヨアキムにとってはどうでもよいことだ。この旅の間、一時的でも精霊を退けられるのなら、後々死のうが何でも構わない。
 そんな話をハーヴェイにしたら──その屈強な腕で張り倒されそうなので、多分この先も言わないだろう。

「で? あっちは何騒いでるんですか」

 丸薬を鞄の奥底に突っ込んだヨアキムは、妙に騒がしい帝国軍の陣営を振り返る。立ち並ぶ天幕の奥で、誰かの泣き喚く声と笑い声が混ざっている。
 ヨアキムの視線の先は追わずに、ハーヴェイは温かい焚火に手をかざしながら笑った。

「いや、大したことじゃない。昼間に山間の集落を経由しただろう? そこでチャドが若い娘に一目惚れしたらしくてな」
「あー……また振られたのか」

 チャドも懲りない男だ。行軍中に女に惚れてこっぴどく振られるのを、もう十回以上は繰り返している。一体どうして全く学ばないのか、帝国軍の七不思議と揶揄われることもしばしば。
 自分より幾つも年上の大人がバカ騒ぎしている様に、ヨアキムが遠い目をしている傍ら、「それがな」とハーヴェイは心底困ったような声で語る。

「今回は私をダシにされたみたいだ」
「……? どういうことです?」
「その村娘が、私のことが好きだ何だと言ってチャドを振る口実にしたのさ。だから今日はいつも以上に荒れて──身の危険を感じてお前の元に避難してきた」
「あんたらマジで何してんですか?」
「や、モテる男はつらいな!」
「自分で言うな」

 これだから都会の色男は、というのはチャドを含めた兵士たちの口癖である。無論、それは上官であるハーヴェイに向けての非難に他ならない。
 彼は既婚者で子どももいるのだが、如何せん見目が良く、また侠気(きょうき)のある男ゆえに女性から大変な人気を誇っていた。行軍の途上で立ち寄る集落で、若い娘からきゃあきゃあと騒がれるのは毎度のことだ。
 本人にその気はなくとも、周囲にとっては罪作りな男なのだろうということは、ヨアキムにも十分伝わる具合だった。

「奥方が知ったら眩暈でも起こしそうですね」
「待てヨアキム、私は誓って誰にも手を出していないぞ。愛する妻と子どもたちを裏切るものか」
「はいはい」

 大袈裟に両手を挙げたハーヴェイを一瞥し、ヨアキムはふと息をつく。意図的ではないが、家族の話になると鬱陶しげな顔をしてしまうことに自分でも気が付いていたから。
 ふっと視線を顔ごと逸らした少年に、ハーヴェイは広げていた両手をゆっくりと下ろす。
 藍色の空にぽつんと佇む月。その下では絶え間なく虫の音が響き、また火の粉が爆ぜる。遠くに聞こえる喧騒を背景に、一定した静寂に身を任せていたヨアキムは、しかして唐突に頭をわしゃわしゃと撫でられて驚いた。

「うぉあ!? 何だよ!?」
「はあーヨアキム、良いことを教えてやろう。人間、長く生きていれば価値観なんてコロコロ変わるぞ。私だって数年前まで家族を持つ気はなかったからな」
「え」

 意外な発言に目を丸くして振り返れば、してやったりな笑顔に迎えられる。
 瞬時に顰め面へ切り替えたヨアキムだったが、朗らかな笑い声に苛立ちは掻き消されてしまった。

「兄上……いや、陛下の剣として生きるのが、私の人生であり誇りだった。他には何も要らなかったぐらいにな」

 兄シルヴェスターと共に戦場を駆け、この大陸に真の平穏をもたらす。それこそがハーヴェイの人生における、最大の目標だったという。
 だが彼は数年前に妻と出会って、幸運にも子を授かったことで、世界の彩りが増すような不思議な感覚に陥ったと語る。

「私と陛下は家族というよりは同志……共に戦う仲間と呼んだほうがしっくり来るよ。一方で妻と子どもたちは愛すべき存在で、守るべきもので──気付けば生きる意味になっていた」

 翡翠の瞳はどこまでも優しく、慈しみに満ちていた。戦場で猛々しく剣を振るう姿とはまた違う、父親の顔だった。
 ヨアキムが何も反応を示さずにいれば、その瞳が目敏く少年の心を見透かす。

「ほら、今思っただろう。俺には関係ねーよ黙れオッサンとな」
「うるせぇぞオッサン」
「そう拗ねるな。お前みたいな奴ほど嫁の手料理をべた褒めするし子どもが出来ると過保護一直線になるんだ。私には鮮明に想像できるぞ!」
「んなわけあるか! それ全部あんたのことだろ!」
「まあ否定はしない!」

 気恥ずかしさと苛立ちが再燃し、ヨアキムは鞄を片手に立ち上がった。天幕へ戻ろうと背を向けたとき、笑い交じりの声が掛けられる。

「ヨアキム」
「まだ何か?」
「別に家族を作れとは言わん。誰でも良いさ、お前が必死になって生きたいと思えるほどの存在が現れたら、そのときはぜひ教えてくれ」

 ──約束だ。