はからずもアナスタシアの一人劇場を観てしまったリアは、半ば放心状態で貸し与えられた自室へと戻ってきた。
 皇宮のメイドが運んでくれた荷物をほどきながら、彼女はひとり首を傾げてしまう。

「私、何しようと思ってたんだっけ……」

 イヴァンからモーセルの杖について聞き出した後、師匠の元へ行こうとして断念したのだったか。
 直後にアナスタシアとそのファンクラブに遭遇し、皇女の秘めた想いを劇的に伝えられてしまい──都会って怖いなとリアは改めて頬を引き攣らせる。
 いや、厳密に言えば恐ろしいのは、ガーランド皇室の人間が特殊な性格をしているという一点のみなのだが。

「取り敢えず……惚れ薬はこれで良いか」

 ゴトッ、と師匠の荷物から抜き出したのは濃い緑色の酒瓶。中に入っているのは消毒用の酒なのだが、これはあくまで予備なので人が飲んでも問題は無い。
 それに治療のために持ってきたと豪語しながら、ヨアキムが自分で瓶を空にすることが殆どだ。少しぐらい拝借しても罰は当たらないだろう。

「で、ええと……まだ残ってたかな」

 惚れ薬──を依頼されたときに渡す代わりの偽薬には、専用と言ってもよいほど定番の香りが付けられる。べドナーシュ南方に棲息するネコ科の動物、彼らが分泌する体液を薬に練り込むのだ。濃厚な甘い香りは媚薬にも適しているとされる一方、分量を少しでも間違えれば嘔吐感を催すので扱いには注意が必要である。
 痛みから意識を逸らすための麻酔としても利用されるため、リアも何度か治療に使ったことはあったが、獣の体液を混ぜ込むなどいよいよ魔女の烙印を押されかねないなと苦笑がこぼれる。

「ま、アナスタシア様が飲むわけじゃないから別に…………」

 調合を始めようかと乳鉢を手にした直後、リアははたと動きを止めた。
 惚れ薬を用意する者がいるのなら、惚れ薬を服用する者がいるのは当然だ。今回はアナスタシアが片思いをしているとおぼしき男性が、このとんでもなく甘ったるい匂いを放つ酒を飲むわけだが──。

「アナスタシア様、一体誰を惚れさせたいのかしら。あの独白を聞く限り、相手はちょっと遊んでそうよね」

 そこでリアはエルヴァスティの薬師直伝、惚れ薬の飲ませ方(推奨例)を思い返す。

 まず初手、「これは惚れ薬だ」と相手に宣言する。これを飲めばお前は私に惚れるぞと脅しを入れることで、まずは相手の反応を窺うのだ。冗談と思って笑ったならそのまま続行、激しい拒絶を見せたなら思い止まることも出来るので、ここが依頼者にとって最後の踏みとどまるポイントでもある。
 次、実際に飲ませてみて反応を窺う。偽薬効果とは恐ろしいもので、酒を惚れ薬だと思い込むことで相手もその気になりやすい。既に相手が好意を抱いている状態なら尚更、依頼者のことが魅力的に映り、惚れ薬にかこつけて勝手に盛り上がってくれるという算段だ。
 ちなみに相手が惚れ薬設定に全く乗ってくれなければ、残念ながら計画はそこで終了である。潔く諦めるべし。

 ──まごうことなきインチキだが、これが理想的な流れだった。薬師の作る惚れ薬は相手の心を操るものではなく、あくまで互いを思い合う二人が一歩踏み出すために、そっと背を押す代物だということを強調しておこう。
 しかしこの飲ませ方、少々難点があるのも確かで。

「相手が遊び人だったら惨いことになるって、お師匠様言ってたな……」

 惚れ薬を使ってまで気を引きたい依頼者の想いを、真摯に受け止めてくれる人間がいる一方で、人の好意を弄ぶ輩がいるのもまた事実。
 薬の効果が出たフリをして、依頼者を散々振り回して捨てるという最悪な行動に出る者は少なくなかった。無論、それは惚れ薬などに手を出した罰だと言う意見もあるが──今回の依頼者は一国の皇女だ。
 皇女がどこぞの男に遊ばれて捨てられるなど、断じてあってはならないのである。

「……ちょっと、よく考えた方が良いわね。そんなことになったら私の首が刎ねられるし」

 リアは調合用の器具から手を離し、再び部屋の外へ。
 廊下へ続く扉を開けてみると、護衛の騎士がそこに立っていた。

「如何されましたか、オーレリア様」
「あの…………ええと」

 皇女の想い人は誰か知っているかなど聞いてよいものか。上手い尋ね方が思い浮かばずにもごもごとしていると、二人の騎士が不思議そうに顔を見合わせる。
 すると一人が何かを察した様子で、ぴしっと姿勢を正した。

「ゼルフォード卿ならそろそろお戻りになられる頃ですよ」
「え?」
「あっ。失礼いたしました」

 読みが外れたとばかりに口元を覆う騎士と、それをすかさず肘で小突く同僚。真面目そうな二人をしばし見上げていたリアは、それだと手を打つ。
 エドウィンなら皇女と関わりがあるだろうし、想い人についても何か知っているかもしれない。
 騎士曰く、彼はキーシンの残党が目撃された地域に向かっていたそうで、今日ようやく報告に戻ってくるのだとか。仕事の邪魔をするようで気は進まないが──久しぶりに会いたい気持ちが勝ったリアは、いそいそと部屋を後にしたのだった。