大きなため息が自室に響く。王妃様からのお使いはお母様に届けたから問題ない。でも、今日で全部片付かなかった。

 まさかあんなところでハインツに会うなんて。しかも、告白つき……!

 部屋の真ん中で、ただただ頭を抱えた。

 アパルトマンもまだ引き払えないし、ハインツには最低でも、もう一度会わなければならない。
 
 侍女のニーナが目の前にティーセットを配置しながら憤慨する。
 
「お嬢様、なんとおいたわしい……。お嬢様という婚約者がありながら、見知らぬ女に手を出そうとするなんて……」
「落ち着いて。その田舎娘は変装した私なんだから」
「でも、ハインツ様は知らないのですよね?」
「ええ、多分ね……」

 これで演技だったら、今すぐ次期公爵なんかやめて劇団員になったほうがいい。この国一番の俳優になれること間違いないわ。

「だったら、有罪です! 許せません!」
「シーッ! あまり大きな声を出したら他の人に聞かれてしまうわ。この秘密はあなたとジュエラしか知らないのよ?」
「申し訳ございません」
 
 ニーナは慌てて部屋の扉を開け、廊下を確認する。誰もいなかったようで、安堵のため息を漏らした。
 
「それにしても、困ったわ……」
「本当に夜会に行かれるのですか?」
「アパルトマンの場所はバレているし、行かないわけにはいかないわ。話をつけないと」
「でも、なぜ夜会にしたのですか? もう一度会いたいというハインツ様の希望を叶えるなら屋敷の訪問でもよかったのでは?」
「二人きりになりたくなかったのよ。一目があれば変なことはされないでしょう?」
 
 ハインツには前科がある。馬車の中での出来事は忘れてはいけない。穏便に「運命」とやらにけりをつけないと。
 
「婚約はどうなさるのですか? まさか、このまま何も知らなかったフリを?」
「知らないフリをするのがお利口さんよね。相手はロッド家でしょう?」
 
 ロッド公爵家は王家の血筋。我が家から婚約破棄を申し出るのは難しい。公爵家というが、ハインツの父親のロッド公爵は何を隠そう国王陛下の弟君。本来なら『王弟殿下』と呼ぶべき相手なのだ。
 
 結婚の際、臣籍降下して王位継承権を放棄しているから、王族として数えられていないだけ。ただの貴族間の婚約とは違ってくる。
 
 お父様とお母様が自由な恋愛を私に勧めてくれたら、こんなことにはならなかったのに。でも、先日までの私はこの婚約に乗り気だったし、世界一幸せだと思っていたのだから文句も言えないわ。
 
 私の変装後の姿を好きになったなら、オリアーヌとの婚約ら破棄してくれないかしら? まあ、私たちの婚約が破棄されても、運命の相手は彼の前には現れないのだけれど。
 
「この機会にどうにかできないものでしょうか? 話を聞くに、ハインツ様はお嬢様に情などないようにおもいます。きっと今回の問題が片付いても、また別の運命の女性が現れるだけだと思うのです。こんなに蔑ろにされているのに、婚約を続けても幸せになれると思えません」
「今回のことは由々しき事態だと思うわ。でも、私ってそんなに蔑ろにされていたの?」
 
 この一件がなければ、私とハインツは普通の婚約者だとおもうけど。
 
「今まで、王宮で行われる公式の場でしかエスコートをしてくださいませんでした。普通……という言葉を使って良いのかは分かりませんが、婚約者であるならお二人でもっと社交場に顔を出してもおかしくはないかと」
「お仕事で忙しくても?」
「社交も貴族の仕事のうちでございましょう? 旦那様も、お二人の若様も、お忙しい身ではありますが、社交場へは多く参加されております」
 
 ニーナがそう感じるのだ。他の人だってそんな風に私とハインツを見ていたのだろう。挨拶代わりの賛辞を述べながら、影では笑っていたのかもしれない。
 
「それに、ハインツ様がお嬢様を尊重していれば、お嬢様のおかしな噂だってなかったはずです」

 そういえば、そんなこともあったわ。

 影で変な噂が流れているのは知っている。身分も婚約者も申し分なく、美しい私は少しばかり敵が多い。私から作っている訳ではないので、こればかりはどうしようもないと諦めている。
 
「たしか、『次期公爵夫人だということを盾にして令嬢たちをいじめている』だったかしら?」
 
 根も葉もない噂だ。いじめるほど社交場に出ていない。けれど、いじめられているかわいそうな令嬢が何人もいるらしい。
 
「そんな馬鹿な噂、ほうっておいて良いのよ。私の近しい人たちは、信じるはずないもの」
 
 お兄様たちなんて、私の噂を聞いて笑い飛ばしていた。侯爵家に生まれた以上通る道だと言っていたわ。特に我が家――メダン侯爵家は政治のみならず事業にもいろいろと手を伸ばして成功を納めている。お兄様たちも今までにきっといろいろ言われたのだろう。
 
 ハインツの耳にもそんなありもしない噂が入っていたけれど、以前「根拠のない噂は堂々としていればそのうち消える」と気にした様子もなかった。曲がりなりにも私たちは婚約者で、幼い日からの付き合いなのだから、噂が本物かどうかくらい分かるのだろう。
 
「お嬢様、私は不安でたまりません。これからどうなさるおつもりですか?」
「大丈夫よ。家のためだとしても、この婚約をすんなり受け入れるほど私だって馬鹿じゃないわ」
 
 私が蒔いた種だもの。けりをつけなくてはいけない。
 
「今のままでは、メダン家からロッド家へ婚約を白紙にしたいという申し入れは難しいわ。相手は腐っても王族の血筋。なら、理由を作ればいいのよ」
「理由でございますか?」
「そう、例えば『田舎娘に手を出している噂』とか、ね」
 
 ニーナの瞳が見開かれる。
 
 ただで夜会に行くつもりなんてないわ。報酬は得ないと。